恋風
クリスマスバージョン
おまけ1 王子様の任務



ホテルのロビーにある一人掛けのソファに座り、翔は正面玄関の入り口を見つめていた。

そろそろ来るはずだ。

数秒して、一台の車が横付けされ、中から見知った男が降りてきた。
運転手付きの黒塗りの車は、主人を降ろしてそのまま走り去って行った。

「聡兄さん、こっち」

翔は玄関を入ってきた兄に向かって手を上げた。

「仕事中なんだぞ。まったくなんでファッションショーなんかに…」

「文句は、更紗叔母さんに直接言えよ。言えるなら」

「今回は、痛い借りがあったからな。…我々の妹君のためでもあるし」

「借り?」

「ちょっとな。更紗叔母から、モデルをひとり借りたんだ」

「またパーティーのパートナーを借りたのか?呆れるな」

「ビジネスの方がいいんだ。知っている女を誘うと、後がやっかいなことになりやすい」

「いい加減、女性恐怖症治せよ」

「失礼なことを言うな。わたしは恐怖症なんかじゃない。単に…嫌いなだけだ」

聡が渋い顔でいい難そうに言った。

「そのうち、男の恋人を連れてくるんじゃないかと、本気で心配になるよ」

「翔、場所がここなのを喜べ」

鋭い目つきになった聡は、握り締めた拳を翔の顔面に突き出して威嚇した。
翔は片手を上げて、聡の拳を払い、玄関に向かって歩き出した。

「もうひとりの待ち人が来たようだ」

ホテルに入ってきたのは、いつもと同じ風貌の吉永だった。
こめかみに深い皺を刻んでいる。

「吉永先生」

「伊坂君。小原は?」

余裕のない差し迫った眼差しで、畳み掛けるように吉永が尋ねてきた。

「こちらです。ついて来てください」

それだけ言うと、翔は踵を返してホテルの奥に向かって歩き出した。
翔の隣にいる聡を見て、吉永が頭を下げた。

「どうも。こいつの兄の聡です。吉永さんでしたね、よろしく」

「あ、はあ。それで!小原に何があったんです?彼女がいま窮地に立ってるとか…」

「お前、そんなことを言って彼を呼び出したのか?翔」

翔はシニカルな笑みを浮べている兄をちらりと見てから、吉永に視線を向けた。
吉永の眉間の皺がさらに深くなっていたが、翔は構わず歩き続けた。

「本当のことだろ。綾乃はピンチに陥ってる」

すでに時間が押している。
こんなところでうだうだと説明している暇などないのだ。

「あいつを受け止めるやつがいなかったら、舞台から飛び降りて怪我をする」

「怪我…どういうことだ、伊坂君。小原に何が起きたんだ」

「これから起きるんです。あなたが来てくれたから、もう大丈夫ですよ」

翔はこれからのことを考えて、苦笑いした。

どうして自分がこんな段取りをしなければならないのか、はっきり言って面白くない。
葉奈との出会いに尽力したくれた綾乃への礼と思って、腹立ちをなだめるしかないだろう。

