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第三話 優しき巨漢
分厚い本をパタンと閉じ、アークは長椅子にごろりと横になった。
「あーあ」
時の進みを、こんなにも遅く感じたことはない。
魔力を使うことを禁じられては、からだの鍛錬と、本を読むことぐらいしかすることがない。
魔力の温存のしすぎで、いまや体中で魔力が跳びはねているような気がする。
首飾りをジェライドが取り上げたのは正解だったろう。
いまこの手にあれば、まず間違いなく、衝動に突き動かされて飛んでしまっているに違いなかった。
サエリは…彼女はどうしているだろう?
もうあれから六日にもなる。
一日を終える毎に、彼女への思慕が募り、アークを苦しめる。
彼女の笑い声、頬を染めた顔、かわいらしい仕草。そして澄んだ瞳…
アークは胸に疼くような痛みを覚えて小さく吐息をついた。
体の中が魔力で満ちていくほど、やり切れなさが培養されてゆくようだ。
それに、こうして何もしないで横たわっていると、考えたくもない考えが脳裏に浮かび、彼を悩ませる。
サエリはあの男と、いまこの時、一緒にいるのではないか…と。
ジェライドでもいれば、考えても仕方のないことを鬱々と考えたりせずに済むだろうに…
自由を奪われてイラついているいまのアークの側になど、当然やってきたくはないだろう。
修練場にでも行ってみるか。
アークは服を着替え、いつもの帽子を被り、館を出て門に向かう途中でくるりと向きを変えた。
正門の前の道に、大勢の若い女達がいて、彼の姿を目にしてキャーッと一斉に叫んだのだ。
ジョジョールがもみくちゃにされながら女達を怒鳴りつけている。
日を追う毎に、この騒ぎはだんだん酷くなるようだ。
テレポが使えないために歩いて外出していたのだが、聖なる館からアークが歩いて出てゆくことがあっという間に広まってしまったのだ。
おかげでここ三日ほど、ずっと屋敷に引きこもっていたというのに…
屋敷に入りながら、アークは苛立ちとともに役に立たなくなった帽子を掴んで取った。
これももうだめだな。すでに知られすぎている。
新しいデザインの帽子を手に入れねば…
屋敷の中に入ったものの、無性に憤りが湧く。
怒りのこもった靴音を響かせてアークは居間に入った。
部屋に入ってきた息子を見て、サリスがおかしそうにくすくす笑っている。
「私にとっては、笑い事ではありませんよ」
「困ったわねぇ」
ちっとも困っているような表情ではない。
笑みを噛み殺している母に、アークは顔をしかめて無言の抗議をした。
「母上、新しい帽子が欲しいのですが…」
「帽子?」
「ええ。これだと知られすぎてしまっていて…」
アークは手に持っていた帽子をテーブルの上に、ため息をつきながら置いたものの、また手に取った。
この帽子はサエリと花の祭りを楽しんだ際に被っていたもの。
「ああ。わかったわ。何色がいいかしら」
「そうですね。こげ茶にでもしてもらおうかな」
アークは、帽子をズポンのポケットの中に押し込みながら答えた。
「すぐに作ってあげるわ。…アーク、それはもう必要ないのじゃなくて…?」
「いえ。まあ、持っておきますよ。使い道があるかもしれないし…」
言いながらいくぶん頬に熱がさしてきたようで、アークは誤魔化しに頬を擦った。
「そう。いくつか作ったほうがいいかしら?」
「そ、そうですね。複数あったほうが、もちろん助かりますよ」
「花の祭りの日。逢いに行ったの?」
アークは自分を見つめているサリスを見つめ返し、なんと言おうか迷って口ごもった。
「少しは仲良くなれたのかしら?」
「まあ…そうですね」
「そう。良かったわね」
ほっとしたように母に言われ、アークは照れくさくてならず、頬の赤みが増した。
「早く終わるといいわね」
秘儀のことだろう。
「ええ。魔力が使えない状態がこうも続いては…」
「それで、どこに行きたいの?」
「修練場です」
