白銀の風 アーク

第四章

第四話 強烈な苛立ち



「沙絵莉お姉ちゃんの番だよ」

ぼおっとしていた沙絵莉は、その可愛らしい声に我に返り、目の前のすごろくゲームに注意を戻した。

急いでさいころをふる。

ゲームに付き合いつつも、まったく集中できず、ぼおっとしているわりにはさいころの目が良くて、ゴールを目前にしているのは彼女の駒だけだ。

あとの三人はふりだしに戻ってばかりいて、ちっともあがりに近づけないでいる。

「あーあ。沙絵莉お姉ちゃんたら、もうあがっちゃったのぉ」

さいころは五の目が出て、彼女はとんとんと黄色い駒を進め、丸いあがりの枠に一番乗りしてしまった。

すごろくゲームというのは、半分上の空でも勝敗にはなんら関係がないらしい。

「やったわ。勝者への賞品とかはないの、陽奈ちゃん」

気を入れてやっているところを見せたくて、沙絵莉は冗談っぽく尋ねた。

陽奈はおしゃまな顔で一生懸命考え込んでいたが、どうやら何かいいものを考え付いたらしく、パッと明るい表情になった。

「お昼に亜由子ママとクッキーを焼いたの。それをあげるね」

沙絵莉はいささか驚いた。

母がクッキーを焼いたなんて…いままでお菓子作りになど興味がなかったのに…

これも陽奈のためだからだろうか?

