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第8話なのにゃ
ハナ、異変の真っ最中ですが…
場面は、森の中へと移動。
第8話 『森の中で』
亜衣莉の唇をおもうさま味わった聡、真っ赤になって気の遠くなりかけた亜衣莉を抱き締め、満足の溜息をついた。
そんな彼の耳に、なにやら気になる音が…
カーン、カーン…
森の中の空気を震わすように響く音…はてさてなんなのか?
もちろん、物凄く気になった聡。確めに行かずにおれない。
「亜衣莉」
聡の呼びかけに、亜衣莉の夢色を帯びた瞳に、思考が戻った。
「は、はい」
「何かを叩いているような音がするんだ。確めに行こうと思うんだが…」
亜衣莉は、そう言われてパチパチと瞬し、頭の中をクリアにして耳を澄ませてみた。
カーン、カーン…
「な、何の音なんでしょう?」
「きこりかな?」
確かに、木を切っているような音にも思える…
「この森に、きこりがいるんですか?」
聡は亜衣莉の言葉に、眉を寄せた。
この世界は、リアルすぎるけれど、ネコの創り上げた想像の産物のはず…
彼ら以外の登場人物がいるのだろうか?
それとも、この音は、リアルな雰囲気を出すための、小道具に過ぎないのか?
さすがに命を脅かすような危険なものは…
「とにかく、行って確めてこよう。このまま捨て置けないからな」
「そうですね」
というわけで、亜衣莉に寄り添う形で、聡は音に向かって歩き出した。
森の中だけれど、さあどうぞとでもいうように、歩きやすい小道が音のする方向に伸びている。
小道は左へ弧をかくような、ゆるい曲がり道になっている。
方角的に、先ほどの小屋の後ろ側へと回り込んでいるようだった。
数分歩いたあたりで、ゾッとするような悲鳴が辺りの空気を切り裂き、ふたりは、ピタリと足を止めた。
「さ、聡さん」
怖れに全身に鳥肌を立てた亜衣莉は、聡に抱きついた。
聡もぎょっとしたものの、亜衣莉の身体をぐっと抱き締め、悲鳴のした方向を見つめて、耳を澄ました。
しくしく…しくしく…
「す、すすり泣きの声が…」
「いったい。どうする亜衣莉、行けるか?」
「い、行かなきゃ。だって、もしかして誰かが助けを必要としているかもしれないですし…」
亜衣莉は肝を冷やしながらも、使命感に燃えているようだった。
正直言って、亜衣莉に万が一にも危険が及んだらと思うと、聡は彼女をそんな場所に連れてゆきたくはなかった。
だが、正義感の強い亜衣莉のことだ、行かないではすまさないだろう。
聡は仕方なしに無言で頷くと、亜衣莉と手を繋ぎ、足を速めた。
彼らが近付くごとに、すすり泣く声はしだしに小さくなってゆくようだった。
前方に、木々のない空間が広がる場所が見えた。
どうもすすり泣きの主は、そこにいるようだ。
足音を忍ばせながら、空き地が覗き込めるところまで近付き、聡は亜衣莉とともに、太い幹の陰から空き地を窺った。
「ジェイ?」
「え、ジェイがいるんですか?」
「ああ。星崎君もいる」
聡はそう言いながら空き地に踏み込んだ。
突然現れた聡と亜衣莉に、ぎょっとしたようにジェイが振り向いた。
倒木の幹に座り込んだジェイは、泣いてクシャクシャになった顔をした美紅を慰めるように抱き締めている。
「な、なんだ聡か…驚いたぞ」
「美紅、ど、どうしたの?」
亜衣莉は、姉のところにすっ飛んでいき、顔を覗きこんだ。
「あ、亜衣莉ぃ。ゆ、指を打っちゃって…」
亜衣莉の目の前に差し出された美紅の左手人差し指は、ぷっくりと赤く腫れていた。
「君らふたりとも、こんなところでなにやってるんだ?」
問い詰めるように言った聡に、ジェイは、肩を竦めてみせた。
「いや、映画観てたら、いつの間にやらここに連れてこられてて…」
そう言うジェイは、小人用の服を着た聡の姿がひどく滑稽らしく、笑いを堪えている。
とはいえ、そんなジェイも、お揃いの小人の服を着ているのだったが…
こんなおどけた格好もジェイなら似合うけれど、聡にはまったく似合っていないのだから、ジェイの反応も仕方がないのかもしれない。
「連れてこられたって…誰に?」
聡は、自分の服装に対するジェイの反応にむっとしつつ、問い返した。
「はっきりとは分からない。でも、たぶんハナじゃないのかな。僕らふたり、気づいたら小屋の中にいたんだ。で、このでかいメモがあってさ」
ジェイは立ち上がり、地面に落ちている大きな紙を拾って聡に差し出してきた。
「いったいなんだ?」
聡は眉をしかめて、緑色の大きな文字で書かれた内容に目を通した。
紙には、大きな文字でこう書かれてあった。
「らぶりぃベッドに、らぶりぃおいしい餌か…餌と書くあたり、さすがネコだな」と聡。
「ね、姉さんがお料理?」
亜衣莉の顔は、少々ばかりでなく引きつっている。
「そうなの。でも、ちゃんと作ったのよ。いま弱火でコトコト煮込んでるの」
屈託のない笑顔で美紅が言った。
玲香に負けないほど、小人の衣装がしっくりと馴染んでいる。
その言葉を受け止めた亜衣莉は、青い顔でごくりと唾を飲み込んだ。
「美紅、指はもう大丈夫か?」
「そ、そうよ、ゆ、指、どうしたの?料理してて何かあったの?」
