恋は導きの先に
その14  不自然なデート



雨が降っていた。
空を覆い尽くしている雲の層の厚さから、今日は一日雨になるのかなと弥由は考えていた。

初めての、ふたりきりのデート。
弥由の人生始まって以来、初のデート体験は、張り詰めた緊張で始まったまま、その状態を保っている。

隣で、無言のまま運転している篠崎は、安全に運転することと目的地に向かうことだけを念頭に入れて運転しているようだった。その様子から、彼は弥由の存在を、念頭から消し去っておこうとでもしているような気がしてならなかった。

ワイパーの動きを目で追い、ウインカーのカチカチという音に耳をすましながらも、弥由の意識は、すべてといっていいくらい篠崎に集中している。

篠崎の告白。
そしてふたりきりのデート。
幸せでいっぱいなはずが…

彼女が莉緒でいるからだ。
篠崎は、自分の従兄弟の元彼女だということが頭から離れないのだと思う。そして、弥由にしても、嘘をついていることが心にわだかまっている。

話さなければ…
平林にもすでに話し、会社も一週間すれば辞めることになっているのだ。
話さなければならない。

篠崎は…この嘘を許してくれるだろうか?


目的地に着いた。
水族館だ。雨だというのに駐車場は車で満杯だった。

「夏休みだからな。どこに行ってもひとでいっぱいだな」

前方を見つめたまま篠崎が言った。彼は弥由に向けて言葉を発していない。
弥由は無言で頷いた。
声を発するのが無性に怖く、弥由はそんな自分が哀しかった。

層の厚いガラスの向こう側、与えられた世界を不幸と思う様子もなく、魚達はゆうゆうと泳ぎ回っていた。

どんな世界に住んでいようと、その住人が自分の世界に疑問を感じたり不幸と感じていなければ、幸せは本物なのだろう。

弥由も篠崎とともにいることに疑問を感じなければいいのだ。
そして、彼が彼女の存在を考えないようにしていることを哀しいと思わなければ、純粋に幸せでいられる…。

手のひらくらいの綺麗な魚が、弥由の目の前に来て、じっと彼女を見つめてきた。
まるで、何を悩んでるのと問いかけるようなその目と、考えすぎだよといわんばかりの尾ひれの動きに、弥由は思わず微笑んだ。
弥由は顔を上げて篠崎を探した。いま感じた楽しさを彼と分かち合いたかった。

弥由はきょろきょろと周りを見回したが、篠崎はすでにこの部屋にいなかった。
もう次の部屋に行ってしまったのだろう。

弥由は胸が苦しかった。ともにいて、思うこと感じたことを分かち合えないというのは、なんて淋しいことなんだろう。

恋は弥由が思っていたものとは違う。
恋が実りさえすれば、甘くやさしいときを、ふたりいっぱい過ごせるものと思い込んでいたのに…

動きが取れないほど大勢の人の中にいて、ひとりぽっちの自分。
篠崎を愛する思いがこの胸になければ、弥由はこの場にいて淋しいなどとは思わなかっただろう。

家族連れの楽しげな会話、はしゃぎすぎて親に叱られてなお、元気に飛び跳ねている子を見て、愉快な気分で魚たちと対話しているだろう。

なのに、たったひとつの恋が、弥由の世界のすべてを変える。

弥由はゆっくりと呼吸した。油断すると涙が零れてきそうだ。

「森川」

背後からの篠崎の声に、弥由は振り返った。
篠崎はほっとしたような表情を見せたものの、それ以上何も言わなかった。

篠崎と肩を並べて歩いているうちに、不思議と心の強張りが消えてゆくのを弥由は感じていた。
いま篠崎は弥由の隣にいる。
彼は弥由とともにいたいから、ここにいてくれるのだ。
様々な誤解のうえにあっても、なお…ともにいたいと思ってくれている。

弥由は篠崎の手を取った。
ためらいがちに握り締め、それから顔を上げて篠崎の顔を見つめた。

少し驚いていた篠崎が、すべてを払拭したように、ふっと微笑んだ。
そして、弥由の手を強めに握り返してくれた。

篠崎の笑顔が、弥由の世界に眩しい光をもたらす。
考えることはやめて、その光だけを感じればいいと、弥由の中で導きが囁いた。

ふたりは、それからペンギンのかわいらしいショーを見て、美味しい食事を味わった。
激しい雨音すらも、篠崎の笑みと相まると、喜びのさざめきのように弥由の耳をくすぐった。

ひとは不思議だと弥由は思わずにいられなかった。
ほんの少し気持ちを切り替えただけで、こうも劇的に世界は変わってしまう。





人生はやはり波で出来ているようだった。
のぼりがあればくだりがあり、天に昇れば地に落ちる。

訪れてなど欲しくなかった、くだりへと向かう世界の劇的変化。
それは、この日の別れのときに訪れた。

「君は、いまでも祥吾のことが好きなのか?」

弥由は篠崎のその言葉に、驚きと戸惑いを覚えた。
彼は感じないのだろうか?
これほど彼へ向けて発している彼女の思いのひとかけらも、彼に届いていないのだろうか?

