白銀の風 アーク

第四章

第一話 疲れを感じる結論



目覚まし時計が朝の起床時間を告げはじめたが、沙絵莉はぼおっと天井を見つめたままだった。

夜はちゃんと眠れた。ただ、気分が滅入る夢を見ただけ…

花の祭りで、花のドレスを着た美女とアークが舞うように空中を踊っていた。

踊りが終わると、ふたりを囲った集団が拍手喝采、そして…

沙絵莉は、夢の続きを頭からシャットアウトするようにぎゅっと目を瞑り、強く頭の片側を叩いていた。

痛みのぶん、涙が出た。

「あー、夢なのに…」

彼女はベッドに起き上がり、鳴り続けている目覚ましを黙らせた。そして切なさのたっぷり含まれたため息をついた。

学校に行かなければ…休んでばかりいられない。由美香と泰美を心配させてしまう。

ベッドを降り、洗面所で顔を洗うと、少しだけ気分がすっきりした。

食欲はなかったが、トーストを一枚食べ、牛乳をコップ一杯飲んだ。

夢は最悪だったが、昨日は最高に楽しかった。まさに夢のような一日だった。

沙絵莉はきゅっと眉を寄せた。

ほんとうに夢だったのではないか?

理性的な自分が、不安そうに囁いてくる。

なんとも落ち着かない気分になり、沙絵莉は昨日の出来事を一生懸命思い返しはじめた。

図書館に現れたアーク。その彼に手を取られ、彼女は彼の世界に行ったのだ。

あれはまぎれもない現実。幻でも魔術でもない。

花の祭りをやっている場所にゆき、色んな催し物を見物した。

浮遊の技や衝撃波や、幻のショーも…。そして食べたことのない食べ物を食べて…

夕方になって、沙絵莉のアパートに直接戻ってきた。

あんなにもすぐに消えてしまわなくたって良かったのに…もっと私が色んなことを現実と受け止められるようになるまで…ここにいたって…

沙絵莉は、そんなことを考えている自分に赤くなった。
それでは、彼にここにずっといて欲しかったと言っているようなものだ。

自分の世界に戻ったアークは、あのあとどうしたのだろう?
真夜中までずっと、祭りを楽しんだのだろうか?

花の衣装を着た綺麗な女の子たちとおしゃべりしたり…夢の中の彼のように、楽しそうに踊ったり…

花を模した衣装は本当に素敵だった。

アークには何も言わなかったが、沙絵莉は正直、彼女たちがうらやましくてならなかった。

花の衣装を着た沙絵莉を、アークに見て欲しかった。
もちろん、そんなことは叶わぬ夢だけど…

沙絵莉は立ち上がり、汚れたお皿とコップを片付け、学校に行く支度をした。


自転車に乗り、大学への道を走っていると、本来の自分の生活に浸り、アークに関するすべてのことが、どんどん希薄になっていくようだった。

大学の駐輪場に自転車を止め、バッグを持ち校舎に向かって歩いていると、さらにその感覚は強まった。

テレポで異世界に行った?

浮遊の技のショーを観た? キュラのパイを食べた?

言葉が通じるようになる魔法の首飾り?

沙絵莉は、何かに縋りたい気分で、思わず首元に右手で触れ、そこになにも見出せずに強く唇を噛み締めた。

何もない。アークを現実と感じられる物など、何一つない。

彼は消える直前まで、首飾りを取り上げたりしなかった。なのに、なぜなくなっているのだ。

彼が消えると同時に、あの首飾りも消えてしまったのだろうか?

それとも…あれは、すべて…夢だったのか?

