恋にまっしぐら
その22 しこりの真実



堤防沿いの道をゆっくりと走りながら、聡の目は自分の思いの中に向けられていた。

数日すれば十二月に入る季節、土手の草も枯れ色となり、走っている身には空気の冷たさが心地よい。

ジェイは何を考えているのか、まったくつかめない。
昨夜、ジェイからの電話で、亜衣莉が舞台の直後に倒れたと知らせて来た。
食事を満足に取っていなかったための貧血らしかった。

だから、誰かが彼女のことを、充分に気に掛けてやらなければならないのだ。
だが、それをしようとした聡は彼女に拒絶されてしまった。

聡は走りを止め、以前ふたりで並んで座って話をした場所に座り込んだ。
あの楽しい時が、今、たまらないほど恋しかった。

亜衣莉の唐突な、拒絶ともとれる振る舞い。
彼女の中で、いったいどんな変化が起こったのだろう?
なぜ突然携帯を返し、運転の練習までも断ってきたのだろうか?

ここ数日、馴染みになった焼き付くような胸苦しさをいままた感じ、聡は唇を噛んだ。
彼の理性はその感覚を、適当な言い訳で誤魔化そうとする。

誤魔化し…聡はため息をついた。

未だに、深い罪悪感に駆られる、過去の誤魔化し。

父親が言ったしこりの存在。
だがみんなは、そのしこりの真実を知らないのだ。
ジェイも父親も、聡の過去を知る人間は、みな…

彼らは、聡が婚約者に浮気されてひどく傷ついたと思っている。
だがそうではなかった。

彼女は美しかった。
通り過ぎるひとが驚いて振り返るほどに…
透明感のある金髪。不思議な色合いの瞳。

聡も他の男たち同様、転校してきた彼女の美しさに惹かれた。

数ヶ月後、聡は彼女を手に入れた。達成感と満足感があった。
彼女の心が変わらないうちにと、小さな石のついたエンゲージリングを贈り、婚約した。

まだ17だったのに…聡は苦く笑った。

もっと早く気づけた筈だった。
あんな馬鹿な争奪戦の熱に侵されていなければ、初めてキスをした時に…

何もトキメクものなどなかった。二度目も、三度目も同じことだった。
満足感や、悔しがる男どもへの優越感に浸っていなければ気づけたはずだった。

そのうちに、唇を合わせるだけのキスに彼女の方が物足らなくなり、唇を開いてもっと深いキスを要求するようになった。聡はそれに応えられなかった。

その頃になってやっと、自分が間違いを犯したことに気づいた。

頻繁にキスを求めてくる彼女に嫌悪感すら湧くようになっていたのに、彼女はますます積極的になった。
婚約しているのだから当然の行為だと、身体の関係を求めてきたのだ。

もちろんその時の彼にそんな気持ちはなかった。
彼女にどう別れを切り出そうとばかり、頭を悩ませていたのだから…

彼はバージンロードをバージンのまま歩いて欲しいのだと誤魔化し、その場その場を切り抜けた。

なんて稚拙な言い訳だろう。
いま思い返しても、自分の愚かさに顔から火が出そうだ。

彼女はそんなことは我慢できなかった。
後で知ったことだが、聡と知り合う以前、とっくの昔に彼女はバージンではなかったからだ。
セックスの味を知っていた彼女は、身体の強い欲求に抗いきれず、他の男にそれを求めた。

そして男と身体を合わせているところを、男の妻に見つかった。
男は彼女の前の恋人で、ふたりの肉体関係は数ヶ月間に及んで続いていたらしい。

それで終わりだった。

彼女は許して欲しいと泣きながら懇願したが、聡は拒絶した。

幾度も赦しを請う彼女に彼はうんざりし、元から愛してなどいなかったと本音を口にしそうになるのをなんとか堪えた。

結果、聡は婚約者を寝取られた男とあざ笑われることになったが、たいして気にならなかった。

日本に帰国することが決まっていたし、彼女に対する強い罪悪感でいっぱいで、彼女から遠く離れられることだけが嬉しかった。

彼女に真実を口にした方が良かったのか、口にしなくて良かったのか今でも分からない。
ただ、聡の方は、いまだに深い罪悪感にさいなまれていた。

それ以降、聡が女性を自分から遠ざけ続けたのは、その二の舞を繰り返すのが怖かったからだ。

あの時の聡は、彼女を求めるあの感情を恋だと思った。だが違ったのだ。
聡は、あの経験から、自分にはひとを愛する能力が欠落しているのだと思った。

喫茶店で、亜衣莉が男友達のことを楽しげに話した時の心の憤りも、亜衣莉の舌先が唇を舐めたのを目にしたときの、自分の身体の変化も、彼女のことを思う時の堪らないほどの胸苦しさも、聡は自分に認められずにいた。