「どうしてそんなことを聞くんですか? それに、彼にはもう恋人がいて…」

「いるさ」

吐き捨てるように篠崎が言った。
苛立ちを顕わにした篠崎の眉間に、苦悩するような深い皺が寄った。

「彼女を傷つけるから、別れられないって言いやがった。あの馬鹿野郎…そう考えてる時点で、自分の気持ちがどっちにあるか…」

ぐっと詰まって言葉を切った篠崎が、唇をぎっと噛んだ。

この間の長沢の様子からそうではないかと思っていたが、やはり長沢は莉緒のことをいまでも…

「あいつの気持ちが君にあるとわかって、そんなに嬉しいか…」

自嘲するような笑みを浮べて篠崎が言った。

「わたし…は」

「あいつは彼女と別れないぞ。どうせ君の元には戻ってこないさ…」

弥由の心を傷つけようでもするように、けれど苦しげに篠崎が言い放った。
苦悩する篠崎の様を目にして、弥由の胸に痛みが走った。

「篠崎さん…」

「ごめん。最低だな…俺」
篠崎がハンドルに突っ伏した。

弥由は決意を固めた。
いますぐに、彼に真実を告げなければ。

「わたし、莉緒じゃないんです」

顔を上げた篠崎にじっと見つめられ、弥由はいたたまれなくなった。
名前を偽って働いていたこと、そして弥由が自分より年上と分かって篠崎はどんな反応をするだろうと考え、弥由の背中を怖れが駆け抜けた。それでも言わなければならない。

「わたし…姉の弥由なんです」

「いくら似ていても、俺は君を間違えたりしないよ。そんな言葉ではぐらかされるとは思わなかったな」

篠崎の言葉を理解するのが遅れて、弥由は言葉を返せなかった。
篠崎の怒りがはっきりと見えた。弥由はうろたえて喉を詰まらせた。

「あ、あの、わ、わたし…」

「悪いけど、降りて。もう行きたいから…」

篠崎の冷たい拒絶の言葉に驚き、弥由は反射的に車を降りた。
彼女が降りてすぐ、篠崎の車は走り去って行った。

弥由は呆然としたまま、傘もささずに立ち竦んでいた。
そして後悔した。

どうして彼の車を降りてしまったのだろう。
いますぐに誤解を解いてしまうべきだったのに。
苦悩したまま、彼を帰らせてしまうなんて…





「お姉」

部屋に戻ってドアを開けたら、莉緒が飛びついてきた。濡れた弥由を抱きしめ、莉緒は慌てて飛びのいた。

「わっ、どうしたの? こんなに濡れちゃって。タオルタオル」
莉緒は急いで洗面所にタオルを取りに走ってくれた。

「ありがと、莉緒。すぐシャワー浴びる」

タオルで頭を拭き、腕と足元をぬぐって弥由は風呂へと歩いて行った。
莉緒は話したいことが口から零れそうな表情をして、弥由にくっついて来た。

「今日のお昼くらいに、あの…祥吾が来たんだ」

「えっ、長沢君が?」

ボタンを外そうとしていた弥由はその手を止めた。
うんと莉緒が頷いた。

「とにかく、早くシャワー浴びなよ。話したいから。なんか食べる?それとも食べてきたの?あ、そうそう、デート楽しかった?」

「あとで話すわ」
そう言うと弥由は妹を洗面所から追い出した。

シャワーを浴びて出てくると、テーブルの上にふたつのワイングラスと赤ワインが置いてあった。

「えへっ、お祝い」

「なんの?」

「お姉の初デート記念だよ。…それと…ま、とにかく乾杯しよ」

グラスに半分ほどのワインを入れて、ふたり乾杯した。
一口、口に含んでから莉緒が話を始めた。

「祥吾、やりなおしたいって言ってきたの。彼女とはちゃんと別れたって。…はじめはなんか混乱しちゃって無性に頭にきちゃって、一方的に怒鳴りまくっちゃってさ…」

莉緒は、ワインをグラスの中でくるくると回し続けている。

「あの彼女に、ものすごい罪悪感感じちゃうんだよね。やっぱり彼氏を横取りすることになるんだし…でも…」

「莉緒が、罪悪感を感じなくてもいいと思うわ。長沢君は辛いことだっただろうし、その彼女も辛い思いしてると思う。でもね、わたしがその彼女なら、気持ちをごまかしてまで付き合ってもらっても嬉しくないわ、辛いだけよ。莉緒だってそうでしょ?」

莉緒が頷いた。

「でもね、素直に喜べないのも事実なの。喜んじゃいけないみたいな気がして。ひとの不幸の上にある幸せみたいな気がして…この幸せじたいが、純粋なものじゃないみたいな気がしてさ」

「莉緒、ぐだぐだと考えるのはやめなさい。ひとの気持ちがどうとか、幸せになっちゃいけないみいな考え、やめなさい。自分で自分を不幸にするべきじゃないわ。幸せになれるのなら、そうならなきゃいけないのよ。莉緒自身が、自分を幸せにしてあげなきゃ」

「そう…かな。わたし、祥吾と一緒にいてもいいのかな?」

莉緒は確信が欲しのだろう。
彼女の中に巣くっている罪悪感を切り捨てるために。

「莉緒、長沢君と一緒にいたいんでしょ?」

莉緒が強く頷いた。

「なら、何を考える必要があるの?」

照れくさそうな笑みを浮べて、莉緒が立ち上がった。

「ちょっと、電話してくる」

莉緒が部屋から出て行き、ひとりになった弥由は肩から力を抜いた。
心から安堵が沸いてきた。

弥由はバッグから携帯を取り出した。
篠崎に、このすべてをいますぐに伝えたかった。だが、彼の携帯は繋がらなかった。




   
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