恋風
その1 風のささやき



いつの間にそんな話になったのか、放課後、佐倉葉奈(さくら・はな)は友達ふたりと、好きなひとは誰なんてことを話題に、放課後の時間を消費していた。

いま外は耳鳴りがしそうなほどの土砂降りだ。
クラスにはまだ大勢が残っていて、それぞれのグループで顔をつき合わせて話し込んでいる。
みんな、雨の降りが少しでも弱まるのを待っているのに違いない。

葉奈たちの話題にのぼっているのは、学年一の秀才、波根悟(はね・さとる)と、剣道部主将の神田隆盛(かんだ・りゅうせい)だった。

ふたりは正反対の容姿をしている。
優等生そのものに見える端正な顔立ちの波根。野性的な浅黒い肌をした、どんな時でも隙を見せない神田。性格も、その容姿を裏切らない。

野本友紀(のもと・ゆき)と牧野理穂(まきの・りほ)は、ふたりそれぞれに、自分の憧れの相手がいかにいいかを論じて張り合っているところだった。

友紀は波根、理穂は神田がカッコイイと言って譲らない。

このふたり、同じ人を好きにならなくて良かったねと喜び合うべきなのじゃないかと、葉奈は内心苦笑していた。
結局のところ、ふたりの思いは、アイドルに対する憧れの域を出ない程度のものなのだろうか。

「何の話ししてんのぉ?」

跳ねるような元気な声が飛んできた。
声の主は葉奈の机に手と顎を乗せると、まるで人懐こい子犬のような仕草で、葉奈を見上げてきた。

愛らしい目をくるくるさせている彼女は、小原綾乃(おはら・あやの)だ。

「綾乃、間に合ったの?」

「なんとかセーフ。吉永先生、あの優しそうな目で、次、授業中居眠りしたら…」

そこまで言って綾乃の頬がぷくっと膨れた。
おちょぼになった唇が可愛く尖っている。

「居眠りしたら?」葉奈は苦笑しつつ聞き返した。

「反省文、原稿用紙5枚にするって。2枚書くのでさえ精一杯なのにぃ」と、器用に唇を尖らせたまま綾乃が言った。

「綾乃、居眠りしなきゃいいことなのよ。それにしても、なんで吉永先生の授業ばっかり寝ちゃうのよ?」と、葉奈は呆れ顔で聞いた。

「だって、吉永先生の声、眠り誘うんだもん」

「綾乃ってば」
葉奈は友紀と理穂とともに笑い声を上げた。

吉永彰人(よしなが・あきと)は彼女達の担任だ。
まだ教職三年目で、担任という職業にとても情熱を燃やしている。
普段はとてもやさしい先生なのだが、授業態度には手厳しい。

「そいで何の話ししてたの?ずいぶん盛り上がってたじゃん」

「ああ。波根君と、神田主将、どっちがいいかって話し」

葉奈がそう言った途端、またバトルが始まった。
先ほどまでと同じような掛け合いがしばらく続き、愉快そうに笑っていた綾乃がおもむろにこう言った。

「先生なんてどうよ?」

「先生?」
友紀が薄い反応で笑い、鼻に皺を寄せた。

「先生なんてダメダメ。わたしらなんか相手にされるわけないから、話題の盛り上がりかけるよぉ」
友紀に同意して、隣に座っている理穂が頷きながら、話を引き継いだ。

「そうよね。それでも伊坂先生とか倉知先生とかいいかなぁ。あと、根岸先生も渋くていいかも」

理穂は、くすくす笑いながらそう言うと、ちらと窓の外に目を向けた。

少し雨脚が弱まって来たようだ。
友紀と理穂はそろそろバイトの時間が迫っている。
ふたりとも同じハンバーガー屋さんでバイトをしているのだ。

「伊坂先生は新任だから、歳が近いこともあるしものすごい人気あるよね。あのクールな顔がたまんないって。まあ、どんな男も波根君の比じゃないけどさ」

つまりは自分の好きな男が一番発言で話を締めくくると、友紀は立ち上がった。

「あ、あと、吉永先生もなかなかなもんだよ」と付け足しのように友紀は言って笑った。
吉永の名に綾乃がまた唇を尖らせた。

「そろそろ行かなきゃ。わたし、昨日失敗して怒られたとこだから遅刻したくないんだ」
理穂が少しテンション落とし気味に言った。

バイトも大変そうだなぁと思うものの、やはり葉奈は羨ましかった。
親から止められていて、彼女はまだバイトの経験がなかった。

ふたりが帰ってしまい、その後姿を目で追っていた綾乃が葉奈に振り返った。

「で、葉奈は、誰か好きひといないの?」

「いまはいない。でも、吉永先生はいいよね、目がやさしい」

吉永の温厚そうな顔を思い出して、微笑みながら葉奈は言った。
少し目じりがさがったところなんか、見ているだけで心が和む。

反対に伊坂の眼差しは、ちょっと怖い。
整った細面の伊坂の顔全体の印象は嫌いじゃないし、授業中、生徒の答えを聞いている時など、教卓に凭れてて上半身を傾けている姿には、どきりとしないこともない。
だがいかんせん、伊坂の視線の鋭さが葉奈は苦手だった。