アークと懇意にしているテレポの使い手達、たとえばルィランもそうだが、みんなバッシラ草の焼却作業に専念しているし、ジェライドを含めた若い賢者の連中は、アークと同じで秘技に参加するため魔力の温存中だ。
テレポを頼める知り合いがいない。
「あなたの役に立ちたいけど…私は自分一人がテレポするだけで精一杯なのですものねぇ。そうね、ゼノンのように老賢者の誰かに頼んではどうかしら。たとえば…」
サリスが名をあげぬうちにドアを叩く音がした。
サリスの返事を聞いて入ってきたのは大柄な人物だった。
「まあ、良いところに来て下さったわ」
ポンテルスは節のようなしわを緩めて笑み、サリスに向かって鷹揚に頭を下げた。
そしてアークに向く。
「アーク様、わしが供をいたしましょう」
どうやらこの大賢者、すでにアークの窮地を知っているらしい。
アークは喜び勇んで立ち上がり、ポンテルスの側にゆき、手を差し出した。
「助かります。大賢者ポンテルス。ではお願いします」
ポンテルスの片眉が、問うようにきゅっと上がる。
「わしは人の心は読めませぬがのう」
「それではどうしてここへ」
アークは混乱して尋ねた。
「ジェライド殿に、いましがた頼まれたのですじゃ。あの方もあなた様も、いまは魔力を使えぬゆえ、手助けが欲しいとのう」
あまりにタイミングが良かったから、何もかも分かっていてここに出向いたのかと勘違いした。
そうと分かってアークは思わず吹き出した。
少し心が軽くもなった。
人の心など、たとえ大賢者であっても、そう簡単に読めるものではないのだ。
ただ広い修練場にやってきたアークは、あちこちで修練をしている者達を一通り眺め回した。
「誰か相手をしてくれないかな」
「アーク様。私が用意しましょうかの」
「用意?」
アークはポンテルスの言葉に眉を上げた。
「幻での」
ポンテルスが左腕を高く差し上げてから、右手を緩く振った。
アークの目の前に、見るからに残忍そうな顔をした大男があらわれた。
「これは…」
アークの目で見ても、幻とは思えぬ現実感だった。
幻にまったくブレがない。
「驚きだな」
アークはポンテルスの技に賞賛だけでなく、恐れすら抱いた。
彼は幻であるはずの大男に歩み寄ってゆこうとしたが、ポンテルスに止められた。
「おやめなされ。凶暴ですぞ」
「凶暴? 幻なのですよね?」
「うむ。が、戦うために作り出されたものなれば。さあ、剣を」
ポンテルスから手を差し出しされ、アークは腰に下げていた剣を手渡した。
いつもだと使っているものは魔剣だが、これは普通の剣だ。
剣を受け取ったポンテルスは、すーっと剣を撫で上げた。
剣が金色に輝き始めた。
「いま私は、魔力を使えないのですよ」
「構いませぬ。これはわしの魔力なれば…アーク様が触れても消えはしませぬ」
剣にこめた魔力は、使う人間が同じ魔力で維持しなければならないものなのだが…
どうやらポンテルスは、アークの代わりにこの剣の魔力を維持してくれるということらしい。
「では」
アークは輝く剣を差し上げ、思い切り勢い良く、大男めがけて切り込んだ。
パウエイは修練場に姿を見せたアークを、若き剣士たちに剣術の技を教えながらも、ずっと意識していた。
ザンバラに切ってしまった髪は、いまはもうきれいにカットされている。
髪を切ったことは少しも悔いていなかった。
それでもこうして聖なるアーク様を目にしていると、早く以前のような美しく長い髪に戻りたいと願わずにはいられなかった。
もちろん、パウエイ如きに手の届くお方ではないとわかっている。
ただ、こうやって時折眺めていられるだけで、彼女は充分しあわせなのだ。
剣士たちに一言二言注意を与えてから、パウエイはアークの居場所を見定めた。
アークは大男を相手に、剣を繰り出しているところだった。
その大男は、生身の人間ではなく幻で作り出されたもの。
アークと一緒にやってきた年老いた賢者が作り出したものなのだ。
その幻が現れる様をパウエイは一部始終目にしていたのだが、アークと大男が戦っている姿を見れば見るほど、それが幻とは考えられなくなっていく。
いったい、あの老賢者は何者なのだろう?
