恋に狂い咲き
その5 意地悪と謝罪 



ゆらゆらと揺れるからだ。
なんともいえないほど気持ちの良い温かさと、肌に触れている素敵な感触。

「真子、起きろ」

遠くで真子を呼ぶ声がした。
この心地良さから彼女を引き離そうとする敵がいるらしい。

真子は徐々に大きくなってくる声から身を隠すように、心地よさの源にすがりついた。

おでこがコツンと叩かれた。

「やっ」

「こいつ、なんで起きないんだ」

「あっちに行って」

「起きてるのか?おい、おい」

薄ぼんやりと現実が見えてきた。

目の前は真っ白だった。

…シーツ?ベッド?

けれど、肌に当たる感触が、いつもとぜんぜん違う。

真子は手を上げて自分がほっぺたをくっつけている白いシーツらしきものを撫で回した。

「わっ」

男の驚いた悲鳴ともとれる叫びと同時に、真子はシーツから引き剥がされそうになり、慌ててしがみついた。

「襲うぞ。こら」

パチンとまた音がして、今度は後頭部がちょっと痛かった。

「いったーい。いったい何?」

真子は顔を上げ、まだ半分も開いていない目で、あたりをキョロキョロ見回した。

「やれやれ起きたか。こんなところで一晩明かしたら寒さで風邪引くぞ。ほら、帰るぞ」

「寒くない」

眠気に捕らわれて、ひどく舌ったらずになった。

「君は俺の背広被ってるからだ。君は温かいだろうが俺は肩と背中が寒い」

その説明を聞いているうちに、眠気が飛び、真子はいまの事態を丸ごと全部把握した。

真子は凄い勢いで立ち上がった。
彼女の肩に掛かっていた男の背広の上着がばさりと床に落ちた。
床に座ったままの男を見て立ち竦んでいると、相手も立ち上がった。

「荷物持って。行くぞ。着替えは…もうそのままでいいだろ」

呆然とした真子は、男に促されるまま社の裏玄関に向かった。
こちら側には、表玄関より小さな警備の詰め所があり、中はぼんやりした明かりがついているものの、ひとはいなかった。

男はカードのようなものを取り出し、玄関脇にある機械にそれを通すと扉を開け外に出た。

「それは?」

「マスターキーみたいなものさ、これがあれば社のどこからでも出入り出来る」

「ど、どうしてそんなもの。ぬ、盗んだんですか?」

「なわけないだろ。お忘れらしいが、僕は専務なんだが」

そうだった。
真子にとって彼は、どうしても侵入者のイメージが抜けない。

男の車へと歩いて行きながら、真子はふと疑問に思った。

「あの。そのカードがあれば、わたしたち、いつでも帰れたんじゃ…」

「僕一人ならそうしたさ。でも君がいた。僕は別に構わなかったが…」

車の助手席に乗り込んだ真子に、彼がにやりと笑った。

「君は構うだろ?」

真子はこくこくと頷いた。
もちろんだ。そんなことになったら、会社に来られなくなる。

車がすべる様に走り出した。
乗り心地のいい車だ。

「左に…」

「途中までは分かる」

「な、なんで知ってるんですか?」

「社員名簿。ちなみに君の社内メールアドレスも、携帯番号も知ってる。芳崎真子。可愛い名前だな。誰がつけたんだい?」

しばらく真子は答えなかった。
そんな呑気な話題は、この場に相応しくないような気がしたのだ。
けれど、相手は催促するようなこともなく、真子の方が沈黙に耐え切れなくなった。

