恋は導きの先に

その3 不確かな秘密



鮫島芳樹は厳しいと平林から告げられていた通り、仕事に関しては妥協がなかった。
それでも、入ったばかりの弥由には、多少の甘さがあるように彼女には感じられた。
与えられた仕事も簡単なもので、鮫島の厳しさを感じさせるものなどなかった。

平林の言葉を過大に受け止め過ぎていたからだろうか。
考えてみれば、弥由は短大を卒業して働くのも初めてということになっているのだ。そんな新米に、重要な仕事を任せるはずもない。

コピーや簡単な入力ばかりで、仕事の量は少なくはなかったけれど、困るほどではなかった。
残業の必要などもなく、定時にはいつも退社できた。

仕事はなんの問題もなかったが…

面接から帰った弥由は、莉緒に篠崎遥輝のことを尋ねたが、莉緒はそんなひとは知らないよと首を捻った。
弥由はため息をついた。
莉緒自体は彼を知らないのか、まったく記憶に残っていないかのどちらかだ。
どちらにしても、莉緒が知らないというのでは、弥由にもどうしようもない。
あとは篠崎遥輝自身に聞いてみるしかないが…

弥由は隣に座っている篠崎にちらと視線を向けた。
仕事に集中しているいまの彼の方が、弥由を見たときよりも顔つきがやさしい。
そんな調子では、聞いたところで話してくれるとは思えなかった。

莉緒のしでかしたことが何であれ、いま弥由は莉緒ということになっているのだから、謝れるものならば謝りたいのだが、彼のほうは、莉緒の謝罪を受け入れる必要性など感じていないようだ。

「森川、篠崎の顔見つめてて、仕事ができるのか?」

弥由はからかうような声に、鮫島に向いた。

「申し訳ありません」

弥由の頬がほんのりと染まってゆく。
同じ部署の何人かが、仕事を続けながら微苦笑をしている。
篠崎の方は見なかった。きっと最悪の顔をしているだろうことは容易にわかる。

弥由は手元の書類を持って、鮫島に手渡した。
鮫島は黙って受け取り、違う書類を差し出してきた。弥由は目を通して頷いた。

「明日の会議用ですね。今回も三十部でよろしいですか?」

「いや、二部増し」

「了解しました」

「森川さん、これもコピー頼む」

弥由の真向かいに座っている芝原から書類を受け取ると、彼の右隣に座っている今津も書類を差し出してきた。

「あ、わたしもこれお願いー、冒頭に適当な時候の挨拶文入れといてぇ」

弥由は今津ににっこり笑いかけながら受け取った。
今津はこの部署で、弥由のほか唯一の女性だ。

彼女は頭の回転が速いのに、とてもほんわかとして温かそうな印象の女性だ。
弥由とも馬が合って、彼女のおかげで休憩時間も退屈しないで済む。
三つ年下ということになっているけど、実際は彼女と弥由は同じ歳だ。

この部署は全部で七人で、あと佐野と栗田という男性がいる。
佐野は三十歳ですでに二人の子供がいるそうだ。
栗田は少し太めでごつい顔をしているので、弥由より年上だろうと思っていたのに、彼も弥由と同じ歳だった。

篠崎は、弥由よりひとつ年下だ。莉緒とは三つ違いということになる。
いったい、ふたりの接点とはどんなものなのだろう?

書類を腕に抱え、弥由は篠崎をちらりと見てからコピー室に向かった。





土曜日、ひさしぶりの我が家を弥由は満喫していた。
早く来い早く来いと母親がうるさく、金曜の夜に兄の徹(てつ)が車で迎えに来てくれた。

母の手料理は心まで満ちる味だし、住み慣れた我が家はやはり心地が良い。
庭が眺められる居間にのびのびと寝そべっていると、兄嫁の友美がもうすぐ一歳になる颯太を抱えて入って来た。

「お義姉さん、もう行くの?」

「ええ、早く連れて来いって、うるさくって」とくすくす笑う。

どこの両親も同じらしい。
弥由は笑いながら立ち上がり、颯太においでと両手を差し出してみた。だが颯太にそっぽを向かれた。しょげている弥由に、友美が申し訳なさそうに言う。

「このところ、人見知り激しくて。颯太、わたしの両親にも抱かれないのよ。連れてくのはいいんだけど、懐かないのは連れてくる回数が少ないからだなんて文句言われるとねぇ」

弥由は友美の渋いため息に、声を上げて笑った。

「莉緒ちゃんは?」

「コンビニ。なんかデザートの新メニューが出来たとかって、それ買いに行ったわ」

「じっとしてるの嫌いだものね、莉緒ちゃん」

そう言ってからつくづくと弥由の顔を見つめてくる。弥由が「何?」というように眉を上げると、友美が笑って首を振った。

「ふたり、ますます似てきたなと思って。なんか…」

友美が首を傾けて、言いよどんだ。

「莉緒ちゃん、無理してあなたに似せようとしてるみたい」

それは弥由も感じている。
去年の暮れに付き合っていた彼氏と、なんらかのいざこざがあってふたりは別れた。

莉緒の変化はその後からだ。だが、莉緒はそのことをけして口にしない。

「双子の駿君とはぜんぜん似てないのにね」

玄関の方から友美を呼ぶ徹の声がした。
返事をしながら部屋を出てゆく友美に、弥由も着いていった。

駿輔は莉緒と双子の兄だが、二卵性のふたりはまったく似ていない。

大学三年になった彼は、学校の講義以外の時間、バイトに明け暮れている。

莉緒の変化の原因を知っている者がいるとすれば、駿輔しかいないだろう。





「えっ、お見合い?わたしに?」

夕食を終えてのんびりしているところに見合い写真を差し出されて、弥由は驚いた。

「小関のおば様が弥由にって煩いのよ。とにかく写真を見せてくれっていうもんだから」

「見合いなんて駄目だよ。結婚する相手は恋愛でなくちゃ」

なぜか莉緒は、本人の弥由よりもムキなっている。

「見合いでも恋愛でも同じよ。結局お互いがその気にならなきゃ結婚までゆかないんだから」

そこまで言って、母親は弥由をじっと見つめて首をかしげ、それからため息をついた。

「会社辞めてまで漫画家なんて商売始めたとこだから、わたしもそんな気ないと思うって言ったんだけどね」

もちろん全面的に賛成したわけではないわよという含みを込めた母の眼に、弥由は頷き、手に持った見合い写真を開いてみた。

見合い写真というには、ずいぶんとラフな格好をしている。

「うぎゃー、お姉の好みじゃないよ。こんなの」

「莉緒、失礼よ」

そう妹を建前で叱ったものの弥由も同感だった。

「返しておいて、気持ちないから」

一応役目は果たしたというように母がこくこくと頷いて見合い写真はもとの紙袋に無事収められた。
黙って囲碁の本を開いていた父親の肩が、ほっとしたように和らいだことに気づいて弥由は小さく笑った。

「駿輔は、今日も遅いの?」

「この最近、前にも増して帰ってこないわよ。どこをほっつき歩いてんだか、あの子はほんとにぃ」

「携帯掛けてもちっとも出ないんだよね。ほんとに何してんだろ」

不思議そうに莉緒が言った。

莉緒とも連絡を取っていないと知って、弥由も気になった。
ふたりをずっと見てきた弥由は、駿輔と莉緒の絆の深さを良く知っている。

「それで、あんまり話してくれないけど、莉緒、仕事の方はどうなの?」

「大丈夫、こう見えても、わたしけっこう有能なんだからぁ」

弾むような声であっけらかんと自慢そうに言う妹に、弥由の顎がカクンと落ちた。





   
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