思いは果てしなく 
その4 やるせない記憶



まざまざとよみがえった記憶。
あれは、彼女が短大の入学式を目前にしていた時だ。
頻繁に響は遊びに来ていた。

あの頃の彼はひょろりと背が高く、手足もまだ少年のもので、彼女と目が合うたびに、いつでも透き通ったような笑みを向けてきた。
冷たく見える顔全体の印象とのギャップとあいまって、その笑みは、言葉で表現しづらい不思議な輝きを放っていた。
その輝きは八年経ったいまもそこにあって、尚を泣きたい気分にさせた。

あの日、成道がコンビニに買い物に行っていた時、ふたりは尚の部屋でアルバムを見ていた。
響が見たいと言い出したのだ。幼い頃の尚を。

どちらから腕を差し伸べたか分からない。
気づいたときにはふたりは唇を合わせていた。

そっと触れただけの響の唇の感触に、彼女の中でなにかがぞわぞわと動いた。得体の知れない律動が螺旋状に背筋を上ってゆく不思議な感覚だった。

尚は始めて触れたその唇に夢中になった。
息が苦しいほど、ふたりは唇を求め合った。そのはずだった。

だのに…

「もしかして、回想してるの?」

尚ははっと我に返った。
掴まれたままの腕がひどく痛いのに気づいた。

尚は響の表情に戸惑った。
なぜ彼が自虐的な笑みを浮かべているのだ。

あの時、キスの途中で、尚を思い切り突き飛ばして逃げていったのは彼の方だったのに。
年下の男の子にキスをして、もっともっととせがんで拒絶にあったのは彼女の方なのに。

自虐的な笑みを浮かべるとすれば、それは彼女ではないのか。

「ごめんなさい」

「なにを謝ってるの?」

尚は黙り込んだ。
本当だ。いったい何に対して謝っているのだろう。

胸の中でもどかしさが湧き上がり、尚を苦しめる。
彼女は目の前にいる響に視線を当てた。無意識に彼の唇に惹きつけられる。
あの唇はいまでも…

「また別れたんだってね」

「え?」

尚が自分の思考と彼の言葉の狭間で揺れてるうちに、響が続けた。

「成道と飲んだんだ。数日前」

成道!

「付き合わない、俺と」

尚の意識のヒューズが飛んだ。。
響はいまなんと言ったのだろう?

「いま、フリーなんでしょ?」

「や、やだ、響君ってば冗談が…」
自分の声が震えているのに気づいて、尚は言葉を最後まで続けられなかった。

「俺じゃ、不足? 彼氏には…」

「そうじゃなくて、わたし…二十六だよ」

尚は潜めた声で自分の年齢を言ってから、そんな自分に酷く腹が立った。
本当は、響を相手に一番言いたくない言葉だったのに。

「年下だから不合格?さっき逢ったばかりの時には、年下だと思ってなかったみたいだけど」

確かに今の響は年下には見えなかった。
かっちりした背広を着た彼の肩幅。
顎にも力強さがあって、落ち着いた笑みを口元にをたたえている彼は、もはや少年ではない。

「そう言えば、さっき何をあんなに急いでたの?」

尚は眉をしかめた。

すでに結婚している同期の桜井。
いつでも何気なさそうに、人の身体に触れてくる。
それだけならばまだ良いのだが、あのすけべなまなざしが堪らなく嫌だった。
桜井本人はどうも気づいていないようなのだが、その分、あの鈍感さには虫唾が走る。

先ほど、仕事にけりをつけられなくて居残ってやっていたら、気づいた時には室内には桜井とふたりきりになっていた。
あのすけべな目でじっと見つめられていることに気づいて、慌てて飛び出してきたのだ。

でも、社外に出てまで走ることもなかったのになと、今ごろ思った。

「嫌なことでもあった?」

尚は心が温まった。
ひどく心配そうな顔をした響がそこにいたから。





「帰り、送るよ。車、近くの駐車場に止めてるんだ」
その言葉に甘えて、家まで送ってもらった。
彼の言うままに携帯番号も交換した。
響の車が見えなくなった今、すべてが夢だったような気さえした。

彼女は右手に持ったままの携帯を開いた。
ボタンをいくつか押すと、そこに葛城響の名と、彼の番号が表示された。

単なる通信器具でしかなかったそれは、いま、なによりも大切なものになった。




   
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