「あれは現実よ。アークは、彼は、実在している」

歩きながら、沙絵莉は呟いていた。

「沙絵莉ぃ」

トンと背中を軽く押され、沙絵莉は後ろに振り返った。

「由美香」

「どう? もう大丈夫?」

「う、うん。よくなったみたい」

なんとなく由美香と目をあわせられず、沙絵莉は視線を地面に向けつつ答えた。

くすくす笑う声が聞こえ、沙絵莉は顔を上げて由美香を見た。

「初デートで、緊張しすぎたんでしょ?」

「あ…ん…その…まあ…色々、気疲れしたかも…」

言葉を選び選び沙絵莉は答えたが、心に気まずさが残った。

「でも、楽しかった?」

「あ…あのね」

「うん、なあに?」

にっこり笑って問い返され、沙絵莉は言葉に詰まった。

まさか、笹野とは別のひとが気になってならないなどとは口にできない。

相手は異世界のひとだなどと言うつもりはないが、いったい誰なの?と聞かれても、答えられないのだ。

「沙絵莉?」

「私…ドイツ語の教科書忘れてきたみたい」

思わず口にした沙絵莉だったが、こいつは苦し紛れの嘘というわけじゃなく、言い終えた彼女は顔をしかめた。

「ええっ、沙絵莉らしくないわね。…でもま、病気上がりだからね。ドイツ語なら、泰美も一緒じゃなかった?」

「うんそう」

「なら、あの子に見せてもらえばいいじゃない」

「そうだね。そうする」

話が逸れたことにほっとし、沙絵莉はその後も泰美のことを話題にしつつ由美香と教室に向かった。


一時限目は無事に済み、二時限目の教科書を忘れたドイツ語も、泰美の隣でなんなく切り抜けられた。

食堂でも笹野と顔を合わせてしまうのではとどぎまぎしていたが、会うことはなかった。

だが、問題は三時限目だ。情報科学、このクラスは笹野も一緒。ついでに由美香と泰美まで…

そのふたりが教室の最後尾の席に座っている笹野を見つけて、彼の席に向かって行くのを、沙絵莉はなすすべもなく見つめた。

彼との間が気まずいことになっているのを、ふたりに話しておくべきだったといまさら悔やんだが、もう遅い。

笹野の様子は見た感じ普通だった。レポートの出来映えを話し合っている三人の傍らに、彼女はさり気なく加わった。

彼は沙絵莉に対してもいつものように振る舞い、先日の出来事などなかったかのようだ。

だが、危惧していたとおり、授業が終わると笹野は沙絵莉を呼び止めた。

由美香と泰美は気を利かせてか、さっさと次の教室へと行ってしまった。

「四限目が終わったら、駐車場で待ってるから」

有無を言わせぬ表情でそれだけを言い、笹野は歩み去った。





四時限目が終わると、沙絵莉は笹野に従い、彼の車の助手席に乗り込んだ。
自転車は置いて帰ることになるが、明日の朝はバスを使えばいい。

エンジンを始動しながら笹野がこちらを見たのを感じて、沙絵莉は彼に顔を向けた。

「君、ずっと捕まらなかったね。昨日はどうしたの? もしかして、僕を避けてた?」

沙絵莉は素直に頷いた。

嘘をついても仕方がない。
彼女の心にあるものをそのまま、彼に語るべきだろう。

「ごめんなさい。避けてたの。それと、土曜日のこと…。食事から後のことだけど、あまり覚えていなくて…ごめんなさい」

笹野の表情が目に見えて暗くなった。沙絵莉は慌てて言い添えた。

「だ、だけど、本当に楽しかったの。コンサートも、あなたとのお喋りだって。ありがとう、連れてってくださって」

「僕も楽しかった。君が付き合ってくれて嬉しかったし、僕は…君の反応に、期待ではなくて確信を持ってたんだ。君も僕に好意を寄せてくれているってね」

笹野がそう思ったのも無理はない。彼女だってそう感じていたのだ。
それくらいふたりで過ごした時間は楽しかった。

それなのに、すべてが…アーク…彼の出現で…

「君はさ、…僕が口にしたことを、何も覚えていないんだな、きっと」

「そんなことないわ。コンサートでの…」

「食事中に言ったことは? 覚えていないんだろ?」

その指摘に、彼女は言葉に詰まった。その通りだ。