一緒に過ごすとすれば、あたたかな眼差しのひとの方がだんぜんいいに決まっている。

「吉永先生か…」

「綾乃、恋とかそういうんじゃないからね」

「でも、葉奈は和み系が好きなんだ」

そう言って、なぜか綾乃は腕組みをして、なにやら考え込んでいる。

「和み系ねぇ。うーん。どうなのかなぁ?よく分からないわ。それで、綾乃は? 誰か好きなひといるの?」

「ふふん、ひ・み・つ。ところでさ、葉奈、一緒に帰ろ」

「でも、綾乃、バスでしょ?」

葉奈は電車通学だ。

「いいから、いいから。ほら、鞄持って」

綾乃に背中を押されて、葉奈は歩き出した。
制服の胸ポケットから携帯を取り出した綾乃は、歩きながらポポポッと忙しく親指を動かしている。

背が低く見た目も可愛らしい綾乃と並んで歩いていると、葉奈は自分の中から…あるとすればだが…可愛らしさというものがすべて消えてしまうような気がする。

この間も綾乃と映画を観たあと、喫茶店でお茶していたら、ふたり連れの男が声を掛けてきて、葉奈のことをお姉さんと呼んだ。

高校生らしい彼らは、どうも葉奈のことを大学生かOLとでも思ったらしかった。
ショックだった。彼女はよほど老け顔に見えるらしい。

老け顔であろうと、かわいらしくみえなかろうと、葉奈はぴらぴらひらひらの服が大好きだ。
部屋のカーテンはピンクの花柄だし、寝る時はぴらぴらたっぷりのネグリジェばかり着ている。

あのお姫様チックなネグリジェを着た葉奈を見たら、きっとみんな、ひっくり返るだろう。

それなのに、綾乃は葉奈のことをいつだってうらやましがる。

ひと月前の綾乃の誕生日に、葉奈好みの特別かわいらしいキャミソールをプレゼントしたのだが、どうも喜んではもらえなかったようだ。
微笑んでありがとうと言ってはくれたけれど。

大人びた服の綾乃は、彼女のかわいらしさが半減して見える上に、正直、かなり無理がある。

「吉永先生は、和み系か、確かにそうだね」

下駄箱で靴を履き替えながら葉奈は思い出したように言い、屈みこんで靴の紐を結びなおしていた綾乃を見た。
綾乃の指が止まったまま動かない。

「綾乃?」

「吉永先生、優香っちと付き合ってるみたい」
綾乃が呟くように言った。

その綾乃の声に淋しさを感じ取って、葉奈は眉を寄せた。

優香っちというのは宮部優香(みやべ・ゆか)のことだ。
伊坂と同じく新任の先生で、彼女達の副担任。

吉永と宮部は、担任、副担任の間柄なのだから、当然、ふたりの接触は多いだろう。

吉永と宮部のふたりを並べてみると、たしかに納得するものがある。
口元にかわいらしいえくぼが浮かぶ宮部と、やさしげな吉永はお似合だ。

「綾乃、もしかして吉永先生のこと…」

「違うよっ。綾乃、吉永先生みたいなおじさん好きじゃないもん。波根君や神田君の方がよっぽど…」

「よう、ふたりとも気をつけて帰れよ」

綾乃が目と口を開いたまま固まった。
葉奈は綾乃の分も頭を下げた。

きっと耳に入っただろう。
綾乃の声はかなり大きかったし、靴箱の並んでいるここは、ずいぶんと声が反響する。
そして、噴き出すのを我慢していた、吉永と並んで歩いていた宮部にも。

「聞かれちゃったかなぁ」

下駄箱を出てすぐに、綾乃が固い声で呟くように言った。

すでにあからさまなことだったが、綾乃はその事実を自分に否定しようとしているようだった。
それが分かるから、葉奈は「聞こえてないんじゃない」と明るく言った。
綾乃が半分ほっとして笑った。

外はまだどんよりと曇っているものの雨は上がったようだ。
先に外に出て傘を開こうとしていた綾乃が、それと気づいて傘を閉じた。

雨に洗われた空気は浄化されたように心地よく、やさしい風が頬をかすめてゆく。

何かとらえどころのないささやきが聞こえた気がして、葉奈は空を見上げた。


   
inserted by FC2 system