続 恋は導きの先に
その1 恋に落ちこぼれ



「お姉、ピンポン鳴ってるよぉ。出てよー、頼むからぁ」

莉緒の懇願と文句を含んだ大声に、弥由は手にした本から顔を上げた。

「はーい」

代引きで配達されてきた荷物を受け取ると、締め切りに追われて他人のことになど構っていられないらしい莉緒の目を避け、弥由はそそくさと自分の部屋に戻った。

梱包を解いて開けた箱の中から二冊の本を取り出し、一冊を手に取ると、ページをパラパラと捲って中身を確かめる。

恋愛心理学…

すでに五冊この手の本を買い、弥由は受験の時よりも精神的に追い込まれながら読み込んでいる。

けれど哀しいことに、これらの本は、弥由の得意とする記憶・計算・語学などの能力ではなく、微妙な心理戦を理解する能力を必要とする。

もちろん、それこそがもっとも弥由の苦手とするところであり、彼女が磨きたい能力なのだが…

専門学校時代、家庭教師をしていた時に、数学が大の苦手な子に、どこが分からないのと聞いて、どこが分からないのかも分からないと言われ、唖然としたことがあったが、まさにあの時の教え子の気持ちが、いまは涙が出るほど理解出来た。

これまで弟の駿輔に、弥由は頭はいいけど、感情面に弱いんだよなぁと言われ続けていたが、それで困った覚えはなかったし、駿輔は何を言っているのだと内心笑っていた。

残念ながら、駿輔の危惧は…正しかった。

篠崎と付き合いだして数ヶ月。
彼を唖然とさせること数え切れず…

姉の沽券も捨て、莉緒に相談してもみたが、ちっとも役に立たなかった。

「困ることないじゃん。それが、お姉じゃん」

そうあっさり言われて終わりだ。
結局、弥由は、それが?の意味するところを理解出来ず、さらに困惑は増しただけ。

それが?…わたし?

『それ』の正体自体、詳細に教えて欲しいものだ。

弥由は開いた本の文字を追い、ため息をついて顔を上げた。

書いてあることはもちろん理解出来る。
ただ、実際にどういう場面でどういう風に役立てればいいのか分からない。そこが問題なのだ。

問題…?

社内での篠崎はいいのだ。
問題は、ふたりきりになったときの篠崎…

社内での彼の行動はだいたい予想がつく。
視線が合うとやさしく微笑んでくれるし、休憩時間も話が弾む。

けれどふたりきりの時の彼は、とらえどころがなくて、弥由はひどく緊張してしまうのだ。
その緊張の度合いは、不思議なことに、なぜか初めの頃よりひどくなっているように思えた。

自分から彼に触れるのは予測の範囲だからいいのだ。
けれど、彼が弥由に触れてくると…頭のヒューズが吹っ飛び、思考回路がショートする。

頬に触れた手のひらが次にどこへ向かって動いてゆくのか。
彼の視線が弥由のどこを見つめているのか。
そして、彼は弥由を見て、どう思っているのか…

すべての問いが、彼女を追い詰め悩ませる。
全部の問いの答えを手にしていないと、どうしていいかわからなくなる。

篠崎は弥由を見て、苦笑することが多い。
何が苦笑を誘ったのか、弥由の何がおかしいのか、それを教えてくれればいいのに、尋ねても、彼は苦笑するばかりで教えてはくれない。

彼は弥由のことが本当に好きなのだろうか?
好きだとすればいったいどんなところだろう?
彼が好きになるような部分が彼女にあるのだろうか?

頭の中で問いが膨れ上がり、弥由は慌てて携帯を取り上げた。

「もしもし、駿?」

「何?いまバイト中なんだけど、急ぎの用?」

「あの、あのね。わたしのどこが好き?」

「はあっ?なんだぁ、突然」

「だからね。わたしの好きなところってある?」

「…あのな。俺、バイト中なんだって、じゃあな」

携帯はプチンと切れた。

ムッとしたものの、バイト中では仕方ないだろうと思いなおす。

ほかを当たろう。
弥由は顎に手を当てて、うーんと考え込んだ。

そうだ。

彼女は両手を打ち鳴らし、また携帯を取り上げた。

「はい。森川です」

「あ、わたし弥由です。お義姉さん、母は?」

「お義母様、お義父様といま出掛けちゃったとこだけど、何か急ぎの用事?」

兄の妻の友美にそう問われて、弥由の切羽詰った気持ちが少し落ち着いた。

「別に急ぎとかじゃ…あの、お義姉さん、今日は暇?…聞いて欲しいことがあるんだけど…」

「あ、あらぁ、相談事?わたしに!もーちろんいいわよ。電話でいいの。それとも、こっち来る?」

驚きと嬉しさがやたらと混じった声で友美が言った。

考えてみれば、相談事はいつも駿輔や莉緒にしていたから、兄嫁の友美に悩みを打ち明けるなんてこれまでしたことがなかった。

友美の嬉しげな声に弥由まで引き込まれ、これから実家に行くことを約束して彼女は電話を切った。

弥由は一泊してくるつもりで荷物を詰めた。

莉緒は忙しくて行けないだろうし、妹の夕食はお鮨の出前でもいいだろう。
一人ぼっちがいやなら、祥吾を呼ぶに違いない。

友達と逢うとかで、篠崎から、今日は逢えないと言われた。
弥由の今日の落ち込みは、そのせいもある。

これまで休日に逢わない日は一日もなかったのだ。
用事が出来ても半日で済ませ、午後からとか夕方からとか必ず逢っていたのに、今日は逢えるかどうか分からないと言われた。

恋愛心理学の本に載っていた、倦怠期という言葉が頭に浮かんだ。
付き合い始めて、二ヶ月。
すでに篠崎の心に倦怠期が訪れてしまったのだろうか?

もしかすると、苦笑を買い続け、すでに弥由への好意など消えてしまったのかもしれない。
彼女の方は、ますます彼のことが好きになるばかりなのに…

いらないものは即捨てる主義だからと、クールな顔で言った篠崎をまた思い出し、弥由は唇を噛んだ。

あの一言は、弥由の胸の中で固いしこりになっている。

弥由は大きく深呼吸して、カビの生えそうにしめっぽい考えをなんとか追い払おうとした。


「莉緒」

机に突っ伏している妹の背に声を掛けたが、聞こえないのか莉緒は振り向かなかった。
弥由は声の音量を少し上げた。

「わたしこれから家に帰るから。今夜は長沢君呼んで、ふたりでお鮨でも食べると良いわ」

「うん」

莉緒の半分上の空な返事を聞いて、弥由は家を出た。

駅までは5分。電車で30分。駅前でバスに乗り、10分ほどで家に着く。
そんなに遠い距離ではないのに、この最近は家に帰るのは季節ごとに一回くらい。

そう言えば、篠崎と逢うので忙しく、お盆休みに一度帰ったきりだった。

母親はもっと頻繁に帰って来いと電話のたびに言うのだが、可愛い孫の颯太に気をとられ、弥由たちへの小言もそんなには強くない。

久しぶりに颯太に逢えるのは弥由も嬉しかった。
懐いてはもらえないが、やはり甥っ子というのは可愛いものだ。

電車に乗る前に、駅前のおもちゃ屋で、彼女は颯太の喜びそうな玩具をひとつ買った。




   
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