|
第一話 変化のはじまり
「父さん」
書斎の窓辺に立ち、物寂しい雨音に耳を傾けながら、暗い夜空を見つめてぼおっとしていた徳三は、その呼びかけにさっと振り返った。
息子の三次が、開いたドアにもたれている。どうやら、ノックをしたのに、徳三は気づけなかったらしい。
目を合わせたところで、三次はドアから身を離し、こちらへと歩み寄る。
「ああ、戻ったのか」
「ただいま」
「今日も遅かったんだな」
すでに十一時を回っているはずだ。
なにやら忙しいようで、三次はこのところ遅く帰る日が多い。
「まあね。それにしても、寒くなったよね。この雨も雪になるんじゃないかと思ったよ」
「もう十一月も末だからな……」
「それで父さん……雨降りの夜中だってのに、空を眺めてたわけかい?」
からかうように言われ、徳三は返事の代わりに眉を上げてみせた。
「徳治兄さんだけど……」
唐突に話を切り出され、徳三はきゅっと眉を寄せた。
「なんだ?」
「来年の四月から、造形学部の教授として、来てくれることになったそうだよ」
さりげなく語られた言葉に動揺させられ、徳三は三次に鋭い目を向けたが、三次は徳三に目を向けず、ソファに座り込む。
いまの自分のひと言が、父親にどんな反応を与えたか、確かめなくてもわかると思っているのか?
「問題でも起こして、クビにでもなったか?」
徳三はわざと、皮肉を込めて、言葉を返した。
三次は両腕を広げて肩を竦め、こちらに顔を向けてきた。
「そんなことはありえないと知っているくせに。……徳治兄さんは引く手あまたの、著名な陶芸家だ」
「ふっ」
息子の言葉を、徳三は鼻で笑い飛ばした。
もちろん、本心ではない。
確かに徳治の名は、陶芸家として広く知れ渡っている。
それは、疎遠な仲となっている徳三にとっても、嬉しいことだった。
蔵元家の長男であり、いずれ蔵元を継ぐはずだった徳治は、陶芸の道を目指すと言ってきかず、亡くなった前妻の兄である、徳治にとっては伯父にあたる、早瀬川周明の元に行ってしまった。
徳三を見捨て……
いや、そうではない。
そうでないことは、わかりすぎるほどわかっている。
徳治は、徳三のため、そして後妻の康子と、ふたりの間に生まれた三次のために家を出たのだ。
もちろん陶芸が好きだったことも、理由のひとつではあるだろうが……
陶芸を続けるために、蔵元家から出る必要などなかった。ましてや、蔵元の籍を出て、早瀬川の養子になることもなかった。
だが……徳治はあえてそれを望んだ。
そして三次は、その事実に気づいているのだ。
だから、徳三と徳治の仲を元に戻そうと、躍起になって奮闘している。
三次は、いずれ蔵元の家を継ぐのは次男の自分ではなく、長男の徳治だと考えているのだろう。
徳三は、もう何年も会っていない徳治の面影を頭に思い描いた。
もちろん、息子の顔を忘れたりはしない。
なにせ彼の書斎には、妻の康子が勝手に飾った徳治と徳治の亡き妻、そしてふたりの生まれたばかりの娘、三人が映っている写真立てが飾ってあるのだ。
徳治……あいつも、もう、四十になるのだな。
すでに、お互いにいい歳になってしまった。
そして、徳治の娘……孫娘は、そろそろ十七……
来年には、徳治がこの家を出て行った年齢になるのか…
孫娘の事を考え、徳三の胸はキリキリといたたまれないほど痛んだ。
「父さん、聞いてる?」
思いに囚われていた徳三は、三次の呼びかけに顔を上げた。
「なんだ?」
「愛美さんも来るって言ったんだよ」
「は?……来るとは、どこにだ?」
徳三は思わず叫んだ。
その叫びは、三次を驚かせたようだった。
「どうしたのさ? どこって学校だよ。あの家から毎日通うんじゃさすがに大変だからね。彼女も高等部に転入してくることになったんだ」
「……そうか」
「それで、もうひとつ報告があるんだ」
「今度はなんだ? もったいぶらずに、一度に報告しろ」
「僕はこの春から、造形学部に入ることになった」
徳三は顔をしかめて息子を見つめた。
「なぜ? お前が進みたい道は……」
「若いうちに色々経験しろと、普段から言っているのは父さんだよ」
笑みを浮かべている三次を見てもどかしさに駆られ、徳三は立ち上がった。
「好きにしろ……」
もっと色々言ってやりたかったが、徳三が何を言ったところで、この彼に輪をかけた頑固者の気持ちが変わるわけがない。
「わかった」
書斎から出る徳三の背後で、楽しげに三次は言った。
三次のやりたいようにやればいい。
兄弟が、仲良くやってゆけるのならば、喜ばしいことだ。
だが、私は…
徳治は、彼の息子だ。
徳三が愛してやまなかった、静音の愛息子……
その静音は、自分のせいで精神を病み、自ら死を選んで死んでしまった。
妹の死に対する周明の激しい怒り……
周明の憎しみと拒絶は、彼を陶芸の師と仰いでいた徳三の心を、愛する妻静音の死と同じほど切り刻んだ。
歩いていた徳三は、眩暈を感じて壁にもたれた。
「あ、貴方? どうなさいました?」
康子の声に、徳三は急いで身を起こした。
「いや、なんでもない」
「でも、……お顔の色が……」
「大丈夫だ。それより、三次が造形学部に通うと言い出した。……康子、お前、知っていたのか?」
康子は気まずげな顔になった。その表情で答えはわかった。
「そうか…」
「お父様に報告なさいと、口を酸っぱくして言ったのですけど…」
「まあ、いい。好きにさせるさ」
徳三の鷹揚な言葉に、康子はほっとした笑みを浮かべた。
彼の心にやすらぎを与えてくれる康子の笑みに、徳三は小さく笑みを返した。
|
|