恋にまっしぐら
その17 不注意な言葉



「ハナッ!」

翔の部屋の側まで来たとき、翔の鋭い声が聞こえてきて、聡は足を止めた。
また、ハナとやりあっているらしい。

ハナに対抗しようとしても、無駄な足掻きだ。
大人しく負けていればいいものを、翔は相変わらず抵抗しているらしい。

扉下に作られた専用ドアが前に動いたのを目にして、彼はドアを開けた。

この猫専用のドアを作ったのは聡と父親だ。
ハナが屋敷の中を自由に出入りできないのはかわいそうだと、母親に懇願されたのだ。
こいつのおかげで、ハナの態度は予想していた通り、前にもまして尊大になった。

「よう、今、いいか?」

「構わないけど…今度は何?」

翔の少々きつい口調に聡は眉を上げた。
まあ、こういう態度で歓迎されるだろうことは予想していた。

4月に教職に着いたばかりの弟に、取り決めを盾に、かなりの無理を強いてきたのだから当然の反応だろう。

直前、ハナにいたぶられていたようだし、出向いてくるには、タイミングが悪かっただろうか?

だが、聡の与える仕事は、翔にとってやりがいもあったはずだ。
その面白味を味わってくれれば、もしかして…という目論見もあった。

だが、教師の仕事は聡の押し付け仕事よりよほど面白いのか、教師を辞める気持ちにはならないらしい。

やはり、弟のことは諦めるしかないのだろうか?

「わたしは歓迎されてないみたいだな」

心に覚えがあるせいで、聡は笑いを堪えながら言った。

「ただ働きじゃないにしても、いま、学校の仕事が忙しいんだ。これ以上、仕事を増やしたくない」

立ち上がっている翔の背後にあるパソコンの画面が視界に入り、聡は瞬間、視線を止めた。

「ふーむ」

「何?」

翔が怪訝な顔をした。
腹に力を入れて、笑いを噛み殺す。

「いや、お前の、忙しいの正体が分かったからさ」

翔は遅まきながら事態に気づいたようだ。
パッと後ろに振り返ると、聡の視界から画面を隠した。
だが、もう遅い。

「世間には、取引…なんて言葉もあるな。翔」

聡は手にしていたデータ入りのディスクを、トントンと指先で弾いた。

美紅との関係を、仕事をダシに尋ねてみるつもりで来たのだが、思わぬ収穫を得てしまったようだ。

「いくらなんでも、ただ働きなんてことは言わないぞ。わたしはやさしいからな」

聡はディスクと、小脇に抱えていた書類を翔に向けて差し出した。

聡を睨みつけながら、それでも翔は受け取った。

「それじゃあ、頼んだぞ。期限は三日後だ。よろしく」

「三日!冗談…」

「大丈夫、お前ならやれる。わたしが保証する」

背後に返事はなかった。
きっと腹の中で、罵詈雑言を吐いているのに違いない。

階段まで来て、聡は声を上げて笑い出した。

そして、コスモスを見つめている女性の面影を思い出し、聡は微笑んだ。
翔が惚れるほどだ。美しさは言うに及ばず、とても清楚な感じの女性だった。

少し強気すぎる翔にはお似合いだろう。

聡が階段を降りるのに合わせて、飼い猫のハナも降りているのに気づいた。

ハナは、少し不思議な感じのする猫だ。
人の言葉が分かっているように、的確に反応する。

何年か前に、翔が拾ってきた。
本人の翔はそう感じていないようだが、彼はずいぶんとこの猫に助けられている。

「お前は、ほんとに猫なのか?」

「にゃおおん?」

「お前はほんとに人間か?」と皮肉を込めて聞き返されたような気がした。聡は苦笑した。

「猫の生活は楽しいかい?」

「にゃはん」

ハナは視線を階段の先に向けたまま、頭だけ傾げた。

『答えるまでも無い』だろうか?

