君色の輝き 番外編

誠志朗視点
その1 意外な手掛かり



滝のような雨が降っていた。
車を駐車場に停め、マンションに入ろうとしていた誠志朗は、携帯が鳴り、すでに全身が雨でずぶぬれになっているというのに立ち止まって、ポケットから携帯を取り出した。

渡瀬芹香の名を認めて焦って出ようとし、あろうことか彼は携帯を取り落としてしまった。
落ちた場所は運の悪いことに、この雨で出来たばかりの水溜りだった。

水の中から慌てて携帯を拾い上げたが、携帯はうんともすんとも言わない。
誠志朗は絶望感に声も出なかった。

しばらく雨に濡れたまま立ち竦んでいたが、やっと正気に戻り部屋に戻った。
ポタポタと雫を垂らしながら、後先考えることも出来ず、床を濡らしながら風呂場に入った。

芹香が突然消え、彼は戸惑いと混乱の中で数日を過ごした。

彼女の存在が消えた。

令嬢との入れ替わり、そして突然彼の前に現れたことも、なにもかも非日常的で、彼女の存在自体、初めからありはしなかったのではないかという感覚に囚われて、誠志朗はぞっとした。

電話が嫌いだなどと言っていられず、何度も電話したが携帯は繋がらなかった。令嬢も社長も、彼女の行方を知っている筈なのに教えてはくれない。

彼女からの連絡をただ待つことしか出来なくなっていたのに、そのただひとつの連絡の手段を自らなくしてしまった自分を、彼は呪い殺したかった。

頭からシャワーを浴びながら、誠志朗は虚脱感に襲われて、バスタブの縁に座り込んだ。
まだ彼女を探す手段がなくなったわけではない。そう考えて、彼は自分を慰めた。

渡瀬家の面々は、彼女を知っているのだ。それだけは間違いない。
どうしても彼女を見つけられなければ、頭を下げてでも…

誠志朗は奥歯を噛み締めた。
令嬢に頭を下げるなどと、考えるだけでも嫌だ。
だが、手段がそれしかないのであれば、彼は頭を下げるだろう。

少し希望が見えたことで、彼は落ち込みから少し抜け出せ、いま自分が出来ることを思いついた。

誠志朗は急いで風呂から出た。
手早く着替えると、父親の経営している電気店まで走った。
息切れしながら携帯売り場に来たものの、すでに営業時間は過ぎていて、今日のうちの買い替えは無理と言われた。

がっかりして帰ろうとしていたら、賢司が声を掛けて来た。

「母さんが、兄さんに電話掛けるけど繋がらないって言ってたよ」

「携帯、さっき水の中に落とした。新しいのに買い換えようと思ってきたんだが、明日でないと駄目だって言われた」

誠志朗は自虐的に笑った。
そんな兄の表情に、賢司が眉を寄せた。

「そっか。母さん、なんか用事あるようだったよ。母屋に顔出してきなよ」

誠志朗は気の重さで酷く面倒だったが、マンションに戻ったところで何かするわけでもない。
居間を覗くと、絵手紙を書いている母親がいた。

「なんか、用あった?」

「誠志朗、あなたの携帯おかしくない。全然繋がらないわよ」

誠志朗はため息を殺して同じ説明を繰り返した。

「それで、用事は?」

そう問いかけても、手にしていた筆を置いて、母親は自分の書いた作品を持ち上げて思案するように首をひねっている。

「母さん?」

いらだたしげな彼の催促に、母親はやっと返事をしてくれた。

「なんか、…良く分からないんだけど」

そう言ってから、もう一度、作品の出来を確かめ、自己評価が終わったのか、今度は誠志朗にまともに向いてくれた。

「大成の通学カバンの中に、あなた宛ての手紙が入ってたのよ。あの子いつでも空のお弁当箱入れっぱなしだから、それ取り出そうとした時に気づいたんだけど」

「手紙?俺宛の?」
誠志朗は首をひねった。

「大成に聞いたら、人の鞄黙って開けるなよって怒鳴られちゃったわ。理不尽過ぎない。いつも自分でお弁当箱出さないから、仕方なくわたしが出してるのに…」

酷く落ち込んでいた誠志朗は、たいして興味を抱けなかったが、確かに彼宛の手紙を大成が持っているというのはおかしな話だ。

「それで、その手紙は?」

「知らないわよ。つい二時間くらい前のことだから、もちろん、まだ持ってると思うけど。凄い剣幕で怒って、絶対にあなたに言うなって」と、罪悪感などまるでなさそうにくすくす笑う。

