その1 不機嫌のわけ
沙由琉は、靴を脱いで家に上がり、通学鞄を玄関の上がり口に置くとしゃがみこんで靴を揃えた。
今日も新城は機嫌が良くなかった気がした。
そろえた靴をじーっと見つめていたら、背中に違和感を感じた。
沙由琉がぱっと振り返って横に避けた瞬間、パシンと激しい音がした。
「さすがだな。沙由琉」
床を打ち付けた竹刀を、ひゅっと言う音とともに、太一郎は肩にかついだ。
鈴川家の長兄、太一郎。
彼の姿を見て、今日は木曜日だったなと沙由琉は思う。
大学四年になった太一郎は、あまり授業も無く、バイトをしている店が休みの木曜日はたいがい家にいる。
すでに就職先も決まり、彼女もいるが、彼女とは遠距離恋愛中だ。
こんなもさい男のどこがいいのだろうと思うが、恋は盲目というから、恋の病に掛かった彼女にも仕方がないことなのだろう。
しかし、深い同情が湧く。
「太一郎兄様、いい加減にしてよ。もし当たったらどうしてくれるの」
「もし、という言葉の無意味さを知らんのか?それに、避け損ねたことなどないだろう。自分をそんなに卑下するものじゃないぞ」
「わたしはねっ、か弱い女の子なのよ。見てよ、ちゃんとスカートだって履いてるでしょ」
か弱いという言葉を聞いて、太一郎がふっと笑った。
「沙由琉、今時、男だってスカートを履いて恥じない時代だぞ」
「そういう問題じゃないでしょうよ」
「いや、そういう問題だ。男だってスカートを履くというのに、お前、制服以外のスカートを持っているか?」
もさいくせに、こういううんちくを抜かす時の太一郎は、妙に学者風に見えるから不思議だ。
「も…持ってないわよ」
太一郎が情けないという表情で首を振った。
「そんなだから、男のひとりも出来ないんだ。顔は、…まずまずなんだから」
「今の間は何よ。今の間は?」
太一郎は得々として大きく頷いた。
「間は大事だぞ。敵の攻撃に対してはいつだって間をだな…お、おい沙由琉、話の途中だぞ」
沙由琉は洗面所で手を洗い、うがいをしてから二階の自分の部屋に入り、鞄を置いて服を着替えるという一連の動作を、流れるようにやってのけた。
学校から戻ってきた沙由琉をからかい終わった太一郎は、満足したかは別にして、自分の部屋に引きこもったようだ。
卒業論文の作成に戻ったのだろう。
今頃、机の上にうずたかく積んだ本の間に顔を埋めているはずだ。
先ほどの行動は、彼流の気晴らしなのだ。
キッチンに入ってゆくと、食卓に腰掛けた母が、ゆったりとくつろいでティーカップを片手に分厚い本を見ていた。
沙由琉はエプロンを手にしながら、母親をちらとみて話しかけた。
「ただいま母様、今日は何を作って欲しいの?」
「沙由琉ちゃん、おかえりなさい。これ美味しそうなの。どうかしら?」
沙由琉は母親の示すページをじっと見つめた。
材料、作り方をさらさらと読んで頷く。
「うん。いいんじゃない。パプリカは黄色しかなかったと思うけど、色合いだけの問題だし、赤でなくてもいいでしょ?」
そう言いながら、花柄のエプロンをつけ、水を流して手を洗う。
沙由琉の母は、家事全般、得意でない。
夕食の準備は、いつの頃からか父の代わりに沙由琉がするようになっていた。
とにかく、父は母に甘い。
この母のためならばなんでもやる父だから、もしかすると、神様にしつこく頼んで、家事のうまい沙由琉を授かったのではないかと思いたくなるくらいだった。
「それで、沙由琉ちゃん、祐樹君と、キスは…したの?」
「あうっ」
沙由琉は、はーはーと肩で大きく息をした。
もう少しで危うく指を切り落とすところだった。
「母様、新城君のこと話題にしないで。太一郎兄様の耳に入りでもしたら…」
「どうして? 教えてあげたらいいのに。太一郎さんだけ仲間はずれみたいで、かわいそう」
あの兄が可哀相?あの兄が…
それだけはありえない。
だが、目元をうるませている母には、そんなことは言えない。
「いずれ話すわ。いまはまだちょっと恥ずかしいから」
太一郎に、沙由琉みずから、からかいの種を与えることはない。
おなべに切った具材を入れて火をつけ、副菜にインゲンの胡麻和えを作ることにして、すり鉢の中にゴマを入れて、母の前に置く。
これくらいは母だって出来るのだ。
「なんか、新城君、機嫌が良くないの。なんでなのか判らなくて」
「キスなさい」
不器用な手つきでゴマをすりつつ母が言った。
「はい?母様ってば…」
「もちろん、沙由琉ちゃんからよ。そしたら彼の機嫌直るから。ああ、ゴマのいい香り」
沙由琉は調理の手を止めたまま、理解しがたいという表情で母を見つめた。
そんな沙由琉の心のすべてを包むように、沙由琉の母はやさしく微笑んだ。
「キスなさいって。それだけでいいのよ。沙由琉ちゃん、簡単でしょ?」
家事全般が苦手な母の、するどい洞察力は認めている。
けれど、キスだなんて…ありえない。それも自分から…
「珍しいな。沙由琉がため息をつくなんて、どうしたんだ?何かあったのか?もしかして別れたのか?」
最後の台詞で、父はいたく晴れやかな笑顔になった。
「別れるって、誰と誰が?」
早々に食事を終えて、満足そうにお茶を啜っていた太一郎が、凄まじい興味を向けてきた。
「ため息ひとつくらい、そんなに問題視されるほどのものじゃないわ。それより父様、口の軽い男は女性に嫌われるわよ」
「え、口が軽い…。あの、佐代子さん、わたしは口が軽いですか?」
立派な体格と英知を感じさせる瞳を持った父親が、不安そうに母を見た。
「それほどではないと思いますわ」
涼やかに笑みを浮べて母が父に言った。
「では…少しは口が軽いと…」
母の言葉にさらに不安が増したようだ。
「ですわね。でも、嫌ったりはしませんから…」
「そ、そうか。よかった」
心配そうに曇っていた父の顔が、晴れ晴れと輝いた。
沙由琉は、瞑目した。
長年目にしていても、やってられない。
太一郎は、両親の存在自体を意識から追放しているようだ。
さすが長兄。この両親とは、沙由琉よりも付き合いが長いだけのことはある。
片づけを終えて部屋に戻りしな、沙由琉は自分の部屋から出てきた太一郎に呼び止められた。
「で、お前、誰と付き合ってるんだ?」
沙由琉は口を割らなかった。
太一郎の面白がっている態度に、反抗心が湧く。
だが、情報を得られなかったことは、かえって太一郎を楽しませたようだった。
「謎は深まれば深まるほど、探求が面白くなる。簡単に答えを手に入れては味わいがない」
太一郎はそう言って、あっさりと自分の部屋に戻っていった。
ならば、いったいどうやって答えを手に入れるつもりだろう?
なんだか、背中がむずがゆくなってきた。
未来の自分が今の自分を責めている、そんな気がして沙由琉は落ち着かなかった。
「兄様、あの…」
太一郎の部屋を覗き込み、声を掛けたが、どんな大声で呼び掛けても、机に屈みこんだ太一郎は振り向いてくれなかった。
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