もしや、大賢者のおひとりなのだろうか?
剣同士がぶつかり合うキーンという音が響き、パウエイは老賢者からアークに視線を向けた。
ため息をつきたくなるほど優雅な身のこなしで、アークは剣を巧みに繰り出し続ける。
その動きにはまったく無駄がない。
あのような姿を拝見して、憧れない女がいるものだろうか? いるはずがない。
パウエイは周りを見回して思わず笑った。
修練中の者の大半が、男女関係なく、アークの華麗な剣技に魅入られている。
がっしりとした手が突然肩に置かれ、パウエイは驚いて振り返った。
仁王立ちになった厳めしい顔のギルが、彼女を見下ろしていた。
その眼差しにパウエイは青ざめ、急いで背筋を伸ばした。
極度の緊張から、顔が引きつってならない。
この魔剣士のリーダーを務める聖騎士は、とんでもなく苦手な存在だ。
思い出すのも恥ずかしい失態以来、さらに苦手な相手となってしまっている。
そして間の悪いことに、いまがいま、アーク様に見惚れていたところであればなおさらだ。
見据えられただけで、身体が半分に縮み上がった気がする。
ギルが無言で何かを差し出してきた。
太い腕をにゅっと突き出され、パウエイは思わず数歩後ずさっていた。
そんな彼女を見て、ギルが苦々しげに顔を歪めた。
あまりに険悪な表情に、パウエイは息が止まった。
息を吐き出そうとしても喉が詰まったようになって、どうにも息が吐けない。
「うう…」
息苦しさに口を手で覆ったパウエイは、ギルの巨体がぐっと自分に迫ってきて、仰天して目を見張った。
背中にトンとギルの手のひらが当てられた。
ふっと身体が楽になり、柔らかく温かなものが流れ込んできた。
癒しの術だ。地魔法…
それもかなり高度な癒しの術だと分かる。
息苦しさが消えたパウエイは、いったんほっとしたものの、ギルが自分を覗き込んでいるのを見て、はっとして顔を引き締めた。
「聖騎士ギル殿。す、すみませんでした」
「私はすぐに消える」
厳しい声で言われ、パウエイは萎縮したものの、ギルの視線をなんとか受け止めた。
「これを」
えっ?
思わぬ事態に、どうしていいか分からなかったが、差し出されたものを受け取るべきだと理解し、パウエイは手のひらを上に向けて差し出した。
手に上に小さなものが載せられ、彼女がそれに目を向ける前に、ギルがさっと背を向けた。
「ギ、ギル殿?」
一瞬、動きを止めたものの、聖騎士ギルはそのまま歩み去ってゆく。
パウエイの倍ほどもある肩幅が悠々と揺れ、マントが大きく翻った。
数秒、目を見開いて立ち竦んでいたパウエイだったが、ゆっくりと手の上のものを見つめた。
小さな小瓶だった。
不思議な色合いのとろりとした液体が入っている。
こ、これはいったい?
「パウエイ、ギル殿からお声を掛けられるなんて、なんだったの?」
そう声を掛けて来たのは魔剣士の先輩だった。
「あ。はい。こ、これをくださったんですけど…」
「あら、ちょっと見せて」
先輩魔剣士は、パウエイから小瓶を受け取り、指でつまんでしげしげと眺め回した。
「まあ、これって…」
驚きを込めた叫びを上げた先輩魔剣士は、なぜかにっこり微笑みながら、パウエイの頭を見つめてきた。
「あ、あの? なんなのですか?」
「ほら、ここ見て」
先輩魔剣士は、小瓶をくるりと回してパウエイの方へ向け、小さなラベルを指さした。
育毛促進薬(特級品)と書いてある。
じわじわと熱いものが込み上げ、目の前がぼやけた。
小瓶を握り締めた手で顔を隠し、声を出さずに涙を流すパウエイの肩を、先輩魔剣士はやさしく何度も叩いた。
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