誠志朗は迷った。
腑に落ちない話に気にはなったが、落ち込みは極限まで達しているし、このところ食欲もなくてあまり食べていないから、出来れば戻って休みたい気もした。

「ああっ、母さん」

大成の大声に、誠志朗は顔を向けた。
居間の入り口に立った大成は、ものすごい剣幕で母親を睨んでいた。

「兄さんに話したなぁ」

大成らしくない、怒りを含んだ声だった。
誠志朗は物珍しげに眺めた。

「そりゃぁ、話したわよ。誠志朗宛ての手紙なんだもの」

いくぶん、気まずそうだが、あまり反省はしていなさそうだ。
誠志朗は笑いを堪えた。

「もう処分したから、ないからっ」

その言葉に、手紙のことなど気にもとめていなかった誠志朗も呆気に取られた。
他人宛ての手紙を勝手に処分した人間の取る態度ではない。

「まあ大成」

「お前、ひととして恥ずかしくないのか」

誠志朗の怒鳴り声に、大成がびくっと肩を震わせた。
ついで気弱な声でこう言った。

「駄目なんだよ。約束したんだ返すって。だから絶対に渡せない」

「ちょっと来い」

誠志朗は嫌がる大成を、大成の部屋まで引っ張って行った。
居間か書斎でも良かったが、プライベートな場所の方が良い気がしたのだ。

大成は、誠志朗の前で、ぐっと歯を噛み締めている。
絶対に一言も口を聞くものかという信念が燃え立つようだ。

「俺に宛てた手紙なんて、いったい誰から預かったんだ?」

口を、あるだけの力を込めて閉めているという感じだ。
誠志朗は可笑しくなって来た。
手紙一通のことに、なにをそこまで、と思えた。

「預かったのに、出した当人が返してくれって言ってきたのか?」

大成がこくりと頷いた。
言葉にしなければ、差しさわりはないかのようだ。
噴出しそうになるのを彼はぐと堪え、弟に微笑み掛けた。

「まあ、いいさ。捨てたわけじゃなくて、本人に返すってんなら」

その言葉に、大成がパッと顔を上げた。
あからさまにほっとした表情をしている。

「良かったぁ。だって、いまさら渡しても仕方ないんだよ。もう兄さん彼女いるんだし。預かったのもずいぶん前のことでさ、去年の12月なんだ」

誠志朗は眉をひそめた。

「去年の12月?お前、そんなに以前貰った手紙、なんで渡しもしなければ、その子に返しもせずに、ずっと持ってたんだ」

「兄さんが悪いんだよ」

そう言って、すごんでくる。
まるで誠志朗が、犯してはならない過ちを犯したかのように、大成の目は彼を責めている。

「俺が…か?」と、誠志朗は眉をひそめて髪を掻きあげた。
身に覚えの無いことで責められても困る。

「その子のこと、覚えてないって言ったからさ。手紙渡しても彼女が傷つくだけだと思ったんだ。それで、渡せなくて。でも、彼女の言うにはその手紙、ラブレターとかじゃなかったんだってさ、礼状だったんだって。つい最近聞いたんだけど」

「礼状?俺に?なんの?」

誠志朗は興味を引かれてそう尋ねた。礼状など貰うような覚えなどまったくない。

「もうこれ以上は話せないよ」

「気になるだろ。ここまで話したら同じことだろ」

大成がしばらく迷った挙句、やっと話し始めた。

「彼女が言うには、なんか兄さんに鉢植え貰ったって。僕の見舞いに先生からの頼まれ物持ってきて、彼女、誠志朗兄さんに会って話をしたって言ってたよ」

誠志朗の顔は、驚きのまま凍った。

「に、兄さん、どうしたのさ?」

「その子の、名前は?」声が震えた。
あの日のことが、一度に頭の中を駆け巡った。

「言えないってば」

「大成、手紙を出せっ」

誠志朗は大成に詰め寄った。

「だ、駄目だよ。彼女に返すんだから」

「いいから出せっ」

誠志朗のあまりの剣幕に驚いたものの、大成は約束をホゴになどできないと最後まで突っぱねてきた。

大成の心意気には感心したが、いまはもどかしいばかりだった。

あの時の彼女は、ずっと心に住んでいた。
一度会っただけの女性なのに、どうしても彼女のことが忘れられなかった。

もう一度会いたいとそればかり願って、ふたりが逢った同じ曜日同じ時刻に、宮島家の前をうろうろしていたことも一度や二度ではない。

それなのに、真帆に対するありえない感情。
それから真帆と入れ違いに現れた芹香。

芹香に恋をして、彼女に告白して付き合うことになった翌日、寝起きに見た彼女の素顔。
その彼女は見間違えようもなく、誠志朗が忘れようとしても忘れられなかったあの時の女性だった。

だが、芹香はふたりの初めての出会いを忘れているのか、故意に話さないだけなのか何も言わない。

心にわだかまるものはあったが、芹香は側にいるし、彼女が忘れているのなら、それでもいいと思った。

ありえそうには思えなかったが、万が一、他人の空似だった場合、芹香にすればその彼女の存在は嬉しくないだろうと思ったし、その女性の面影を彼女に求めているのではと疑われては困ると思ったのだ。