「伊坂君、きちんと分かるように説明してもらえないか?」

「ゆっくり説明している暇があるなら、俺もそうしています。時間がないんですよ。とにかくついてきてください」

翔は足を速めた。
彼だって、更紗の作戦に嵌まってしまい、愉快な気分ではないのだ。

翔はふたりを指定されている部屋に連れて行った。
中には、四十代くらいの女性がひとりいた。
女性は入ってきた三人をさっと見て、吉永に視線を当てた。

「お待ちしていました。そちらの方ですね。それでサイズは?」

「吉永先生、背広のサイズは?」

「サイズ?あの伊坂君、とにかく説明してもらえないか?小原は、彼女はいまどこにいるんだい」

吉永の言い分はもっともだ。
自分が彼の立場なら、とっくの昔にぶちきれているだろう。

「とにかくスーツに着替えてください。時間がないんだ。話はその後です」

「吉永さん、諦めて早く着替えたらどうかな」

聡が愉快そうに言った。
パニックに陥っている吉永を見ているのが楽しいらしい。
翔は眉をしかめて兄に向いた。

「兄さんは、先に会場に行けよ」

「あんなところ、ひとりでいてもつまらん」

翔は兄の笑みを見て苦笑した。
ここで君らの会話に混じっている方が、よほど面白いと思っているに違いない。

戸惑ったままの吉永もどうにか着替えを終え、彼ら三人は、ショーのレセプションが始っている会場に入って行った。

丸いテーブルには六人分の椅子があり、三人はライトで照らされた明るい正面に向いて並んで座った。
翔が真ん中、右に吉永、左に聡だ。

「いったい…」

吉永はそう言ったまま口を閉じ、会場をゆっくりと見回している。
説明がないことで、彼なりに状況を把握しようとしているのだろう。

「ファッションショーですよ。吉永さん」聡が言った。

「ファッションショー?」

ひどく怪訝そうに吉永が繰り返した。混乱がさらに増したようだ。

「このショーの主催者は僕らの叔母なんです。その縁で、綾乃もモデルで出演することになって…」

「小原がファッションショーのモデル?でも、彼女は学生ですよ」

吉永の中で、学生はファッションショーのモデルをやるものではないらしかった。

「今回だけ特別ですよ。いつもやっているわけじゃない」

「当たり前ですよ。小原がモデルだなんて…」

吉永の憤りの混じった言葉に、翔は片方の眉を上げた。

その憤りは、どうやら担任としてだけのものではないようだ。
他人の恋に興味など持てなかったし、口出しや力添えなどする気もないのだが…

強制的に着せられたスーツだからか、吉永本人は居心地悪げだが、実際のところしっくりと似合っている。





ショーは彼らには退屈なものだった。

色とりどりのイブニングドレスを着たモデル達の華やかさも、翔達三人のテーブルを湧かしはしなかった。

ショーの流れとともに音楽が変わり、照明が変化することの方が、よほど三人の興味を引いた。

観客の女性たちは、うっとりとした瞳でモデルの衣装を見つめている。
彼女達の隣に座っている男性たちは、パートナーの嬉しげな様子に、様々な反応をしていた。

「つまらんな」

聡がぽつりと言った。
音楽に負けないように、いくぶん声を張り上げている。

翔はくすりと笑った。
暴言を吐いた聡に、吉永が非難するような目を向けたからだ。
吉永はどこまでも紳士的な人物だ。

「そうはっきり言うなよ、兄さん」

「退屈なものは退屈だ」

「それじゃ、あなたはなぜここに来たんですか?」

とがめるような口調で吉永が聡に言った。

「わたしは妹のためですよ。あなたは綾乃のため…でしょ?」

「お、小原は、わたしの受け持ちの生徒で…だからその、彼女が窮地に立っていると聞いて…」

「ほぉ、担任ってのは、生徒のためにそこまでやるものなんですか?」

「え?」

「生徒のピンチだと聞くたびに、こんな風に駆けつけていたら、身体がいくつあっても足りなそうだ」

それを聞いて、吉永の顔が少し引きつった。心持ち頬が赤く染まっている。

「吉永先生は、兄さんとは違うんだ」

「なんだ。わたしに思いやりが足りないとでも…」

「いや、吉永先生は、女性を恐れてる兄さんとは違うってことさ」

翔はにやりと笑い、飛んできた拳を頬すれすれでかわしながら立ち上がった。

「ちょっと行ってくる」

「君、どこに?」

翔は吉永に返事をせずに、自分に向かって冷笑した。
戻ってきた翔を見て、このふたりは笑うだろうが、仕方がない。

「行ってくる」

戸惑っている吉永と、むっとした顔の兄を置いて、翔はため息をつきながら部屋を後にした。

こんなことは二度としないつもりだったのに。

更紗から、葉奈の相手役をしないかと持ちかけられたのだ。
持ちかけられたというと表現が優しいが、つまりは脅迫だ。

翔がやらないと言えば、葉奈の相手役に、他の男をパートナーとしてつけるに違いないのだから。

もちろん他の男になど、葉奈の身体に指一本でも触れさせたくない。

ひとを巧に操る更紗の手腕には舌を巻く。
うまいこといいくるめられては、彼もモデルをやるはめに陥って来た。

それでも、ここ二年はやっていなかった。
こんなことにならなければ、もう二度とやるつもりなどなかったのに…

翔は慣れた手つきで首に黒い蝶ネクタイをつけた。

着替えを終えると、先ほどまで着ていた黒の背広の上着を羽織り、グレーのタキシードの上着が入った紙袋を持ち、翔は会場に戻った。




   
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