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その1 チョコ贈呈の薦め
「この季節に、冷たい飲み物が飲みたくなるなんて…笑っちゃうね」
リンゴジュースを自販機から取り出した榎原沙帆子は、そう言いながら、すでに買った飲み物を手にしている友達ふたりに振り返った。
よい天気だった。
2月とは思えないほど春めいている。
中庭の通路の中ほどに設置されている自動販売機のあるこの場所は、暖かな日差しが降り注ぎ、制服のブレザーすら、脱ぎたくなるくらいだった。
「天気もいいし、このまま外で過ごさない?」
そう提案してきたのは、飯沢千里だった。
彼女は、仲良し3人組のリーダーのような存在だ。
行動的な彼女は、生徒会役員の書記をしていて、ハキハキと物を言う子だ。
「いいねぇ。どこに行く?ベンチのある場所はっと…」
クリクリの巻き毛ヘアーの江藤詩織は、くるんと一回転しながら周囲を見回した。
「どうやら、どこのベンチも満員の模様だよ。さすがに地面に直接座れる季節じゃないしねぇ。千里、どうする?」
「いい場所知ってるよ。ちょっと歩くけど。こっち、行こう」
千里は迷う様子もなく、ふたりを従えて早足で歩き出した。
沙帆子は、リンゴジュースのパックを振りながら、千里の後に付いていった。
「ほら、あそこのベンチなら空いてる」
数分歩いたところで、千里が胸を逸らし、勝ち誇ったように言った。
見ると確かに、垣根沿いにベンチが二つ並んであった。
「こんなとこに、ベンチなんかあったんだね」
空のベンチをみて、詩織が意外そうに叫んだ。
歩いている途中で、沙帆子は喉にかすかな違和感を覚え、「コホッ」と小さな咳をした。
3人は並んでベンチに座った。
沙帆子は、ジュースのパックからストローを取り、開封口を開けてストローをさした。
「わたしら、教室からずいぶん離れた場所に来ちゃったもんだね」
ミルクコーヒーを一口口に含んで、詩織が言った。
「うん。時間、ちゃんと確かめてないと、話に熱中してたらまずいことになるな」
ウーロン茶を手にしている千里が、どうしてかにやつきながら言った。
沙帆子は、そのにやつきに、首を傾げた。
「そうね。わたし、そうならないように時間みとくから…。でもここ、いい場所ね。誰もいなくて…コホッ」
「どうしたの?沙帆子ってば、咳しちゃって。風邪?」
「…わかんない?なんだか急に…喉、おかしくて、コホッ。どうしたのかな?」
「埃でも吸い込んじゃったんじゃない?」
「うん、そうかも…もう大丈夫みたい」
「バレンタインもうすぐだね。ふたりとも、チョコの準備した?」
千里が言った。
バレンタインの単語に、詩織が食いついた。
「したした。本命チョコに義理チョコ、友チョコ、パパチョコ」
沙帆子は、笑い声を上げた。
「お金掛かるわね」
千里が、いくぶん呆れ気味に言った。
「パパチョコでご機嫌とって、来月、がっちり元取るから大丈夫」
ずる賢そうな演技つきでそんなことをいう詩織に、沙帆子は噴き出した。
「本命チョコは、チョコだけじゃすまないから、やっぱ大変だよね」
「そうそう、彼氏持ちは大変だよ」
沙帆子は唇を突き出した。
このふたりには彼氏がいるのだ。いないのは沙帆子だけ。
「そういうの、すっごい贅沢な発言よ」
沙帆子は抗議するように言った。
好きな相手と相思相愛なんて、羨ましいったらない。
「だから、沙帆子も早く彼氏を作ればいいの。そしたらトリプルデート出来るし」
千里の言葉に、詩織が身を乗り出して続けた。
沙帆子は少し身を引いた。
この話題になると、ふたりはしつこいのだ。
「そうそう。沙帆子はガードが固すぎるの。わたしらまだ高2なんだよ。軽ーい気持ちで付き合っちゃえばいいのよ。合わないなと思ったら、別れりゃいいの」
「そんなの…いいのかな?」
彼女は控えめだけれど、反論するように詩織に言った。
沙帆子はそういう気持ちにはなれない。
「わたしも詩織に賛成だわ。いま、そういう経験しとくべきだと思うよ、沙帆子」
沙帆子はとても賛成できずに、黙り込んだ。
「先週、3年の先輩に告られたのに断っちゃって…あれはちょっともったいなかったんじゃない。あの先輩、親がおっきな病院経営してて、医学部合格間違いなしって話だよ。まあ、顔はそこそこって程度だったけど…」
くすりと笑いながら千里が言う。
いつのもように、経験の少ない沙帆子をからかって楽しんでいるのだ。
沙帆子は千里に凄んだ目を向けた。
ほとんど相手にされないのだが…
「だって、あのひとのこと、わたし何も知らないし…好きとかって気持ちがないのに付き合ったり…」
