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その1 確信と現実のギャップ
最悪の気分というのは限りがないものなのだと、成道は、この歳になってつくづくと実感していた。
目の前には、最悪の気分を増長してくれる存在がふたつ。
ふたりの間には十センチほどの隙間があり、会話もお互いの仕事の悩みとか、次はどこに遊びに行こうかなんて罪のない話題ばかりだ。
だが、成道をむかつかせるのは、十センチの隙間にある、繋がれたふたりの手。
響が話しながら尚の指をそっと撫で、たまにそれぞれの指を味わうようにそっとつまんだりしている。
そのなんでもないような行為が、どれほど目にした者に動揺を与えるかなんて、ふたりはまったく気づいちゃいない。
尚の部屋に行って、はやくやることやっちまえよっと叫びたくなるのを押さえるのは、まったくもって一苦労だった。
あれだけお膳立てが整っていたというのに、響が箸をつけなかったのは、翌朝のふたりの様子ではっきりとわかった。
成道は呆れた。響にも尚にも、果てしなく呆れた。
恋しい彼女と指一本で繋がっていることに、ひたすら満足しているらしい響に、どす黒い妬みを感じている自分に嫌気が差し、成道は床に突っ伏した。
彼のお気に入りのソファは、先にこの部屋に来ていたふたりに占領されてしまっている。
響と尚の互いに向けられたとろけそうな眼差しには、成道の存在の確認など皆無だ。
十五分も前から彼がここにいるというのに、気づいたそぶりはまったくない。
もしかすると、本当に気づいていないのか?
その疑問を確かめるために、成道は声を荒げた。
「お前らなぁ、ここは俺の憩いの場なんだよ。こんな公の場にいないで、尚の部屋でいちゃついてればいいだろ」
尚と響が、同時に振り返った。
「あんたこそ、自分の部屋に行けばいいじゃない」
気づいてくれていたらしいとわかって、少し嬉しかった。
そしてそんなチンケな喜びに満足している自分に、遅ればせながら怒りが湧いた。
「成道、お前、何かあったのか? もしかして女に振られたとか?」
邪気などまったくないクールな顔で、響が言った。
成道は覚えがありすぎて、床を見つめながら動揺した。
「成道に彼女なんていないもの、振られる以前の問題じゃ…」
「でも、尚、告白して振られるってことだってあるだろうし…」
「成道が振られる? 響君、この先読みの達人がそんなヘマすると思う?」
「尚、君付けは止めてくれって言ってるだろ。響って呼んでくれる約束だろ」
「ごめんなさい、響君…あ」
「ほら、また」と、甘く責めるような響の声。
成道の鬱憤はマックスまで跳ね上がった。
「お前らいい加減にしろっ!」
そう叫ぶと、成道は地響きを立てる勢いで、居間を出た。
自分のお気に入りの憩いの場から出てゆくのは、勝負に負けたようで心底嫌だったが、これ以上あのふたりに付き合う気にはなれない。
成道の部屋は十畳ある。
片側にセミダブルのベッドがあり、黒灰色の肌触りのよいカバーがかけてある。
壁には大きな本箱と、オーディオとパソコンの機器が乗せられた幅広の机。
残された床には、サイエンスマガジンなど科学系の雑誌などが山と積まれていて、つまり部屋中、足の踏み場がない状態だ。
それでも成道の中でこの部屋が散らかっているという意識はあまりない。
すべて必要なもの。
そして片づけることの苦手な彼に、これよりも居心地良く整頓しろというのは無理な話なのだ。
この部屋は、彼の趣味の部屋、兼、寝室であって、憩う場ではない。
成道は、彼らしくない萎れたため息つきながら、ベッドに寝転がった。
振られた。昨日のことだ。
華の金曜日。
仕事を終えて、告白し、そのまま彼女を連れて…食事に。
もちろん、ホテルまで連れ込むなどどいう、願望はあったにしても、その予定は組んではいなかった。
とにかく、そう予定を立てていた。
確実に彼女はオッケーすると思い込んでいたのだ。
彼女は、自分のことを好きなはずだ。
その確信は今でもある。なのに…
「なんで…振られたんだろう?」
思わず呟きになって唇から洩れ、成道は驚いて口を押さえた。
振られたなんて事実、特にいま階下にいるふたりには、絶対に知られたくない。
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