続 思いは果てしなく 

甘く思惑
その3 親切の裏



コンコンと、ドアを叩く音。…そして、ひとの声。

響は、眠りを払って顔をしかめた。

こんな早朝に、いったい誰が尋ねてきたのだろう?

そうは思うものの、ここ最近の多忙さからの疲労で、身体が起き上がることを拒否している。
ぼんやりと現実を感じようとしていると、またノックとひとの声が聞こえた。

「ふたりとも、いい加減起きなさい。会社に遅刻するわよ」

不機嫌な女性の声だ。どこかで聞いた声だとは思ったが…

まだ夢の中なのか…

その時、響は自分の胸の上にある温かみと重みに気づいてビクリとし、視線を向けて、再度驚いた。

「な…お、だよな?」

驚きとともに、全身に異常なほどの嬉しさが湧き上がった。
ふたりの胸がぴたりとくっついているこのシチュエーション。さらには尚の柔らかな胸の感触。

まさに夢ごこちだ。

嬉しさに、響が尚をぎゅっと抱きしめたところで、ドアが怒りに弾けたような音をたてて開いた。

「起きなさいってばっ!」

額に青筋を立てた諒子が仁王立ちになって怒鳴りつけてきた。

「す、すみません」

尚を抱きしめたままの格好で響は思わず謝った。

「あら、起きてたの。返事しないから…それじゃ、ふたりとも早くね。もう七時半よ」

七時半の言葉に、響はぎょっとして飛び起きた。
抱きしめていた尚が、弾みでベッドから転がり落ちた。

諒子が派手にブッと噴き、カラカラと笑いながら部屋から出て行った。

「な、なんなの?い、いったい…」

「尚、ご、ごめん。時間が」

「え? あ、響君、おはよう」

ベッドの下に転がり落とされてなお、恋しい尚は、響に向けてにこやかに微笑んだ。

「俺、なんで…?」

「夕べ、おしゃべりの途中で、響君寝ちゃったの。それで…」

それで、寝たのか。俺は、尚と。
なのに、何も覚えていない…。

あまりに惜しくて、涙が出そうだった。

「わっ、ひ、響君、急がなきゃ。もうこんな時間」

響は悔し涙を飲み下し、ベッドから降りた。
もう尚にキスする時間どころか、抱きしめる時間さえない。

「よぉ、やっと起きたか。響、これ」

成道が部屋の戸口に現れて、手にしたものを響に差し出してきた。

「もう家に帰ってる時間ないだろ。俺の背広、一式貸しといてやるよ。ほら」

成道は手にしていた背広を、タイピンからベルト靴下にいたる付属品とともに、ベッドに置いた。

「あ、助かる。ありがとう成道」

「いや、いいんだ。楽しんだからな」

「楽しんだって、何を?」

「尚に聞けよ。それじゃ俺、行くから」

片手を上げて出てゆく成道の肩が、小刻みに揺れているのがかなり気になった。

成道のおかげでいくらか余裕が出来たが、それでも急がないと不味い時間だ。

響は、成道の温情を急いでベッドから拾い上げた。

「洗面所借りて着替えてくるよ」早口で響は言った。

「シャワー浴びたら? 新品の下着もあるみたいだし」より早口に尚が返してきた。

まだベッドの上に、ビニールに入った新品の下着があった。

「ほんとだ。あいつ気が利くな。今度、なんか礼しなくちゃな」

「響君、早く」
尚はそう言いながら、響が抱え切れなかった下着を手にして部屋を出てゆく。

「そうだった。ごめん」

ふたりは階段を駆け下りた。
響は尚に促されるまま、風呂場へと入った。

着ていた黒いTシャツとトランクスを急いで脱ぎ、響は風呂場へのガラス扉に手をかけた。
扉を開けようと動く直前、響の視界に、鏡に映った自分の姿が飛び込んできた。

「な、なんだぁ」

響は思わず素っ頓狂な声で叫んだ。
彼の胸や腹は、信じられないくらい幼稚な悪戯書きでいっぱいだった。

「あんのぉ野郎!!!」

えらく親切だと思ったら、こんなことしてやがったのか…

「響君、どうしたの?何かあった?」

洗面所の扉の外から、尚が心配そうな声を掛けて来た。

「成道に…いや、なんでもない。急いでシャワー浴びるよ。尚も自分の支度して…」

「あ、うん。分かった…」

同じく時間に切羽詰っている尚は、深く追求する余裕もないようだ。
パタパタと足音が遠ざかってゆく。

響は成道への怒りを一時置きして、シャワーを浴びた。

油性マジックで書かれたらしい悪戯書きは、赤くなるまで擦ってもなかなか消えず、響は途中で諦めるしかなかった。

尚に見られなかったらしいことだけが、救いだった。

「見てないよな?」

ネクタイ手早く結び終え、響は空間に向かい、願いを込めて呟いた。




   
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