恋をしよう 
その17 大好きの選択



詩歩はぼんやりとした意識の中にいた。彼女の髪を優しく撫でる手のひら。
目覚めてすぐは、母だと思った。慈しみに溢れた特別なあたたかさ。

アルバムをみている間、海斗は、過去を見つめて混迷しそうになる詩歩の意識に、絶えず現実の風を吹き込むように語りかけてきた。

心が穏やかだった。
もうアルバムを開いて過去を目にしても、泣かないで済むだろうと思えた。

詩歩は自分の瞼にそっと触れた。
鏡を目にしたくないほど腫れてしまっているようだった。

「酷い顔になっちゃってるわね。わたし…」

「いや…僕を泣かせてしまうくらい、いとおしい顔してるよ」

そういう気障な台詞を口にしてなお、似合うと思わせるところ、さすが保科海斗だ。
そうちゃめっけたっぷりなことを考えながらも、詩歩の頬が赤く染まっていく。

「どうしてわたしなの?」

口にしてすぐ、詩歩は後悔した。
海斗が詩歩の肩を抱いたままで「うん?」と言った。

「わたしなんて、冴えないし、口にしたくないけど…そんなに可愛くもないと思うし…」

「詩歩は、僕からなんらかのはっきりした答えをもらって、自分の心に、折り合いつけたいの?」

詩歩は返事が出来なかった。

「でも、気持ちは分かるよ。僕だって、同じだから」

「同じって、何が…?」

「僕は、君の世界の特別な住人になりたかった」

海斗が詩歩の手首をぎゅっと握り締めてきた。

「君に恋をして、一年間甘い奇跡を待った。でも奇跡は訪れなかった。訪れないのなら、奇跡を作るしかないと思ったんだ」

海斗はマグカップを取り上げて口に含んだ。
そして「キーマンは冷めても美味しい」とひとりごちて、また話を続けた。

「詩歩、僕は君が思い込んでいるほど清廉潔白じゃない。まあ、あのキスの一件以来、知ってることだろうけど」と言って、海斗は自分に向けた笑いを洩らした。
詩歩は浮べる表情に困り、複雑な笑みを浮べた。

「たしかに、ひとはみな、必要なものすべて、この手に与えられているのだと僕も思う。だけど…形のあるものの中には、絶対に手に入れたい無くしたくないと思うものがあるんだ」

海斗の言葉に、詩歩も頷かざるを得なかった。

ひとは天使でも神でもない。
欲のない人間はいないのだ。

詩歩も母がいたから幸せだったし、母が亡くなってからは祖父と真理が支えだった。
ふたりを無くしてなお、幸せだと心から言えるほど、彼女は賢人ではない。

「君の気持ちが僕にあると確信したあの瞬間まで、僕は…」

あの瞬間?詩歩の表情に表れた問いに海斗が頷いて答えた。

「真理さんが倒れて、君が僕に電話してきた時…」

詩歩は眉を潜めた。
それならば、あの初めてのキスのとき、海斗は詩歩の気持ちを確信していなかったということなのか。

「だって…わたし、好きじゃなかったら、キスを許したりしてないわ」

詩歩は俯いて、赤く染まってくる頬を、海斗から隠す努力をした。

「そう?あの時の詩歩は自分を見失ってた気がする。…そうでなかったら、あのキスは拒まれてた気がするんだよね」

考え込んだ詩歩から離れ、海斗は立ち上がった。

「さて、詩歩も落ち着いたようだし、片づけをすませてしまおう」

すっかり忘れていた。
詩歩は、足の踏み場もないほど物で溢れかえった部屋を思い出してうんざりした。

気分を切り替えるのが得意らしい海斗は、すでに居間を出て、軽い足取りで部屋に向かってゆく。

箱の蓋を開けて中身まで取り出していた状態から、物をすべて物入れに戻すのは骨が折れた。

片づけがすべて終わった時には、すでに時計は一時をさしていた。
詩歩は、空腹になったお腹を無意識にさすっていた。

玄関のチャイムが鳴った。
誰が来たのだろう?
玄関に向かおうとした詩歩を海斗が呼び止めた。

「詩歩はお茶入れて。僕が受け取ってくる」

「受け取る?」

「出前の寿司、頼んだんだ」

寿司…いったいいつの間に…
届いた寿司は、どう見ても特上だった。それもかなりお高そうなお鮨屋さんで…

「海、お金大丈夫なの?わたしも…」

「大丈夫。父の奢りだから」

「海ってば…」

「ほら、食べないならもらっちゃうよ。僕、大トロ大好きなんだ」

海斗の箸がすっと伸びてきた。詩歩は慌てて鮨桶を引いた。

「駄目よ。わたしだって、大好きだもの」

海斗は愉快そうに笑い出した。
彼はひとしきり笑ってから、笑みを消して詩歩に向いた。

「僕と、大トロ、どっちが好き?」

「なんか、答えたくない…」

海斗と答えた時のこの大トロの行方が、本気で心配だった。

「僕は大トロに負けるわけ?」

海斗が侘しげな顔で言った。

「だって、海の方が好きって言ったら、大トロ食べられちゃいそうな気がするんだもの」

「それなら…」と、海斗は自分の大トロを箸で摘み、詩歩の口元に寄せてきた。

「食べて」

詩歩は笑みを浮かべ言われるまま、口に入れた。
とろりとした甘みに詩歩は笑み崩れた。

「これで僕のライバルはいなくなったわけだ。で、どっちが好き」

「イクラっ」

詩歩は、海斗のイクラを見つめながら即答してしまい、彼の気が済むまで制裁を受ける羽目になった。




   
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