律儀な子猫 番外編 

ロマンチックに後悔

その3 彼女の本気



胸のところでバッグをぎゅっと握り締め、澪は自分が座る椅子の前で立ち竦んでいた。
深沢の足音が澪のすぐ後ろで止まった。

たっぷり十秒ほど澪に身の絞まる思いをさせてから、深沢は澪を回り込んでいつもの位置に座った。

「さ、掛けて。打ち合わせを始めましょう。水木さん」

水木さん?

澪は、背後を振り返った。
もしかしてまだ安井がいたのかと思ったのだ。だが、安井の姿などない。

「あの深沢さん…」澪はためらいがちに声を掛けてみた。

「仕事」

澪は恥ずかしくなり、ぎこちない動作で椅子に腰掛けた。

私事と、仕事をきっちり分けようというのだろうか?
でも、この間と、その前来た時には、入った途端、キスしてくれたのに…

無表情な顔、そして眼鏡の奥の目が鋭く光るいまの深沢に、とても親しくなど話しかけられない。

付き合う以前の、打ち合わせの合間の世間話などもなく、どんどん話が進んでいった。

「この箇所は、色合いを特に強調して下さい」

感情のこもらない深沢の声に、澪は涙が溢れてくるのを、どうしても押さえられなかった。

「それと、ここのイラストは中央に大きく…」

深沢の視線が澪の涙を捉え、彼の流れるようだった言葉を途切らせた。

「す、すみません」澪は頭を下げた。
ぽたぽたと止められない涙が、膝にシミを作る。

「…ごめん」

深沢の謝罪の言葉に、澪は顔を上げた。

「つい…、安井が…」

深沢が彼らしくない萎れたため息をついた。

「俺のことは、なかなか名前で呼んでくれないくせに、安井のことは…」

「ランチのこと、怒ってたんじゃなかったんですか?」

「まあ、それもたしかに腹が立つけど、付き合う以前のことは言っても仕方がないから」

「でも、ミッチーって呼んでもいいって聞いたら、深沢さん嫌だって」

深沢が、じっと澪を見つめてきた。
彼の表情に、澪は居心地が悪くなってもじもじした。

「…冗談じゃなかったのか?」

「冗談?」

なぜミッチーが冗談に取られたのか分からず、澪はきょとんとして深沢を見返した。
深沢が呆れたように首を振った。

「…澪、良く考えろ。この俺と、ミッチーが一致するか?」

「だって、可愛い呼び名だと思う…」

「可愛い?この俺のどこが?」

鋭い声が飛んできて、澪は思わず目を瞑った。

「いまは…だけど、寝顔はとっても可愛いから」

「いまは…だけどの、あいだの言葉が聞きたいもんだな。…寝顔?」

深沢の最後の言葉に澪は、勢いづいた。
机に両手を突いて立ち上がると、彼女はめいっぱい深沢の方へ身を乗り出した。

「寝顔とっても可愛いいんです。深沢さんに見せられないのが残念なくらい」

「…別に、そんなもの見たくもないから」

「そうですかぁ」

ものすごく残念そうに澪は呟き、椅子にストンと座った。

「とにかく、ミッチーは駄目だ。どうにも、俺が否定された気分になる」

「そんなぁ。でも、ほかに呼び様がないし…」と澪は深くため息をついた。

「なんで悩むんだ。普通でいいんだよ。道隆で十分だろ」

「だって…」

そんなのじゃ駄目なのだ。
道隆では、家族も親しい人はみんな彼をそう呼んでいる。
澪だけの特別な呼び名でなければ。

「そんなの普通だし…」

「普通でいいだろう」

「みんなと同じじゃ、嫌なんだもん」
澪は頬を膨らませて言うと、唇を尖らせた。

「はぁ?」

?マークがいっぱい頭の上についた深沢は、澪の瞳にとっても可愛く映った。

「ミッチー」

そう呼ばれて、深沢の顔が固まった。

その時、澪は天からのひらめきをもらった気がした。

「そうだ。フカミッチーがいい。フカミッチーにする」

澪は満面の笑顔で、固まったままの深沢にそう宣言した。




   
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