「ううん。ジェイの手伝いしようとしてて、かなづちで指の先を叩いちゃったの。料理は手を切ったりしないようにとっても気を付けたから…ただ、ちょっと、調味料こぼしたりとか…その、まあ、しちゃったんだけどぉ…」
どきんと跳ねた心臓のあたりを、亜衣莉は押さえた。
「あ、あの…こぼしたって、床?」
顔を引きつらせながら、亜衣莉は美紅に尋ねた。
「う…う、その…お鍋が、とっても大きすぎてね」
美紅は、同調を得ようとするように、亜衣莉に向かって微笑んできた。
いつもどおりの、姉らしい、無垢すぎる笑みに、亜衣莉はめまいを感じた。
「…それでまんべんなく、こうね…」と、美紅は、何かを混ぜるようなジェスチャーをしてみせる。
「で、スパイスを振り入れようとしてたら…こう…つるっと…」
「鍋の中に落ちたのね」
亜衣莉は、疲れたような神妙な顔で、結果を口にした。
「だ、大丈夫よ、亜衣莉。すっごく大きなお鍋なの。かき混ぜたらどこにいったかわからなかったし」
どうやら美紅は、一応鍋の中を探したらしい。
見つけられず、そのまま放っておくことにしたのだろう。
「あれだけ探して出て来ないんだから、もう絶対に見つからないと思うの」
「どうやら…」
聡が、腰を上げた。
「僕らは、引き返した方が良さそうだな、亜衣莉」
「ああ。その方が。いい。かな」
ジェイは、一言一言、区切るように言った。
よくみると、ジェイの胸のあたりは、ふるふる震えている。
彼は、巨大な笑いを押さえ込んでいるようだ。
「亜衣莉、美紅の料理の味見を頼むよ」
吹き出さないようにと考えてか、ジェイは口元を押さえてそう言った。
その目は、笑いを雄弁に語っている。
「だめよ」
顔をしかめた美紅が叫び、立ちあがった。
「私が作るようにいって言われてるのに…最後まで責任持たなきゃ」
責任感に燃えているらしい美紅は、右手を拳に固め、力強く震わせた。
そっと立ち上がったジェイは、腫れている美紅の指に触れないように、彼女の手をそっと握り締めた。
「君は指を痛めてるんだよ。もう充分だ。あとは亜衣莉に任せよう」
「で、でも」
「君が行ってしまうと、僕が淋しい」
ジェイは俯き、真実淋しげに瞳と睫毛を揺らした。
「ここにいて…欲しいな…」
「あ…わ、わたし、ジェイといる」
「それがいい。ジェイ、お前、まだ終わらないのか?ハナのらぶりぃベッドとやらを作る手伝いはいるか?いるなら、翔の奴でも寄こすが」
「いや、ネコ規格のベッドだから簡単さ。美紅の手伝いだけで、僕には充分だよ」
そう言うと、ジェイは美紅と微笑を交し合った。
とけろそうな甘い世界がふたりを包んでいる。
初め呆れ顔をした聡だったが、自分の隣にいる亜衣莉の存在を意識にいれたとたん、ジェイらに負けないほど、彼の顔は甘く変化した。
「それなら、僕らは小屋に戻ろう、亜衣莉」
「はい。それじゃ、美紅、もう怪我しないようにね。ジェイの応援だけしててね」
「うん。亜衣莉は、私のお料理の味見しといてちょうだいね。きっと、そろそろいい感じに出来上がってると思うの」
亜衣莉は、小屋の中から漂ってきていた、奇怪な臭いを思い出しながら頷いた。
「うん。わかったわ」
「星崎君」
「伊坂室長、なんですか?」
「君の料理。きっと、ハナ雪姫の口にあうと思うよ」
「そうですか?良かった。ひさしぶりの料理だったから、すっごい適当に作っちゃったんですけど…やっぱり、大切なのは意欲ですよね」
「ああ。その通りだ」
聡は、自分を睨んでいるジェイと亜衣莉の眼差しをさらりとかわし、亜衣莉を連れ、小屋に向かおうとした。
「聡、そこから行くと近いぞ」
聡は、ジェイの指さした方向に、別の道を確認し、そちらに歩き出した。
森の中に入り、まっすぐの道を歩きながら、聡は、俯いて歩いている亜衣莉に声を掛けた。
「怒ってるのか?」
顔を上げて聡を見た亜衣莉は、彼を睨んできたが、すぐに、押さえているものの、はじけたように笑い出した。
「亜衣莉?」
「聡さんが、ハナちゃんの口に合うとか言うから、笑い出しそうになっちゃって…ずっと我慢してたんです」
「なんだそうだったのか?」
「はい。姉があんまり真剣だから、あそこではとても吹き出せないと思って、聡さんを怒ってるふりしたんです。たぶん、ジェイも同じです」
「君ら、星崎君を少し甘やかしすぎていないか?」
聡の言葉に、亜衣莉は怒る風でもなく考え込んだ。
「これは私の考えに過ぎませんけど…ひとには、それぞれ個性的な人間性があって、それによって、生き方って違ってくると思うんです」
聡は亜衣莉の言葉に返事を返さず、無言のまま彼女を見つめ返した。
「姉は、庇護を受けるように生まれついたひとなんです、きっと。で、私は庇護するひと…。いまはジェイが、姉を庇護するひとですけど…」
「それが淋しいのか?」
「いえ。私の役目は終わったんです。これからは自分をしあわせにするために生きなくちゃならないみたい」
「君をしあわせにするのは、この僕の役目だ」
亜衣莉は、こくりと嬉しげに頷いた。
彼女の表情を見つめた聡の胸は、痛いほどきゅんと痺れた。
「聡さんを幸せにするのは、わたしの役目…ですね」
亜衣莉は珍しく自分から、聡の腕に手を絡ませ、彼に寄り添ってきた。
聡は、充分過ぎるほどの幸せに浸った。
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