どうしても手紙を出さない大成の粘りに一端誠志朗は折れ、違う質問をぶつけた。

「俺が忘れてたって、どういうことだ。そう言えば、お前どうして彼女を知ってるんだ?」

「どのみち、いまさら話しても仕方ないと思うんだけどなぁ。まあ、名前を言わなくていいなら…」

大成は、しつこく質問を続ける誠志朗にため息をついて、また話し始めた。

「彼女は僕と同じクラスの同級生だよ。たまに話してたろ。大怪我して変身しちゃった子のこと。それが彼女さ」

誠志朗は一瞬頭の中が真っ白になった。それからありえないというように笑った。

「そんなはずは…あの時、彼女は青いワンピースと白いコートを…」

「えっ、兄さん彼女に逢ったこと覚えてたの?初めて会った時のことは覚えてないって言ったのに」

「彼女とは、その時しか逢ってないぞ。初めての時っていったい…」

「だからさぁ、逢ってるんだって。文化祭の準備するのに役員仲間がみんな来たんだ。荷物いっぱい抱えて。彼女は最後の方に歩いてきてて、模造紙かなんか落としたんだ。それを兄さんが拾ってあげたんだよ」

そこまで言って大成は一息ついた。

「彼女が持ってた重い荷物、僕に押し付けたろ。覚えてない?それで彼女の手を掴んで、僕に…こんなに赤くなってるって言ったんだ。それで僕が…」

「女の子の手を簡単に掴むなって怒鳴られた」

誠志朗は気分が悪くなってきた。息が苦しい。
あれが彼女だったのか。
あの時のことは覚えていたが、制服を着た女生徒の顔などまったく覚えていなかった。

「なんだ覚えてるんじゃん」と大成が言った。

「お前こそ、よく覚えてるな」と誠志朗は無意識に言った。
大成がむーっとした表情をしたことには気づかなかった。

誠志朗は天井を見つめ、この真実を胸に受け入れた。

大成と同じなら、九つも歳が違う。
だが、彼女はそうと知っていて彼を求めてくれたのだ。
そして、真実を告げられずに自分の世界に戻ってしまった。

悩む必要も、考える必要も何も無い。
彼女を忘れることなどとても出来やしないのだ。

「大成、彼女の名前…教えてくれないか?」

彼女の本当の名前が知りたかった。絶対に偽名を使っているに違いない。

大成は押し黙っている。だが、彼が答えないだろうことは分かっていた。

「渡瀬芹香じゃないよな、多分」

「えっ」

思わず呟いた呟きに、大成が反応した。

「そうなのか?」

「ち、違う。似てるけど…」

「そうか」

もう名前などどうでも良かった。

「大成、手紙返すって、どうして今になって。彼女お前が後生大事に持ってること知ってたのか?」

「いや、ついこの間、渡してないって話したとこ」

「はっきり教えてくれ。日にち」

大成がため息をつきながら「九月一日」と言った。
誠志朗は分かったというように頷いた。

とすれば、逢っていた間、彼女は誠志朗が手紙を受け取ったと思っていたわけだ。
加えて礼状に対する返礼すらなかったと。
そこまで考えて、誠志朗は眉を潜めた。

「大成…お前、俺からの返事がないことについて、彼女になんて言ったんだ」

大成の背中が目に顕なほど強張った。

「大成?」

「兄さんからの…」
そう言ったところで、大成は口を閉じてしまった。

「大成?」

「返事は無いって言った。兄さんとは歳が違うんだから気にすること…ないって…」

誠志朗は大成の言葉に、ハッと喘いで目を閉じた。芹香の気持ちを思って胸が鋭く痛んだ。

「彼女、ものすごい傷ついた顔して、クラブにも出ずに走って帰った。それで…」
大成が苦しげに息をついて「事故に遭ったんだ」と言った。

「事故の後の彼女は、ひとが変わったみたいになって…。それもすべて自分のせいだって、ずっと後悔してた。…でも、この間やっと許してくれたんだ。事故も僕のせいじゃないって言ってくれて…」

誠志朗は密かに笑った。真帆の芹香には大成も手を焼いただろう。
その一方で、芹香のことが不憫でならなかった。

「大成、頼みがある」

「何?」

「ちょうどうまい具合に、明日は休みだ。どこかに彼女を呼び出して、その手紙を渡してくれ、俺もついてく。時間は、そうだな…」

「駄目だよ。兄さんおかしいよ。なんでそんなことするのさ。彼女がいるくせに」

「大成、一度だけ聞く。その子のこと、好きなのか?」

大成が突然の質問に目をまるくした。

「そ、そんなの良く分からないよ」

「そうか。彼女の携帯番号知ってるか?明日の…そうだな、朝十時だ。電話しろ、いますぐ」

「で、でも、彼女具合が悪くて、ここ三日間学校を休んでるんだ。それなのに、明日十時なんて呼び出せないよ」

具合が悪いという言葉に、誠志朗はひどく顔を曇らせた。

「夏バテとかって話だけど」と大成は言いながら、しぶしぶ携帯を取り出した。




   
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