「父母の両方の名前に、真の字がついてて、ふたりの子どもだからって、真子…」

「そうか。愛されてるんだな」

愛されているの言葉に、真子は薄く笑った。
運転していた彼は、その笑みに気づかなかったようだ。

「あの?」

「なんだ?」

「あなたの名前、聞いてないんですけど…」

「そうだったな。…高杉和磨(たかすぎ・かずま)だ。他に聞きたいことは?」

「おいくつなんですか?」

なぜか真子を横目に見て、彼は躊躇してから答えた。

「…26」

真子は驚いた。
眼鏡を掛けているからか、その落ち着きからか、かなり年上だと思っていたのに…

「その歳で、うちの社の専務に抜擢されて、大改造を任されたんですか?」

「なんか引っかかるな。その疑わしげな語尾の抑揚」

「みえないから」

「みえないって?」

ただの危ない侵入者にしかみえない…とは言えない。

「えーと…」

「ところで、社内では僕の歳は33ということになってる。本当の歳を口外するなよ」

「どうして?」

「もっと上だと偽りたいくらいだが、見た目でそれ以上は無理だろうと考えてのことだ。能力だけでは人は動かせない。ひとの指揮を取ることを円滑にするために、部下よりかなり年上である方が望ましい」

「考えてるんですね。でも、歳を誤魔化したままずっと勤めるなんて無理じゃありませんか?」

「三ヶ月か半年程度だ。改装が終了すれば、その時点で僕は降りる」

「また親会社に戻るんですか?」

「さあ。分からないな」

「ずっとこういうお仕事してるんですか?」

「いや、社の改装を丸ごと任されるのは初めてだ。元々改装が本職ってわけでもない。今回は特別さ」

堂々とした彼に、初めてと言う言葉はなんとなく似つかわしくなく、真子は意外に感じた。

「そうなんですか。改装については、みんな喜んでます。これまでどの職場も酷い状態でしたから」

「ああ。そうだな。子会社というのは名ばかりで、亡き社長は独裁者だった。朝見グループの接触を完全にはね付けていたんだ。親会社は内情を把握していても、手を出せなかった」

「そうだったんですか」

「もちろん、ここだけの内緒の話だぞ、真子」

「え?あ、はい」

ん?…真子?

「その呼び方、馴れ馴れしすぎやしません」

「すでに馴れ馴れしい仲だろ、君と俺は…」

なんだ。その含みのある笑いは?

