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その10 川岸の語らい
ジェイをタクシーで送ったあと、聡は職場に戻った。
彼は美紅の仕事の見直しを、毎夜の日課にしていた。
明日は休日だが、出来れば今日中に終わらせておきたかった。
だが、職場に戻って来ても、聡は少しも仕事に集中できなかった。
帰りのタクシーの中でも、彼はずっと考え込んでいた。
隣に座ったジェイが、時々質問をさしはさんでくるのを、その時々で答えたり無言で応えたりしていたが頭の中は考え事でいっぱいだった。
「まずは仕事を片付けよう」
聡はそう声に出して言った。
そうしなければ、思考回路が仕事に切り替わりそうに無かった。
美紅は能力は低くないのだが、とにかく単純なミスが多い。
こうして見直していると、少なくない数のミスが必ず出てくるのだ。
見直しを止めることは出来ない。
星崎美紅のことを頼んできたのは弟の翔だった。
あの翔が、聡に頭を下げて頼んできたのだ。
あいつがひとに頭を下げるなどというのはよほどのこと。
聡は、翔が半年間仕事を手伝うということと引き換えに、美紅に採用通知を出した。
もちろん、そんな形で入社させた美紅だ、自分の部署に配属させるしかない。
翔との半年の約束も終わった今、残ったのは粗忽者の尻拭い。
しかし、まさかあそこまでそそっかしいとは思わなかった。
「賭けに負けた気分だ」そう呟いて聡はくすくす笑い出した。
後悔がないと言えばウソになるが、仕事ばかりに傾きがちな聡には、人生のスパイス、美紅の存在は良い刺激かもしれない。
翔と美紅の間柄がどんなものか聡は知らない。聞いても翔は答えなかっただろう。
ふたりは付き合っているのだろうか?
聡は、パソコン画面を見つめながらため息をついた。
翔に一度、確かめに行った方が良さそうだった。
美紅はジェイのやさしさに、かなり傾倒してきているような気がする。
聡は眉をしかめた。
ジェイはたしかに誰にでも愛想が良いしやさしい。
そのやさしさは、聡に言わせれば毒だ。
ジェイの過ぎる容姿とやさしい態度に、女達は勘違いする。
そして最後には、ジェイに手ひどい傷を負わせられる。
ジェイ本人がそれを意識していないぶん、やっかいなのだ。
美紅は粗忽だが純粋だ。
彼女が傷つくようなことにならなければ良いのだが…
背広では堅苦しすぎるだろうと、珍しく聡はラフな服装をしていた。
そのせいで、なんだか落ち着かず、彼らしくなく星崎家のチャイムを鳴らすのをためらってしまった。
「どなたですか?」
真上から澄んだ声が降ってきた。
見上げると、亜衣莉がベランダから顔を出して彼を見ている。
久しぶりに見上げた青空を背景に、さらりとした髪が揺れる、亜衣莉の清らか過ぎる表情。
「…やあ」
「え?伊坂さん?」
亜衣莉が彼のことを、すぐに気づいてくれたことに無性に嬉しさが湧き、聡は思わず右手を上げた。亜衣莉も手を振り返してきた。
「すぐに行きます」
彼女がそう言ったとき、白っぽい何かがハラリと落ちてきた。
「あーーーっ!」
亜衣莉が叫びながら落ちたものを追って両手を伸ばした。
「駄目だ、亜衣莉! 危ない!」
聡の強い叫びに、彼女が両手を突き出したまま固まった。
彼は舞い落ちてきたものを片手で受けた。
「だめーっ」とまた亜衣莉が大声を出した。
礼儀正しく振舞っていた昨夜の亜衣莉との対比に、彼は笑いが込み上げてきた。
聡は笑いながら、右手に掴んだものを確認した。
「うっ、わっ」
真っ白い下着だった。それもやたらにフリルやらリボンやらがついている。
こんなもので用が足りるのかと思うほど小さな布切れ。
ひっくり返るぐらい驚いた聡は、思わずそれを放り出そうとしたが、すんででとどまった。
すさまじい勢いで階段を下りる音が、玄関まで聞こえた。
音は止まらぬまま、玄関がパッと開き、亜衣莉が飛び出してきた。
「返して、返して」
履物を中途半端に履いていたのか、つまずいた亜衣莉が倒れこんできた。
聡は、前身で受け止めた。
「す、すみません」
「案外そそっかしいんだな」
聡は亜衣莉を抱きかかえたままくすくす笑った。
亜衣莉が慌てて身を引いた。
「落ちた…し、し…あの、し、白いの、返して」
聡は手にしていたものを差し出した。亜衣莉がパッとひったくるようにして取り返した。
頬を真っ赤に染めている。
「あ、姉のお見舞いに、来てくださったんですか?」
亜衣莉はそう言いながら、エプロンのポケットに白い布切れを、必死で押し込んでいる。
聡はそれを愉快そうに見つめた。
「いや、そうじゃないんだが。…星崎君はどんな様子かな?」
だいたい想像はついていた。
「頭が痛いって言って、寝てるんです。病院に行ったほうが良いんじゃないかと思って、心配してるんですけど」
やはりか…
「二日酔いだ。寝てれば昼くらいには治るさ」
「二日酔い?ああ、そうなんですか?」
「それで、亜衣莉、君、少し出かけられるかな?」
「え、わたし?…ですか?」
「家でもいいんだが、わたしが来たと分かると、星崎君は休まらないだろうと思うんだ。彼女はわたしを怖がっているようだから…」
なんとなく言い難かった。
「え?伊坂さんを怖がる?…美紅が?」
聡を鬼のように怖がる美紅の表情を思い出し、亜衣莉の手前、気まずさが湧いた。
「わたしは仕事に関しては妥協がないから…」
