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その5 生きるの意味
保健室の中に漂うアルコールの匂いをどこか上の空で気にとめながら、詩歩は吉冨の「偽善者」という言葉を苦く噛み締めていた。
偽善者、なのだろうか?だが腹が立たないのだ。
怒りを返されたほうが、吉冨の心は救われたのかもしれない。
そう思えて、心がひどく痛かった。
タオルにくるまれた冷たい保冷剤を頬に当て、ベッドに座ったままの格好で、詩歩はころんと横になった。
保健室の大きな窓からグラウンドが良く見えた。
たくさんの生徒が大小の駒のように動き回っている。
吉冨は矢島か海斗を好きなのだと思う。
ふたりに挟まれて「詩歩」と親しく名を呼ばれる彼女に、嫉妬の感情が湧くのは当然だろう。
「詩歩」
やさしい呼びかけに、詩歩は思わず瞼を閉じた。
海斗に腫れた顔を見られたくはなかった。
そしてそのわけも話したくなかった。
海斗の気配をすぐ近くに感じた。
それでも詩歩はこの状況下で一番安楽な、寝たふりを続けた。
「横井先生、彼女、寝てるみたいです」
ベッドの置いてある部屋と隣り合わせになっている保健室に向かって、海斗が少し大きな声で言った。
「あら、そうなの。保科君、起こして連れて帰る?」
「別に急ぐ用事もないですし。寝かせておいてあげたいけど、先生の方はいいですか?」
「いいわよ。それじゃ、ちょっと用事済ませてくる間、保科君、留守番お願いね」
「はい。重病人が来たら、僕が十分な手当てをしておきますよ」
「任せたわ」
あははと笑いを後に残しながら、横井は出て行ったようだ。
室内がシンとした。
詩歩は少し後悔した。
薄目を開けて彼を確認したいが、寝たふりをしているのがバレるのが嫌でそれも出来ない。
目を閉じたままの視界が少し翳った。
海斗が詩歩の目の前に立ったに違いない。
それが分かって詩歩の瞼がぴくぴくと動いた。
「詩歩。寝た振りしてるね」
苦笑しつつ責めるような声がして、詩歩はバツが悪そうに薄目を開けた。
「やっぱり」
海斗は窓に背をもたらせて、腕を組んでいた。
「だって…」
詩歩は頬に保冷剤をくっ付けたままゆっくりと起き上がった。
「見せて」
「だめ」
「いいから、見せなさい」
海斗は力ずくで詩歩からタオルで包んだ保冷剤を奪い取り、しばらくの間、じっと詩歩の顔の腫れを見つめていた。
「誰に、と聞いても言わないんだろうな。調べればすぐに分かることだけど」
「調べないで欲しいんだけど…」
「どうしても?」
詩歩は黙ったまま強く頷いた。
「分かった」
詩歩はほっとした。
彼は約束を守るだろう。
微笑もうとした詩歩は頬の腫れに邪魔されて、情けなさそうに唇を突き出した。
その表情がよほど可笑しかったらしく、海斗が笑いを堪えている。
ひとが入ってきた気配に振り向くと、吉冨が立っていた。
吉冨は、海斗を視界に入れ、ぎょっとしたように立ち竦んだ。
「吉冨さん、どこか具合悪いの?いま横井先生いないんだ。すぐに戻ってくると思うけど」
「い、いえ。これ、し、詩歩…に、も、持ってきただけ…」
吉富の声が苦しげに上ずった。
詩歩は彼女を見ていられずに目を閉じた。
「ああ、ありがとう」
温かい声で海斗は言い、吉冨に近づき、彼女から詩歩の鞄を受け取ったようだ。
「そ、それじゃ」
そう言ったものの、吉冨は足が張り付きでもしたようにその場から動かない。
居たたまれない時が過ぎる。
詩歩は迷ったあげく、立ち上がって出口に向かい、海斗から鞄を受け取ろうとした。が、彼は首を横に振った。
「帰るなら送って行く。鞄は僕が持つよ。詩歩」
海斗が詩歩をいたわるように言った時、吉冨の目から涙が溢れ出した。
彼女は力が抜けたようにひざまずいて泣き出した。
「吉冨さん、いったい?」海斗が戸惑った声をあげた。
詩歩は吉冨の肩を抱きたかった。
だが、吉冨は、けしてそれを許さないだろう。
詩歩は両手を握り締めて吉冨に背を向けた。
詩歩らしくない行動に、海斗は理解したようだった。
「帰ろう。詩歩」
海斗に促されるまま、詩歩は保健室を出た。
胸が痛かった。
「詩歩まで泣きそうな顔してる…」
昇降口の前まで来て、海斗が言った。
詩歩はため息をついた。
「痛い…。生きるって、半分は痛みのような気がする」
「あとの半分は?」
海斗がやさしく問いかけてきた。
「…喜び」
「なら、いいんじゃないか?」
詩歩はためらいがちに口元に笑みを浮べ、それから海斗を見た。
詩歩に向けられた海斗の笑みは、これまでよりさらに眩しかった。
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