恋は導きの先に
その15 キスは熱く甘く



弥由は隣に座っている篠崎にちらと視線を向けた。
パソコンのキーボードに指を置いたまま、篠崎は意識が飛んででもいるようだ。
うつろな目は画面のどこも見ていない。

「篠崎さん、鮫島係長が呼んでます」

弥由は篠崎の肩を少し揺さぶり、彼が現実に戻ったのを確認してから、すぐに手を外した。

「篠崎、なってないな、お前は。いまは仕事中だぞ」

鮫島の怒号が飛び、周囲に緊張が飛び火してゆく。篠崎が慌てて立ち上がった。

「す、すみません」

篠崎が机の端をぎゅっと掴んだ。弥由は危機を感じて、篠崎のその手をじっと見つめた。

「もう、帰れ」

「え?」

「仕事もせずにぼーっとしてるやつは邪魔なだけだ。いないほうがすっきりする」

「申し訳ありません」

篠崎の意識のスイッチが切れ掛かっているのが分かる。
彼は机を掴んだ指に意識を強行に抽入し、自分を放すまいとしているようだ。

「篠崎さん」

弥由の呼びかけに、篠崎が口を開けた。
その瞬間、篠崎の指から力が抜け、彼の体が傾いでゆく。

弥由は篠崎の身体に両腕を回し、必死でその身体を支えようとした。

「篠崎君っ! わーっ、森川さん」
今津の叫びが聞こえる中、弥由は篠崎の体の下敷きになっていた。

「お、おい…大丈夫か?森川」

鮫島が、真上から覗き込んで来た。
頭と背中をしたたかうったけれど、なんとか大丈夫そうだった。
よろよろになった弥由は、周りを囲んでいるみんなに、情けない顔で片手を振って見せた。





鮫島と佐野の二人がかりで、意識が朦朧としたままの篠崎をソファのある応接室まで運んで行った。
篠崎はそうとう熱があるようだった。これではうつろな目をしていたのも道理だ。

弥由は給湯室の冷蔵庫から氷を持ってきて、冷たく絞ったタオルで篠崎の顔と首筋を拭いた。時々、篠崎のうつろな目が弥由を捉えているようだった。

「熱のせいなら、救急車の必要はないかな?」鮫島が言った。

「そうね。大丈夫じゃない?彼女の介抱もあるし」平林が言った。

「ところで、森川。お前、偽名使って働いてたそうだな」

鮫島の言葉に、弥由の肩がぴくりと跳ねた。
気まずく振り向くと、鮫島が鋭い目つきで睨んでいる。
その隣で平林が弥由に向けて小さく頷いた。どうやら鮫島に、すべて報告済みらしい。

「すみません」

「まったく、馬鹿なことしやがって」

「すみません」

返す言葉もなく、弥由は萎れた。

「まあ、森川莉緒は今日付けで辞めることになったから」

弥由は肩を強張らせた。今日付け…

彼女は立ち上がり、鮫島と平林と向かい合った。

「あの、いままで本当にお世話になりました」

「うむ。で、明日からは、森川…えーと、なんだったかな、平林」

「ふふ、弥由よ、やーゆ」

「なんだ、ちょっと失念しただけだぞ。鬼の首でも取ったようににやにやするな」

鮫島は仏頂面で平林に言うと、また弥由に向いた。

「とにかく、森川弥由が入社することになった。みんなお前のことは苗字で呼んでるし、必要だと思うやつにだけ。本当のことを言えばいいさ」

弥由の後ろにいる篠崎を、鮫島がちらりと見て言った。

「で、でも…そんなこと、いいんでしょうか?」

「なんの問題もない」

鮫島のその言葉に、思わずふっと笑ってしまい、弥由は慌てて真顔に戻した。

それが平林と鮫島の出してくれた結論らしい。
弥由は自分を必要としてくれる結論付けが、ほんとうにありがたかった。
篠崎には、今度は勘違いされないように、きちんと本当のことを告げよう。

「それじゃ、俺は忙しいからこれでな。あとは森川…弥由だったな。弥由、お前に任す」

そう言って鮫島が出て行ってすぐ、弥由の肩を嬉しそうにとんとんと叩いて平林も出て行った。

弥由は篠崎に向いた。
苦しそうに息をしている篠崎は、右腕で目の辺りを押さえている。
弥由はタオルを絞り、篠崎の腕をそっと下ろしてから、吹き出た汗を丁寧に拭いていった。

篠崎の手が伸びてきた。
弥由はその手を握り返した。
見ると篠崎の瞳が弥由を捕らえている。

「苦しいですか?」

弥由の呼びかけに、篠崎がうるんだ目を彼女に向けてから、ゆっくりと閉じた。

「苦しい…?ああ…。夢を…夢か…鮫…君の…やゆ…そんな…いのに」

呼吸を押し出すときだけ言葉が音になっているようだった。
弥由は篠崎の手の甲に唇を当てて頷いた。

「…駄目だ…あいつが…でも…か…」

それきり篠崎はおとなしくなった。眠ってしまったらしい。

お昼は、今津が弥由の分までお昼を運んできてくれて、篠崎を気にしながら今津と一緒に食べた。
昼休みの時間の間、みんな篠崎を心配して、ちょこちょこと顔をのぞかせた。

午後は、篠崎の看病と、平林に渡された数枚の書類に書き込みをしているうちに、時間が過ぎていった。

平林は、弥由の履歴を見て、「納得だわ」と可笑しそうに笑っていた。

三時くらいになると、篠崎の熱もかなり引いてきたようだった。
弥由が彼の額に掛かる髪をそっとかきあげていると、篠崎が弥由の手を掴んでやめさせた。

「こんなこと、しないでくれないか」

弥由はその言葉にぴくんと震えて手を引いた。
篠崎が弥由の顔を見つめてから、苦く顔を歪めて視線を逸らした。

「だいぶ、迷惑掛けたみたいだな。すまない」

「気分は?」

「気分なんかどうでもいい。どうせ最悪なんだから…」

「どうしてですか?」

「それを俺に聞くのか?」

「意味が分かりません」

「祥吾とよりが戻ったんだろ?」
篠崎がガバッと起き上がって怒鳴った。だが、めまいがしたのか、すぐに倒れこんだ。

「それは莉緒です。長沢君の相手は莉緒で、わたしは弥由なんです」

「君が莉緒だ。どうしてそんなことを…」

弥由は起き上がろうとする篠崎を押し戻し、煩く騒ぎ立てる彼の唇を唇で塞いだ。

一瞬抵抗しようとした篠崎は、すぐに大人しくなった。

キスはひどく熱く甘かった。
弥由はゆっくりと唇を離してから篠崎に微笑んだ。
篠崎の瞳が熱でないもので潤んでいる。彼女の瞳も、同じ色で潤んでいるに違いない。

「初めてのキスの味は、篠崎さんの熱の味?でしたね」

「森川…」

「わたしは森川弥由です。長い話になりますけど…」

弥由はゆっくりともう一度、篠崎に顔を寄せていった。

「篠崎さん、二度目のキスよりも先に、話が聞きたいですか?」

篠崎がどちらを選択したのか、弥由には分からなかった。
彼が声を発することは、もう出来なかった。




End




   
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