恋は難敵
その4 精一杯の決意



今朝、通勤途中の成道が、交通事故を起こして救急車で運ばれたということを、ロッカールームに入ってすぐ、唯は聞いた。

彼の容態の詳細は、時間を追うごとにわかってきたけれど、唯の時は、彼女が叫びだしたくなるくらい鈍く進んでゆく。

こんなところで、自分は何をしているんだろうと唯は思った。
気持ちはすぐにでも彼のもとに飛んでゆきたい。

だが、急くような心に対し、そんな行動は非常識だと押さえ込む自分がいる。

自分の存在は、彼にとってなんなのだろう?
彼のところに飛んでゆく権利が、この自分にあるだろうか?

「唯、相沢とかいう男を知っているかい?」

昨夜、わざわざ彼女の部屋まで来て、父がそう聞いて来た。
彼女の驚きがどんなものだったかなんて、この際どうでもいい。

なぜか彼は、唯に婚約者がいると思っていたというのだ。
婚約者がいるのは、彼の方のはずなのに…

そう先輩達から聞いていた。

「すっごい美人だったわよ」

その婚約者を見たという先輩は、なぜか呆れたように言った。

「美男美女。あんまりはまり過ぎで、言葉が無かったわ」

「尚って名前だったわよ、たしか。相沢君、話しかけてる言葉とか、かなりそっけなかったけど。あれは照れよね」

「あの頃、彼のまわり騒がしくて…。とにかく相沢君が入社してからこっち、女の子たちが色めき立っちゃって。婚約者がいたんだから、あの騒ぎも迷惑以外の何物でもなかったわよね、彼にしてみれば」

「もしかすると、彼、わざわざ彼女を会社に呼んだのかもしれないわねぇ」

お茶を飲みながら、話題の中心になれたことを楽しんでいるような感じで、数人の後輩を前に、その先輩は得々として語ってくれた。

尚という婚約者がいるというのに、彼はどうして唯にキスをしたのだろう?

彼の瞳に感じた溢れるような愛は、唯の心を反映してのものなのだと彼女は結論付けしていた。

でも…

「何人か、相沢君のところに飛んで行ったんじゃない?」

お昼の休憩の時、食事にも行かずじっと椅子に座っていた唯の耳に、笑いを含んだそんな会話が飛び込んできた。

「婚約者がいるっていうのに…、それって、かなり無謀な行動よね」と、愉快そうにくすくす笑う。

唯は、膝のところでぐっと握りこぶしを作った。

わたしは、こんなところで何をしているんだろう?

ぽたっぽたっと膝に涙が落ちた。
唯は涙でかすむ目でじっと自分の握りこぶしを見つめた。

自分が情けなかった。
破裂しそうなほど胸が苦しい。なのにこうやって、馬鹿みたいに、ただ座り込んでいる。

彼に婚約者がいたっていい。他の人が彼のところに飛んで行ってたっていい。
そんなことはどうでもいい。

行動しない自分が哀しかった。

どうして、素直に心の言葉に耳を傾けないのか…
心の望むままに行動できないのか…

怖いからだ。恥をかくことが怖いのだ。
常識から外れることも怖い。

そして、心が傷つくことが…ひどく怖い。

唯は立ち上がっていた。
目の前で話をしている先輩達が、涙をほろほろとこぼしている唯を見て驚いた。

「保科さん、いったいどうしたの?」

「わたし…」

喉が詰まって声が出なかった。
それでも、どうしても言わなければならない気がした。

「わたし…相沢先輩のところに行くので…早退します」

呆気に取られた先輩と、笑いと混乱に頬をひくつかせた先輩に頭を下げると、バッグを持ち、唯は走った。





「尚、仕事休ませちゃって、悪かったな」

「まあ、いいわよ。有給いっぱい残ってるし」

「あーあ、俺って不幸過ぎ」

それでも、あの犬と犬の散歩をしていたおばあさんを轢かなくて良かった。

走行中の成道の車の前に、犬とその犬を追い掛けて飼い主が車道に飛び出して来た。
驚いた成道は慌てて急ブレーキを踏み、左にハンドルを切って街路樹に衝突したのだ。

「街路樹にぶつかって、この程度の傷で済んだんだから良かったと思わなきゃね」

飛び出してくる前に、そのおばあさんの姿を確認して、かなりスピード落としていたのが良かったのだろう。それにしても…

「エアバックの衝撃で肋骨にひびが入ったなんて、なんか納得ゆかないよ」

成道は自分の胸に手を当ててぼやいた。

「いいじゃないの。すぐに退院できるんだし」

その時、ドアがものすごく遠慮がちなコンコンという音を立てた。

「まさか、またぁ?」尚が嫌そうに言った。

「会社抜けてまで、あんたのとこにやってくるなんて物好き、なんでこんなにいるのよ」

そう言いながら、尚はドアに近づいてゆく。

始めに来た女の子が成道にすがって泣き出し、帰ってもらうのにかなりの時間がかかった。

もうその二の舞は踏みたくないから、症状が軽いことを伝えて、言葉は悪いが門前払いすることにしたのだ。

「俺、もてるから」

成道がひどく侘しげに、ぼそっと言った。
侘しげに言う言葉ではない。

尚は首を傾げながら、ドアを開け、外に一歩踏み出した。

愛らしいという表現がぴったりの、可憐な女性が立っていた。
尚を見て、衝撃を受けたように立ち竦んでいる。

「成道なら、もう大丈夫ですよ。肋骨にヒビが入っただけだから、数日で退院できます」

その言葉を聞いて可憐な女性は頷き、肩を震わせながらゆっくりと息を吸った。

前で組んでいる手も、微かに震えているのを見て、尚は彼女が可哀想になってきた。

「あの、…お会いしたいんです」

もてる勇気をすべて集めて語られたような言葉だった。
尚の方が切なくなった。

「申し訳ないけど、他にいらした方たちも、成道に会わずに帰っていただいたの」

尚の言葉に初め戸惑いを見せた彼女の顔が、徐々にこわばってゆく。

「ごめんなさい」

尚は彼女の心を思いやって、出来うる限りやさしく言った。。
病室に戻ったら、成道をぶん殴ってやろうと決意を固めていた。

指先が白くなるほど手を握り締めた女性が、俯いたまま言った。

「すみませんでした」

そう一言言って、丁寧にお辞儀をすると、彼女は帰って行った。

尚は、病室に入り、成道を睨みつけた。
もてるのはたしかに弟の罪ではない。

だが…それだからといって尚のいらだちは収まらない。

「尚、その目怖すぎ。響が見たら怖れて逃げ出すぞ」

「あんたね。わたしの身になれってのよ。嫌なことわたしに押し付けて。自分を何様だと思ってんのよ」

「ごめん」

「あーもうぅ、そんな素直に謝らないでよ。わたしの怒りの居場所がなくなるじゃないのっ」

尚は鼻息も荒く、腕を組んで椅子にどんすと腰掛けた。
そして、さっきの子の名前を聞くのを忘れていたことに、ふと気づいた。

「まあ、いいか」

「なにが?」

「なんでもない」




   

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