「すでに口づけした仲だ」

和磨がにやりと笑った。
真子は真っ赤になり真っ青になって目を剥いた。
何か言ってやろうにも、言葉が出てこない。

「あ…そうだ」

ふと思い出したというように、和磨が呟いた。
なんだか知らないが、ものすごく嫌な予感がした。

「つい、夢中になって…」

ちらりと振り返った和磨の視線が、なぜか真子の首筋を捉えたように見えた。

「キスマークが…。明日はきっちり襟を閉めておいた方がいいぞ」

「そ、そんなものいったいいつ?いったいなんで?いったいぜんたい…」

「真子、落ち着け。一週間もすれば消えるさ。たぶん…」

「そういう問題じゃなくて。き、気絶してる女性になんてことするんですか」

和磨が唇を尖らせた。
大人びて凛々しかった顔が、少し少年ぽく見えた。

「気づかなかったんだ、気絶してるのに。夢中になりすぎて」

「はあ?」

真子は呆れた声を上げた。
素直と言おうか、バカ正直と言おうか…

「夢中になっている時の人間は、冷静な思考ができない。夢中というのは夢の中にいるということで、現実にいないわけだから、現実的思考が…」

真子は、運転している和磨の頭に拳骨を食らわした。

ゴンと音がした。

「何をするんだ。状況をよく見極めて行動しろ。俺が失神したら、ふたりしてあの世行きだぞ」

少し気持ちがすっとした真子は、彼の言葉を無視した。

鋼の精神を持つらしい和磨が、失神などという奥ゆかしいものをするとは思えなかった。

キスマークの存在が真実かどうか確かめるために、真子は和磨を気にしながら手鏡を求めてバッグの中を漁った。

運転に支障のないように、幾度か振り返りながら、真子を睨んでいた和磨の顔が、なぜか突然変化して、笑みを浮べた。

和磨は何も言わなかったが、その笑みに真子は薄ら寒さを感じた。

色々忘れ物をしたが、手鏡はちゃんとバッグに入っていた。
真子は手鏡を取り出しながら、和磨を咎めるように見返した。

「なんなんですか?」

「いや、別に。ただ、仕返しと言う言葉の重みを…後で君にゆっくりと教えてやろうと思ってね」

真子はぞくりとする恐怖に捕らえられ、手鏡を持ったまま、助手席のドアに身体をぎゅっとくっつけた。

「腹、減ってないか?」

それまでの会話がなかったかのように、和磨が唐突に言った。

「え?…空いてますけど」

「軽いものでいいけど、家で何か作れるか?」

わたしの家?

作れると言ったら、この男は彼女のアパートにあがり込むつもりなのだろうか?

とんでもない話しだ。
こんな危険分子を、彼女の神聖な部屋にあげるわけには行かない。

真子は手鏡で自分の首元を確かめた。

「たぶん、ここらへんだ」

襟の中に和磨が指先を突っ込んで言った。

「な、何するんですか?」

唇を尖らせて抗議しながらも、真子は和磨が指を押し付けたあたりを手鏡で映した。
視界が曇っていて分かりずらかった。

「で、作れるのか?」

「作れません」

そう叫ぶように言うと、真子は目を細めて手鏡を見つめた。

信じられないくらい濃い赤い痣が、首の付け根のところに見つかった。

「き、きゃー」

この痣が出来た経緯がまざまざと脳に浮かび、真子は悲鳴とともにそっくり返った。

「そうか。この時間に開いてる店というと…」

真子がパニックに陥っていることなど歯牙にも掛けず、和磨はひとり言を呟いた。

急ブレーキが掛かり、車がぐっと左に曲がった。
愕然として両手を浮かしていた真子の身体は、その勢いに、右側へとひっくり返った。

「きゃっ」

車が止まった。

「こんなところじゃ、いくら誘惑されても、その気にならないぞ」

和磨の腿の付け根の中央に顔をつっぷしてあがいている真子に、ひどく愉快そうに和磨が言った。

「誰が誘…」

パッと顔を上げた真子の後頭部で、ガツンと大きな音がした。
彼女の頭は、ハンドルに見事にヒットしたらしい。

「あーあ」

哀れんでいるような和磨の声に、真子はひどい屈辱を感じた。
自分の無様さがたまらないほど恥ずかしくなり、真子は泣きたくなった。

普段の彼女はこんなにドジでも、こんなにヒステリーに叫んだりもしない。
極めて普通なのに…。

「どうした?」

「…どうしてそんなに意地悪なんですか?」

真子は和磨の膝に顔を埋めたまま、しくしく泣き出した。
泣き声にあわせたように頭がジンジン痛んだ。

「真子…」

和磨の手が真子の頭に触れた。
そのやさしい手つきに、なぜか慰められる自分がいて、真子は自分にむっとした。

「ファーストキス…だったのに…」真子は恨みを込めて言った。

涙声の真子の言葉に、和磨が小さく口笛を吹いた。

その口笛の音に、安らぎかけていた真子の心が傷を深めた。
真子は黙々と狭い場所から抜け出し、上体を起こした。

「ごめん」

涙をなんとか止めようと唇を噛み締めていた真子は、その言葉に不意を付かれた。

外した眼鏡を掴んだ手をハンドルに掛けた和磨が、これまでになく気まずげに瞳を曇らせていた。

真子の胸が切なさにきゅんと痺れた。

「ふざけすぎた。悪かった、真子」

和磨の低い声で名を呼ばれ、彼女の背筋に、また不思議な震えが走った。
真子は和磨から視線を外した。

何んなのか分からないが、これまで感じたことのない感覚を、彼は真子の身体に呼び起こすらしい。

「真子…」

「もう謝らなくていいです。お腹すきました。とにかく何か食べましょう」

真子は和磨の返事も聞かずに車を降りた。




   
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