「それは、もちろんです」
ためらいがちに亜衣莉が言った。
姉を心配する気持ちと、聡の言葉の正当性の狭間で心が揺れているようだ。
「それで?」
「いま家事の途中で…」そう言った頬がまた、ほんのり赤く染まった。
先ほどのことを思い出したのだろう。右手はポケットのふくらみを押さえている。
眺めていてずいぶん楽しかった。
「すぐに終わらせますから、それまで上がって待っていてくださいますか?」
「ゆっくり用事をすませればいい。わたしは車で待っているから」
聡はくるりと後ろを向いた。彼の袖を、亜衣莉が掴んでひっぱった。
「そんなの駄目です。上がってください。姉は寝室で寝てるから気がつかないと思いますし…」
亜衣莉の勧めに負けて聡は家の中で待ち、三十分後、家事を終らせエプロンを外した亜衣莉とともに車に乗り込んだ。
「堤防沿いまで走ろう」
聡の言った堤防までは十分足らずで着いた。
川岸には真新しい遊具があって、数組の若い夫婦が子どもを遊ばせている。
このあたりでは珍しい閑散とした景色。ささやかだが心に壮大さを感じさせる。
聡はここが好きだった。
車から降りて聡の前を歩いていた亜衣莉が、彼に振り返った。
「この道、わたしの通学路なんです。今の季節、風が心地よいんですよ」
「そうなのか。わたしもこの場所が気に入ってるんだ。休日の朝はいつもやってくる」
「えっ、そうなんですか?…あの車でですか?」
亜衣莉はなめらかなボディーをした、誰の目にも明らかに高級車だと分かる車を指さして言った。
「いや、走ってだ」
「走って?ここまで?ご自宅ってここから近いんですか?」
「車だと十五分くらいかな。だが走ってくるのは近道だから、片道三十分か…」
亜衣莉の目が丸く開かれた。
すましている時と、まったく違う表情に変わり、聡はそれを楽しんだ。
どうやら、亜衣莉の顔は、彼女の感情の揺れで大きく変化するようだ。
「凄いんですね。伊坂さん」
「ふだん、ビルの中にこもったままだから。気分転換して身体をほぐさないと…」
「よい心がけです」
まるで聡の担任のように亜衣莉が言った。聡は吹き出した。
「生意気だな」
亜衣莉が小首を傾げて考え込む真似をした。
「言われたことがありません」
「いま、わたしに言われたじゃないか」
「あ、一本取られました」
聡は笑い出した。
爽やかな戸外での楽しいやりとり。味わったことが無いくらい、心が弾んでいた。
「君は、将来進みたい道はないのか?」
川を眺めながら、並んで土手に腰を下ろした途端、聡は切り出した。
「唐突なんですね。でもどうしてそんなことを聞くんですか?」
「わたしには、それを聞く権利はないということかな?」
「いえ、そういうわけでは…わたし…笑いません?」
芸能人かモデルにでもなりたいというのだろうか?
利発さと整った容姿を持つ彼女だ、その道も難しくはないだろう。
その道へと導く伝手も、聡は持っている。
「もちろん、なんであろうと笑いはしないよ」
「わたし、絵を描くのが好きで…イラストレーターに…」
「絵を描くのが好きなのか?」
亜衣莉が恥ずかしげに頷いた。
「描いている時って、心がとても自由なんです。わたし普段はかしこまっちゃうので…」
「いまは?」
「はい?」
「いまはどっちなのかなと思ってね?」
「…かしこまってると思います」
「絵を描いているときの君を見たいな」
そう口にした聡は自分の言葉に怪訝な顔をした。
自分は、何を思って口にしているんだろう。
その時、聡の鼻先は懐かしい香りを嗅ぎ取った。
鼻先にあるのは草の葉っぱだった。それも半分にちぎられている。
「こうしていつも草の香りをかぐんです。こういう香りっていいものですよね」
何かがずんと腹の底に響いた。それが何か、聡は分からなかった。
「…ずいぶん、久しぶりに嗅いだよ。ほんとうに久しぶりだ」
聡の反応に亜衣莉が、喜びを発して大きな笑みを浮べた。
「トマトとかキュウリとかの菜園の葉っぱも、見つけるとちぎって嗅ぎたくなるんですよね。あれって犯罪になるのかしら?」
苦笑しつつ彼女を見ると、目を閉じて指をほっぺたにあてて、おまけに眉間に皺を寄せて真剣に考え込んでいる。
「明らかな器物損壊罪だな。しかたない、逮捕するか」
聡は彼女の腕を手錠の真似をして掴んだ。
「細いな。折れそうだ。亜衣莉、君、ちゃんと食ってるのか?」
聡は彼女の腕をすーっと上に向かって撫で上げた。
返事が無かった。
顔を上げた聡は、亜衣莉の真っ赤になった頬に気づいて慌てて手を離した。
「すまない」
「いえ」
しばらく身の置き所に困るような沈黙が続いた。
沈黙の空気を、早まった鼓動が震わせているような気がするくらい、彼の心臓が脈打っている。
聡はすべてを無にするように咳払いをした。
「車の免許を取りたいのはなぜだい?」
「あ、はい。就職したい会社の、取得資格の条件なんです」
「そんな…」
そんな心に添わない就職はやめて、専門学校の費用を持つから進学しなさいと言おうとして、聡はあまりに軽はずみだと思いとどまった。
そんな提案は非常識すぎる。
彼女も受け入れるはずはないし、ひどく驚くに違いない。
「はい?」
「いや…わたしが教えてやろう」
「あの、何をですか?」
「車の運転だ」
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