恋風
その4 辛口な採点



夕闇が迫って来た頃、綾乃に見送られ、葉奈を助手席に乗せた伊坂の車が走り出した。

綾乃の母が帰り、おしゃべりに花が咲いてなかなか帰れなかったのだ。
母親と綾乃はあまり似ていないが、性格はそっくりだ。話し始めたら止まらない。

葉奈は、伊坂の横顔をそっと見つめた。
運転に集中しているはずの伊坂が気づいたらしく、ちらと顔を動かし、「何?」と聞いてきた。

「い、いえ、何も」

「お母さんは、いま家にいるのか?」

伊坂の質問に、葉奈は何故?という目を向けた。

「送り迎えするなら、きちんと伝えて置くべきだろう」

葉奈は眉を潜めた。伊坂の言うことはもっともだが…

あらためて考えると、痴漢に遭ったから先生が送り迎えしてくれることになった。というのは、どうにも無理があるような気がした。

ふつう、生徒が痴漢に遭ったからといって、先生が送り迎えしてくれるだろうか? それも、担任でもないのに。

「あの、考えてみると…やっぱり、先生に学校まで乗せていただくというのは…伊坂先生は、わたしの担任でもないですし」

「なら、君の担任の吉永先生なら良いのか?」

「とんでもないです。吉永先生にだって、こんな厚かましいことお願い出来ません」

「わかった。君の好きにすればいい。痴漢に遭う覚悟で電車に乗るか、俺の車に乗ってゆくか。君の家に着くまでに選択しろ。強制はしない」

車中が、伊坂から発散される冷たい空気で満ちてゆくようだった。
黙りこくって運転している伊坂に、次の交差点を右とか左にとか案内しながら、葉奈は決断できずに途方に暮れていた。

もしまた痴漢に遭ったとして、その痴漢行為を止めてくれとか、睨みつけたり出来るだろうか?葉奈は唇を噛んだ。それが出来るならすでにそうしているだろう。
自分の性格では、結局泣き寝入りするしかない。

もし、痴漢の行為がお尻を触るだけでなく、エスカレートして行ったら…。
そう考えるだけで血の気が引いてきた。

最後の角を曲がり、葉奈の家が見えてきた。

車がぴたりと玄関に横付けされた。

「それで?」

ハンドルを掴んだまま伊坂が言った。鋭い視線が前方を見つめている。

「お願い…します」

「何を?」意地悪そうに伊坂が言った。

だが、意味はちゃんと伝わったはずだ。
葉奈は奥歯を噛み締めた。

「学校まで乗せていただきたいです」

伊坂がぶつぶつと小さな声で何か呟いた。
その声は、葉奈の耳にはまったく届かなかったが、どうも「よく出来ました」と言ったような気がして、ものすごくむしゃくしゃした思いにとらわれた。

「それで?いま家にいらっしゃるのか?」

葉奈は、駐車場を振り返ってみた。車がない。
昨夜、母親は夜勤だった。
夜勤開けは昼過ぎくらいまでは寝ているのだが、たぶん今の時間、夕食の買い物に行っているのだろう。

「車がないから、買い物に行ってるんだと思います」

「痴漢のことは…お母さんには言ったのか?」

「言ってません。言ってもどうしようもないし、家族が聞いたら嫌な思いさせちゃうだけだと思って」

「帰って来たみたいだぞ」

バックミラーを見ながら伊坂が言ったのとほぼ同時に、後方でクラクションが鳴った。
後ろに振り返ると、母親の車がぴったり後ろに着いている。

伊坂の車が、車庫の前を塞いでいるのだ。
邪魔にならないところまで伊坂は車を前進させ、停車した。

「世間で通用するように、俺がつじつま合わせるから、お前も俺に話を合わせろ。それから、俺のことは翔と呼べ。佐倉、いいな」

伊坂が早口にそう言って車を降りてゆく。

「し、しょう? つじつま…って?」

葉奈の言葉は宙ぶらりんのまま、伊坂は車の後ろに回りこんでゆく。
葉奈は呆然としてその後姿を眼で追った。

車庫に車を入れて出てきた母親と、かっちり視線が合った。

知らない男性の車の助手席に乗っている娘を目撃して、母親が口をぽかんと開け目を丸くしている。
葉奈の頬が引きつった。

なんの迷いもない歩みで葉奈の母に近づいた伊坂は、丁寧に頭を下げ何か話している。

その場面を混乱しながら見つめていた葉奈は、また母親の目が自分に向けられ、慌てて車を降りると、ふたりに近づいて行った。

「葉奈ってば、痴漢に遭ってたなんて…なんで言わないのよっ」

母親に厳しく叱責されて、葉奈は思わず目を瞑った。

「だって、言い出しづらくて…」

「もうぅ、うちの大事な娘になんてことしてくれるんだかっ。この手で絞め殺してやりたいわっ」

「お、お母さん。落ち着いて」

「落ち着けぇ、冗談じゃないわよっ」

「お母さん、声、大きいって」

「明日からは、僕が学校まで乗せてゆきますから、もう心配いりませんよ。な、葉奈」

伊坂の鋭い視線が、言葉と一緒に頭の芯を貫いた気がした。
固まっていると、母親が言った。

「それにしても、知らなかったわぁ」

咎めるような母親の視線に、なんのことかわからず葉奈は眉を上げた。

「彼と付き合ってるだなんて」

葉奈の驚きの表情は、伊坂が彼女の前に立ちふさがったことによって、母親の目から隠された。

「内緒にしてるだなんて、思ってなかったぞ、葉奈」

葉奈は金魚のように口をパクパクさせて喘いだ。
伊坂が葉奈の表情に必死で笑いを堪えている。

「それにしても、まさか伊坂君と、葉奈がねぇ。ほんと、驚いちゃったなんてもんじゃないわ」

母の言葉に眉を寄せた葉奈が、ゆっくりと顔をあげると、不思議な笑みを浮かべている伊坂がいた。

伊坂がくるりと母に向いた。

「それじゃ、僕はこれで失礼します」

「あら、久しぶりなんだし、お茶でも飲んで行ってちょうだいよ」

「いえ、もう遅いですし。夕食の支度もおありでしょうから。また今度、ゆっくりお邪魔させていただくことにします」

「そうぉ」
かなりがっかりしたような声だった。

伊坂は「それじゃ」と母親に頭を下げると、自分の車に歩み寄って行く。
車のドアを開けた伊坂にじっと見つめられ、何かを期待されているように感じて葉奈は戸惑った。

「ほら、葉奈ってば、お見送りしてらっしゃい」

母親に背中を押され、葉奈は伊坂に歩み寄った。
鼻歌を歌い、母親はひどくご機嫌な様子で、玄関への階段を上ってゆく。

母親の姿がドアの向こうに消えたのを確認してから、腕を組んだ伊坂が言った。

「50点ってとこだな。お前、あんまり出来が良くなかったぞ。佐倉」

「はぁ?」

「俺が先生ってのは、ばらさない方がいいかもな。それじゃ、これ」

伊坂は胸ポケットから取り出した名刺を葉奈に握らせた。

「佐倉、お前の携番は?」

手際よく葉奈の携帯番号を携帯に登録すると、伊坂は車に乗り込んだ。

「言葉は語る前に、慎重に選ぶように。それから、何かあったら電話して来い」
そう言って伊坂は去って行った。

微かな排気ガスの匂いと混乱が、後に取り残されていた。




   
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