俯いてしまった沙絵莉を見つめ、貴之はぐっと奥歯を噛み締めた。

『あの人は誰? どうして私の前に…』

ぼうっとした彼女が、心ここにあらずの状態で、洩らした言葉。

『あの人って、誰のこと?』

思わず聞いた貴之に、彼女は『わからない…ただ』と答えた。

聞くんじゃないと、頭の片隅で叫ぶ声を無視して、彼は『ただ?』と、彼女の返事を促した。

瞳を揺らしていた彼女が口にした言葉は…

『胸が震えて…あの人の瞳を見ると…』

始め茫然とした。そして、その言葉は貴之の胸に突き刺さった。

彼女を送っての帰り際、『君はその男が好きなんだな?』と彼が口にした瞬間、沙絵莉は、とんでもなくぎょっとしたように目を見開いた。

彼女はまだ気づいていないのだ。その男を自分が、愛していることを…

今ならまだ、彼女を自分のものに出来るかもしれない。そう考えている自分に気づいて貴之は恥じた。

俯いた彼女の、ナイーブそうな面差し…
いつもは花びらのようにふんわりとした唇を、いまはきつく噛みしめている。

彼の車の助手席に座っている彼女を、甘酸っぱい思いで見つめながら、彼は思い知った。

彼女を諦めるのは、ずいぶん骨が折れそうだ。

「ごめん…なさい」

沙絵莉の声に、貴之は我に返った。

「謝ることないさ。そんな顔しないで…」

自分の声に自嘲する響きを聞き取って、貴之は口をきゅっと結んだ。

彼女もその響きを感じ取ったに違いないと思え、なんともいたたまれない気分になった。

「でも、一緒にいて私も楽しかったの、それは本当なの」

「うん、ああ」

なんでもなさそうに返事をしたものの、胸が疼いてならなかった。

もうすべて終わりなのだろうか?

僕はそれでいいのか?

もんもんとした思いを抱え、貴之は彼女のアパートの前につくまで黙り込んでいたが、車を停車させたところで、後がない気分になり、焦りにかられた。

「また、付き合ってくれる? ふたりで、どこかへ出掛けるってことだけど…」

彼女の返事を貴之は息を詰めて待った。

彼女がすっぱりと断ってくれた方がいいのだ。

頭の片側で理性が呟くものの、感情がそれをひどく嫌がっている。

「私…」

「いい、わかった」

思わず彼女の言葉を邪魔した自分に、彼はため息をついた。

だがどうしても、はっきりと断りの答えを聞きたくなかったのだ。

沙絵莉は他の男のことを好きなのだ。
たとえ本人がわかっていなくても、彼にはわかっている。

それでも…

彼女との繋がりを、いまはまだ、どうしても断ち切れない。断ち切りたくない。

アパートへと駆けてゆく沙絵莉の後ろ姿を見送り、貴之は車を発進させた。

諦める必要は、まだないのではないか?

中途からどうだったにしろ、沙絵莉は自分と一緒にいてあんなに楽しげだった。

あの好意はまぎれもなく本物だ。それは疑う余地がない。

問題は、わけの解らぬ男の存在だ。

あのコンサートの会場から出たところに、その男はいたのに違いない。
男を目撃して、彼女はひどいショックを受けたのだろう。

もしかすると、沙絵莉が思いを寄せている男には恋人がいて、あの時も一緒にいたのではないだろうか?

それならば、彼女のあの急激な変化も、動揺ぶりも納得がゆく。

もしかすると…彼女の片思いで終わるかもしれないのだ。
まだまだ希望がある。そう思っていいのではないのか?

彼女とはこれからも会える。

それに、将来なんて不安定な代物だ。

沙絵莉のことは確かに好きだが、将来の伴侶になんてことまで真剣に考えていたわけでもない。

彼女のことを考えると、ひどく胸がくすぐったい。
そのくすぐったさを不快に感じる時もあるし、無性に快い時もあるってだけ…

「あー、やっぱ、かなり重症ってことか?」

貴之はそう結論を出し、ひどく疲れを感じて大きく息を吐き出した。






   
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