本物の恋は、どうすれば見分けられるというのだ。
愛していると言ったその口で、実は愛していなかっただなんて身勝手なことを、どうして言えるだろう。

邪魔しているのは根強い罪悪感だろうか、それとも…怖れなのだろうか?

聡は枯れた草の上に寝転がった。少し汗ばんだ身体に風は冷たい。

青い葉っぱを指先でちぎり、聡は青臭い匂いを嗅いだ。

この葉っぱのように青い彼女は、彼のような男では相応しくない。
躍動感のあるダンスを踊っていた亜衣莉は、若々しさがはちきれそうだった。

途中、彼女が何度かふらついたときは、そのたびに駆けよりたくなった。
それなのに、最後に前転をしようとする彼女にぞっとして、思わず叫んでしまった。
その後に沸き起こった歓声で、誰も気にとめなかったが…


「伊坂さん」

聡ははっと息を呑んだ。信じられないことに亜衣莉が彼の顔を覗きこんでいる。

「…驚いたな」

「早朝に走ってるって言ってらしたから、今朝もいらっしゃるかなと思って」

ひどく遠慮がちに亜衣莉が言った。
聡は上体を起こした。

湧き上がった喜びに心が躍動する。
先ほどまでの罪悪感も怖れも、何もかも消し飛んだ。

「身体は大丈夫なのか?昨日、あの後倒れたって…」

聡は彼らしくなく、顔いっぱいの笑顔を浮べた。
彼の少年のような笑顔に、亜衣莉が目を見張った。

「亜衣莉?」

「あ、は、はい。点滴してもらって、すぐに元気になりました。…みんなに迷惑掛けてしまって反省してます。…あの…ここに、座ってもいいですか?」

「あ、ああ」

並んで腰掛けたあと、しばらくふたりして黙り込んだ。
そんな中、亜衣莉がおずおずと口を開いた。

「昨日、どうしていらしたんですか?」

「やっぱり気づいたのか。視線が合ったような気はしたが…」

「気づきますよ。伊坂さんはとても目立つもの。前転の瞬間に『止めろ』って叫ばれて、驚きました」

「聞こえたのか?」

「はい。伊坂さんの声は独特だし、よく響きますから」

「そうかな?」

「そうです。あ、あの、だからその、どうしていらしたんですか?わたし伊坂さんに嫌われたんじゃなかったんですか?それが聞きたくて来たんです」

「嫌う?わたしが君を…?いったいどうしてそんな風に思ったんだ」

「だって、喫茶店で口を聞いてくれなくなって…その後、家に帰ってわたしがお礼を言っても何もおっしゃらなかったから。わたし、何か気に障る嫌われるようなことをしたんだって…思って…」

突然掠れた亜衣莉の言葉に、聡は驚いて振り返った。

亜衣莉の下の瞼に大きな涙が膨れ上がり、頬を伝ってポロポロと零れ落ちてゆく。

「あ、亜衣莉…」

「ごめんなさい」

「こんなことで泣くな。嫌いなわけがないだろ」

亜衣莉はこくこくと頷いた。

聡は自分の手をぐっと握り締めて、湧き上がる衝動を堪えた。
力を抜いたら、彼女を思い切り抱き締めてしまいそうだった。

それからしばらくの間、ふたりはたわいもない会話をした。

答える前に首を傾げる癖、可愛らしい微笑み…控えめな亜衣莉の笑い声が胸をおかしな具合にくすぐる。

話の内容などに関係なく、聡は久しぶりに心の弾みを味わっていた。




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恋愛遊牧民G様
   
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