「でも、私は付き合ったよ」
沙帆子の言葉に噛み付くように詩織が言い、彼女は驚いて言葉をとめた。
「別に最初は好きとか思ってなかったけど…。でもいまはとっても好きだもん」
気まずい空気が流れた。
ぴりぴりした空気を発している詩織に、沙帆子は口にしてしまった言葉を悔やんで唇を噛んだ。
そういうつもりではなかったのだが…
詩織は、いまの彼ととても仲が良い。
沙帆子は、ふたりに当てられてばかりいる。
「まあまあ、恋愛事情は色々だよ。後から愛情が湧くって場合もあるってことよね」
千里が取り成すように間に入ってきた。
「でも詩織、自分がそうだからって、沙帆子に対して、そんな風に突っかかるようなものの言い方、良くないよ」
「ご、ごめん」
そう口にしたものの、詩織はまだ不服なようだ。
「わたしも…ごめんなさい」
「あのさ、こんな人気のないとこまでわざわざやってきたのは、恋愛談義で揉めるためじゃないわけよ」
「なに千里、あんた、何か話があってここに来たっての?」
「うん。実はさ、生徒会の副会長の広澤脩平」
「広澤君?あの人気者がどうしたのよ?」
「なんかさあ、沙帆子に気があるみたいなんだよねぇ」
千里の思わせぶりな発言に、沙帆子は飲み込んだリンゴジュースでむせそうになった。
「沙帆子に?ちょっと凄い情報じゃん。どういうことなの、詳しく話してちょうだいよ」
「詳しくってこともないんだけど。この間、たまたま生徒会室でふたりきりになってさ。そしたら広澤君が、君の友達の榎原、彼氏いないのか?って」
「おおーっ」
詩織が歓声をあげた。
沙帆子は、話のなりゆきに目を白黒させた。
「私がいないよって言ったら広澤君、ふーんって、まんざらでもなさそうに言ったの」
「来たね、来たねぇ」
何が来たのか分からない叫びを繰り返し、詩織は最後に猛獣のように「うおーっ」と雄たけびをあげた。
「そいで広澤君、沙帆子にいつ告白するつもりかな?」
「それがね、自分にチョコくれる気ないか、沙帆子に聞いてくれって、冗談交じりに頼まれたのよ」
「はい?なんだそりゃ」
「え?」
「沙帆子がチョコあげたら、広澤君に対して、付き合いをオッケーしたってことになるわけ?」
「たぶんね」
ずいぶん曖昧だ。
「ふーん。考えたね、広澤」
「あの…それって、ただの冗談なんじゃない?話の成り行きで、たまたまそう言っちゃったみたいな」
「沙帆子ってば、何、消極的な物のとり方してるのよ。これはもう渡すっきゃないよ」
詩織は一人盛り上がり、沙帆子の肩をバンバンと叩いてきた。
「し、詩織ってば。痛いってば」
「それじゃあ、今日の放課後、バレンタインの本命チョコ買いに行こうよ」
「そうね。広澤君は甘いもの好きだし…まあ、どんなチョコでも沙帆子からなら、喜んで受け取るよ」
「ちょっと待って、私は…」
「沙帆子、広澤君が嫌いなの?」
「嫌いってことないけど…そういうことじゃ…」
「ならいいじゃん。千里から、私からのチョコ欲しいって聞いたから、あ・げ・ま・すっとかって、にこっと笑って渡せばいいのよ。好きか嫌いかは曖昧にぼかしてさ」
「そういうのって…」
また反論しようとした沙帆子は、千里に肩を掴まれて言葉を止めた。
「広澤は、いいやつだよ。私が保証する。付き合ったからって、無理やりキスするようなやつじゃないと…まあ、思うし…。二枚目で目の保養にもなる。おしゃべりもうまいよ」
千里は、まるで広澤の宣伝マンのようにアピールポイントを並べ立てた。
口をパクパクさせていた沙帆子は、また突然咳き込んだ。
空気の中に漂う匂いに、彼女は咳の犯人にやっと気づいた。
「煙草…?」
「えっ?」
沙帆子の呟きに、詩織が反応した。
「咳の犯人。煙草みたい…」
どこかこの近くで、誰かが煙草を吸っているのだろう。
沙帆子は煙草の煙が、苦手なのだ。
ひどい時は、吐き気までするし、実際嘔吐したことさえある。
たぶん体質的に合わないのだ。
「ああ。煙草…」
千里が生垣のある背後に振り返りながら言った。
「大丈夫。吐き気とかしてない?」
「うん。大丈夫。室内じゃないから」
「ある意味凄いよね。沙帆子って、ちょっと離れた場所で吸ってるひとがいるだけで咳き込んじゃうんだもんね」
詩織が感心したように言われ、沙帆子は顔をしかめた。
「なんか吸ってるひとに悪くて、咳き込みたくないんだけど…」
「ねぇ、そろそろ戻ろう。5時間目始まっちゃう」
沙帆子は頷いて立ち上がり、ふたりとともに教室に向かって歩き出した。
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