九時を回ると、陽奈は亜由子に付き添われ、寝室に引き上げた。

陽奈はすぐに寝入ったらしく、亜由子はすぐに戻ってきた。

それから一時間ほど、テレビのニュース番組を眺めていた沙絵莉は、母と俊彦に断りを言って寝室に引き上げた。

この部屋は、彼女がここに住んでいた一ヶ月使っていた部屋でもある。

温かい感じに飾ってあるのだが、この部屋にいると、どうしてだか無性に虚しくなる。

岡本家の三人は、彼女をとても歓迎してくれるのに…

みんなして、毎週末泊まりに来いと誘ってくれ、それがお義理などでなく本気だということも、ひしひしと伝わってくる。

それなのに、彼女はどうしても、自分が岡本の家族の一員だと感じられないし、自分のアパートにいる時よりも、取り残されているという感覚が身に迫る。

父親の家で夕食をご馳走になった時は、それがさらに酷い。

沙絵莉のことを、美月や父が一生懸命家族として扱おうとしてくれているのが伝わってくればくるほど、逆に虚しさは増してゆく。

「沙絵莉、いい」

ノックの後に母親の声がした。

なんとなく来るだろうなと思っていた沙絵莉は、「どうぞー」と努めて明るい返事を返した。

紺と白のストライプのパジャマの上に水色のガウンをまとった亜由子は、新しく買った薄桃色のふたり掛けのソファーに座り込んだ。





「使ってる?」

亜由子は、ベッドに座っている娘に問いかけた。

いま亜由子が座っているソファーは、沙絵莉のために買ったのだ。

娘がここに来たとき、少しでも居心地が良いようにと…

「うん。使わせてもらってる」

沙絵莉の言葉に、壁を感じて亜由子はもどかしい気持ちになった。

使わせてもらってるなんて…このソファは沙絵莉のものなのに…沙絵莉は、まるで他人のものを使っているという意識を持っている。

もちろん、それはこのソファに限らず、この家のすべてのものが、沙絵莉にとっては他人のものでしかないようなのだ。

すべてが、ふりなのだ。
この家に馴染んでいるふりをする。遠慮をしていないふりをする。楽しんでいるふりをする。

母親にとって、娘のそんな反応は、どれだけもどかしくいたたまれないものか…

そして、娘の中にあるひりつくような孤独感を感じるたびに、亜由子は泣きたくなる。

娘なのに…
おなかを痛めて生んだ娘。

この子の誕生は奇跡のようで、生まれた瞬間、神に感謝して涙した。

そして溢れてくる愛を注ぎながら、成長を目にする喜びを胸いっぱいに感じさせてもらい、母娘ふたりで暮らしてきた。

なのに…

再婚してから急に、娘の心は亜由子から遠く離れてしまったのだ。

亜由子が再婚することを、沙絵莉は心から喜んでくれたし、陽奈のことも妹のように慈しんでくれている。

やさしい娘に育ってくれた。けれど、いまの沙絵莉の心には強固な壁があり、どうやっても踏み込んでいけないのだ。

壁は透明で、そんなものは存在していないと思わせ、触れようとしてもするりと接触をかわしてしまう。

もちろんこんな状態…亜由子には堪らない。

「ね、沙絵莉、ここに戻って来ない?」

沙絵莉は困惑した様子で亜由子の目を見つめ返してきた。

「一人暮らしはやっぱり危険でしょう。心配だし…ここにいてくれると安心なの。あなたの顔も毎日見られるし…」

「でも大学が…」

「そうね、多少は遠くなるけど。そろそろ車の免許を取ったらどうかと思うの。そうすれば、大学まで三十分くらいあればいけるんじゃない。通えない距離じゃないでしょう?」





沙絵莉は、母親になんと返事をしたらよいか困りあぐねて俯いた。

乾いた唇を舐め、顔を上げて母親と視線を合わせ、彼女は口を開いた。

「一人暮らしに馴れちゃったの。心配かけてるのはわかるけど。…ごめんね」

亜由子は仕方なさそうに膝の上で両手の指を合わせていたが、唇を少し突き出してからため息まじりに語りはじめた。

「あなたも来年は成人でしょ。そうするといつ結婚してもおかしくない歳になるじゃない。一緒に住むとすれば今しかないのかなって考えちゃうの。私が再婚したことで、あなたが離れてしまったとすれば、少し早まったかなって…。もう数年結婚を待っ ても良かったかもってね」

それは沙絵莉も考えないことではなかった。

もう数年、母とふたりで暮らしていたかったと正直思う。

だけど…幼い陽奈には母親が必要だった。
愛情を一心に注いでくれる母親が…

昔、沙絵莉がそうだったように…

だから祝福したのだ。

もちろん、陽奈のためばかりではない、母にも愛するひとと幸せになって欲しい。

それは嘘でもなんでもなくて…彼女は心からそう思ってる。

けど、そういう気持ちと、彼女の孤独感や虚しさは別物。

「これで良かったのよ。母さんは長い間一人だったんだし、少しでも若いうちに再婚して良かったの。もしかしたら、いますぐにだって私は結婚しちゃわないもと限らないでしょ? 高校の時の友達の美樹ちゃんなんか、今年の秋には結婚するっていってるんだもの」

「笹野君とは、付き合い始めたの?」

この展開では、どうしてもこの話題に突入してしまうか。

「…断ったの」

どうやら母は、娘は付き合い始めたものと決めつけていたらしい。

沙絵莉の答えに、気の抜けたように「そう」と呟いた。

冷静に考えてそう決断を下した…というのではなかった。

笹野のことは嫌いではない。

問題はアークなのだ。
彼はあれ以来まったく姿を現さない。

もう二週間にもなる。

夜ベッドに入って目を閉じたときや、朝目覚めた時など特に、あれは夢ではなかったかと考えてしまう。

自分が作りあげた幻想ならば、すっきり忘れてしまえばいいと思っても、現実にはうまくゆかない。

彼はどうして来てくれないのだろう?

もう彼女になど飽きてしまったのか?

魔法が使えて、テレポなんてとんでもないことが簡単に出来て…自由に色々な世界を飛びまわれるひとなのだ。

今頃は…もう新しい出会いに夢中になっていたり…

胸が苦しいほど疼き、沙絵莉は思わず身を震わせた。

「…アーク…」

沙絵莉は無意識に呟きを洩らしていた。

亜由子が何?というように彼女を見つめてきたが、沙絵莉の目には何も見えていなかった。

頭の中に微かな声が残響したのだ。

低い温かなこの声は、アークの声に間違いない。

沙絵莉は焦って部屋中を見まわした。

「どこ?」

「さ、沙絵莉、いったいどうしたのよ?」

「えっ?」

目の前にいる母親の存在に彼女は滑稽なほど驚き、心臓が跳ね上がった。

頭の中ではまだ、アークが彼女の名を呼ぶ声が、びりびりと振動する感じでこだまをくり返している。

「どうしたの?」

『サエリ、君じゃないのか?』

アークの声が母の声と重なって頭の中にはっきりと響いた。

まるで沙絵莉の声が聞こえたかのように、アークの声には切羽詰まった響きがある。

いま、ここにいるのだろうか?

母がいるから姿を見せられないでいるとか?