「君が、しあわせならいいんだ」

ハナが聡にパッと振り返った。

「にゃ!」

呆気に取られたように瞳を丸く見開いたハナに、聡は悪戯っぽく微笑んだ。





ひっそりと静まり返った職場で、聡は毎日の日課をやっていた。

美紅が入社してから平日毎日のことで、警備の人間は、聡を病的なほどの仕事魔だと思っているに違いない。

急ぎの仕事をやることもあるが、ほとんどはこの日課のためだけに、九時なるともう一度社に戻ってくる。

残業をやる部下がいても、この時間になるといなくなっているのだ。

美紅の仕事の見直しをしていることを知られては、やはり不味い。
彼女本人も嫌な思いをするだろうし、そんなことをしてまで、なぜ美紅を職場内に置くのかと、誰しも不審に思うだろう。

それでも男ばかりの職場に美紅が配属され、全員、職場の華の存在を喜んだようだ。

美紅に分からないように、フォローしてやろうとするやつも多いし、矢木などは、彼女が手痛い失敗をした時に、彼女を辞めさせないでくれと聡に懇願したこともある。

美紅がまったく気づいていない分、矢木の頑張りは見ていてかわいそうになる。
必死の誘いも、成功したためしがないようだ。

そこにきて、ジェイの登場だ。

あいつには、今度、更紗叔母のモデルでも紹介してやろうか?

聡は胸の内で考えつつ、エンターキーを押した。今夜はこれで終わりだ。

「終わったか?」

椅子の背もたれに背中を預けて背伸びをしていた聡は、あまりに近い声に驚き、ビクリと身を震わせた。

「ジェイ?いったいいつからそこに…」

「君こそ、いったいいつ気づくんだろうと思ったよ」

のんびりした様子で椅子に腰掛けたジェイはそう言ったが、気配を消して入ってきたのに違いなかった。

彼を驚かせるために…

「悪趣味だな」

「趣味は悪くない方だよ」

「…それで、何の用だ?…それにしても、良くここにいるって分かったな」

「まあ、簡単な推理さ。美紅はそそっかしいからな。どうしてもミスをする。だが、毎日なんの支障もなく仕事は円滑に回っている」

ジェイは椅子をくるりと一回転させた。

「誰かがミスを修正しなければ…そうなるはずがない」

聡はジェイの推理に最後まで付き合うことに決めて、腕を組んだ。

「君は美紅の仕事を日ごと確認していた。それをいつやるか?皆に気づかれないためには…夜しかない」

ジェイは口の右端を上げてにやりと笑った。

「だから君は、毎晩ここにいる」

「頭の切れはいいが、その性格は問題ありだな」聡は笑い出した。

「明日からは、お前にやってもらうとするか」

「それは引き受けられない。僕はプライベートで忙しい」

その言葉に聡は眉をしかめた。

「ジェイ。星崎君を泣かせるな」

「そんなこと、人に言われたくないね」

「ジェイ、わたしは本気だ。彼女を泣かせるな。絶対にだ」

凄みをきかせて、聡はジェイに言葉を叩きつけた。だが、ジェイはどこ吹く風だ。

「君は美紅を好きなのだと思っていたよ。なぜ彼女を入社させた?誰かに頼まれたって言ったろ、それは誰なんだ?」

「推理が得意なんだろう」

「気になるんだ。教えてくれ」

珍しく懇願するようなジェイの声音に、聡は眉を上げた。

「翔だ」

「翔?彼と美紅に、いったいどんな関係が…?」

「聞いていないからわたしも知らない。まだこちらに来て、翔に会っていないんだろう。直接聞いたらどうだ。やつが話すかはわからないが」

「付き合ってはいないよな。付き合っていたら美紅が僕と…」

不安そうなジェイの様子に、聡はほっとした笑みを浮べた。
今回の彼は、かなり本気らしい。

「翔には恋人がいる」

ジェイは、あからさまに肩から力を抜いた。

「そうか」

その時、聡の脳裏に、今夜三人が食卓を囲み、楽しげに食べている様が浮かんだ。
亜衣莉にご馳走になった手料理の味を思い出し、ジェイに対して羨ましさが湧いた。

「星崎家での夕食はうまかったか?」

その言葉を口にしたとたん、聡は後悔した。この最近、頓に不注意な言葉が多すぎるようだ。

ジェイは、にやりと笑みを浮べた。

「僕は君に、…美紅の家で夕食を食べるって…言ったかな?」

ずいぶんと間を持たせながらそう言い、ジェイは考え込むふりをした。

会話を強引にでも打ち切った方がよさそうだった。

「さて、仕事も終わったし、そろそろ帰るか」

聡は落ち着いた言葉とは裏腹に、さっと立ち上がった。
ガシッと音がして、彼の前にジェイの足が立ちふさがった。

椅子ごと滑走して来たジェイは、片足で聡の逃げ場を封鎖したのだ。

「僕が逃がすと思ってるのか?」

聡は歯噛みした。
この男をここに呼んだ自分を、呪いたくなった。




☆ランキングに参加中☆
気に入っていただけましたら、投票いただけると励みになります。

恋愛遊牧民G様
   
inserted by FC2 system