でも、アークの声は、遠くから響いてくるように感じられてならない。

それも、彼女の頭の中だけに聞こえているのは間違いない。

母親の訝しげな視線に気づき、沙絵莉は慌てふためいた。

彼女の様子はどう考えても異様に映ったに違いない。

「え、そう。ど、あ、あの。なんでもないの。ちょっと呼ぶ声が聞こえ…あ、もしかして俊彦おじ様が、お母さんのこと呼んだんじゃないのかな」

沙絵莉が話しているからか、アークの声はぴたりと聞こえなくなった。

頭の中がしーんと静まり返り、沙絵莉は背筋がすーっと冷えた。

まさか、アーク、諦めてもう帰ってしまったのだろうか?

せっかく逢いに来てくれたようだったのに…

亜由子は首を傾げて、夫の声が聞こえるだろうかと耳を澄ましていたが、気になったらしく立ち上がった。

「ちょっと見てくるわ。このことは、また今度話しましょう」

沙絵莉は、落ち着かない気分で母親に頷いた。

母親が出てゆき、声が耳に届かないところまで行ったと思えるまで待ってから、彼女は深呼吸して心を落ち着け、震える声で彼に呼びかけてみた。

「アーク」

何の変わりもない。

部屋は静かで彼女はひとりぼっちだ。

そのあと、沙絵莉は何度も何度も呼びかけたが、アークの声が聞こえることはなかった。

しばし茫然としていた沙絵莉の頬に涙が一滴伝った。

口元が引きつったように震えはじめた。

この仕打ちはあまりに残酷だ。ずっとずっと彼を待っていたのに…

喉が締めつけられるようで、沙絵莉は息苦しさに両手で喉元を押さえた。

押さえた喉から止めようもなく嗚咽が込み上げ、彼女はベッドに突っ伏して号泣しはじめた。





アークはむっつりとして草の上に座り込んでいた。

いきり立ったジェライドが目の前を右に左に闊歩している。

ふたりの百メートルほど後方にはいくつもの天幕が張ってあり、食後少し散策しようと出てきたところだった。

あたりにはバッシラ草が焼却されたためか、微かだが、草の焼けた異臭が漂っている。

「あーっ、くそっ」

両手で頭を抱え込んでアークは唸った。

自分のやってしまった失策に苛立つとともに、サエリが気になってならない。

「信じられない。まったく。どれだけの魔力を消費したと思ってるんだ。秘儀は明日なんだよ」

「やろうと思ってやったわけじゃ…」

「そうかな」

鋭いジェライドの視線を、アークは受け止められず、顔を俯けた。

言い訳などできはしない…

「私が止めたとき、すぐに通信をやめたかい。私の制止を振りきったじゃないか」

ぐうの音もでない。確かにその通りだ。だが、サエリの声が聞こえて理性がぶっ飛んでしまったのだ。

最初は思いが募りすぎたための空耳かと思ったのだが、そうでないとわかった瞬間、無意識に通信の技を使ってしまったのだ。

「ああーもう。悪かったさ。すべて私の過ちだ」

アークは、両手で銀色の髪をむやみやたらにかき回した。

彼の首飾りはいまジェライドに預けたまま、今回の通信は、沙絵莉の持っている通信の玉を通じてのものだった。

自分が持っていたのなら、通信だけのこと、魔力をたいして使わずに済んだのだが…

「やってしまったことは、もうどうしようもないからね」

他に言いようがなかったのだろうが、ジェライドのその言葉はアークの胸を刺した。

ジェライドの顔を直視できず、アークは視線を地面に落とし、自分の内にある魔力を感じてみた。

満杯ではちきれそうなほどだった魔力だが…さほど減ったとは感じられない。

もちろん、その感覚だけで安心するわけにはゆかない。

明日の秘儀で、アークの魔力が足りなかったがために、惨事を招くなどとんでもないことだ。

「ジェライド、すまないが、魔力回復の薬湯を作ってくれるか」

黙したまま立ち上がったジェライドは、頷いて天幕へと歩いて行く。アークもその後に続いた。

あの甘たるい薬湯をたんまり飲めば、魔力は充分すぎるほど回復するだろうが…

先ほどのサエリの声の響きが気になってならない。

サエリに何かあったのではないだろうか?

彼を呼ぶ彼女の声は、悲しみと痛みを含んでひどく震えていた。

くそっ!

アークは足を止め、込み上げる強烈な苛立ちを必死になだめた。

いま、飛ぶわけにはゆかないのだ。

もう少しだ。もう少し。

明日の秘儀が終われば、サエリの元に行けるのだ。

秘儀が…無事に終われば…






   
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