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第八話 見えない同伴者
沙絵莉は自転車を押して道のほうへゆき、誰もいない空間に向かって「ここに乗って」と、後部座席を叩いてみせた。
「乗る? ここに?」
「ええ。大丈夫だから。ゆっくりこげば、転んだりしないわ」
沙絵莉はアークの声がした方に向けて話しかけた。
目の前にいるのはわかっていても、姿が見えないせいで、視線を定められず瞳が揺らぐ。
「いいから、ここに腰かけて」
自転車が少し片側に傾き、沙絵莉は力を入れて自転車を支えた。
タイヤがぐっと沈み込んだ。どうやら無事にアークは腰かけたようだ。
沙絵莉はためらいがちに、彼の背中があるだろうと思えるところに手のひらを当ててみた。
うん。ちゃんといる。
「サ、サエリ?」
戸惑ったような声を耳にし、沙絵莉は慌てて手を離して頷いた。
「大丈夫よ」
彼女は強く請け負うように言い、ハンドルを力一杯掴んで、自転車に腰かけた。
「どこか掴んで」
「えっ?」
「バランスが取りづらいの。腰のあたりを掴んでくれる」
しばらくまったが、腰に触れてくる様子はない。沙絵莉はもう一度催促した。
「腰を掴むのだろう。もう掴んでいるぞ」
一瞬意味が分からず首を傾げた沙絵莉は、ようやく彼の言葉の意味に気づいてぷっと噴いた。
顔に似合わず、まったくとんちんかんなんだから。
「あなたのじゃないの。私のよ」
「えっ! そ、そうか。…だが、その…君の腰に…触ってもいいのか?」
ごくりとつばを飲み込む音がした。
意味ありげな口調に、なんだかこちらまで緊張してきた。
「嫌だったらいいの。ほら、この辺をぎゅっと掴んでくれれば…」
沙絵莉はサドルの後ろを指して言った。
「嫌なわけがなかろう。君が、許すというのなら、もちろん私は…いいんだ。君の腰の方が…」
沙絵莉は反射的に頭の後ろへと手を振り上げた。
何処に当たったか知らないが、パシッと音がした。
どうもアークの耳の辺りだったようだ。
「叩くことはないだろう」
不服そうな声に、沙絵莉は吹き出した。
「もう腰はなし。ここを掴んでて」
自分のお尻の後ろ辺りを指さした沙絵莉は、コホンという咳払いに、ぎょっとして顔を向けた。
小さな子どもを連れた母親が、不審そうに彼女を見つめていた。
沙絵莉はためらいがちに微笑み、「まあ、かわいらしいお嬢さんですね」と声をかけた。
娘を褒められて喜ばない親はない。
母親は不審そうな表情を消して、態度を和ませた。
「まあ、どうもぉ。真理ちゃん、かわいいってぇ」
娘の両手を持ってしゃがみ込んだ母親を尻目に、沙絵莉は力を込めて自転車をこぎ出した。
はたからは一人で乗っているように見えるだろうが、後ろには大きな男性一人を乗せている。
おかげで、自転車はかなりよろよろといった感じで進んだ。
「大丈夫か…サエリ、降りようか?」
「声かけないで!」
沙絵莉は短く叫び返した。
お喋りなどしていたら、バランスが崩れてしまう。
それでも乗っているうちにいい調子にリズムがついてすいすいと走り出した。
風を切って進むのは気持ちがいい。そのうえ、後ろには素敵な荷物を乗せているのだ。
ほんとになんてことだろう。
アークがいまここにいる。
沙絵莉はあまりの嬉しさに、叫び出したい気分だった。
そんな乙女の純な喜びに浸っていた沙絵莉の耳に、またお腹の虫が喚くような音がした。
アークは何も言わずに、ぐっとだまりこんでいる。おかしくて吹き出しそうになったが、沙絵莉はなんとか我慢した。
「よっぽどお腹が空いてるのね」
「…昼食を取っていないからな」
「まあ、昼食も取れないほど、何がそんなに忙しかったの」
「ずっといたんだ。朝から…ずっと。こっちに」
「えっ?」
叫んだ沙絵莉は自転車を止め、後ろのアークに振り返ってみた。
アークはどぎまぎした。
彼の姿が見えていない彼女には知りようもないが、互いの顔はくっつきそうなほど近くにあるのだ。
彼の息を頬に感じたのか、サエリが慌てて身を引いた。
ほっとしたが、残念な気持ちも湧く。
頬を赤らめているサエリを見つめ、アークは話を続けた。
「声をかけようにも人が大勢で、姿を消して、ずっとチャンスを待っていたんだ」
「まあ」と言ったサエリは、しばし考え込んでから口を開いた。
「なんとなく感じたあれって、そうだったのね」
「感じた。私を?」
「ええそう。教室で…。もしかして、さっきのあれもそうなの、私の自転車が…」
「ああ、テレポしたんだが、接近しすぎていてかわせなかった。すまない。君に怪我がなくてよかった」
「あなたは? 衝撃があったもの、ぶつかったんでしょ。どこをぶつけたの?」
アークは痛む足を差し上げたが、サエリに見えるはずもなかった。
「足だ。少し痛むが…大丈夫だ」
癒しの術を使えばすぐになおる。と言いかけたアークだったが、「あとで手当して上げるから我慢してね」とサエリが心配そうに言うのを聞いて口を閉じた。
癒しのことは黙って置くことにしよう。
自分の癒しなどよりも、サエリの手当のほうが心がそそられる。
「あのおばさんをひっくり返したのもあなたなのね。ちょっと気の毒だったわ」
「わざとではないぞ。私だって、あの女の膝が背中に当たって痛かったんだ」
「まあ、背中を蹴られちゃったの」
心配そうに顔を曇らせるサエリを見て、アークはにやついた。
幻に包まれている安心感で、大っぴらににやつける。
それにしても、彼女の手当が待ち遠しい。
沙絵莉はいつも買い物をしているスーパーの前で自転車を止めた。
お腹を空かせているアークに、何か食べさせてあげなければならない。
周りから人がいなくなるのを待って、アークに話しかけた。
「ここで買い物するけど、一緒に来る? それともここで待ってる?」
「一緒に行く。姿を現してもいいか?」
「だ、だめだめ、人が多すぎるわ。姿を現した瞬間を目撃されたら、とんでもないことになるわ。この間も…ああっ」
「なんだ?」
沙絵莉はふぅーと息を吐いた。
すっかり忘れていたが、下の階に住んでいる奥さんの噂話。
あれは本当のことだったのだ。
そして、その噂の主は…
「あとで話しましょう」
沙絵莉はそう言葉を締めくくり、バッグを手にしてスーパーの中に入った。
「ちゃんといる?」
小声で確認すると、「ああ」という微かな声が返ってきた。
沙絵莉は安心して、買い物を始めた。
透明人間と一緒に買い物をするという事態はかなり斬新で愉快な体験だった。
品物を選んでいると、アークがこれはなんだあれはなんだとひっきりなしに問いかけてくる。
店内は騒々しいし、音楽も流れているから、彼の声を気にとめる人はそうそういなかったが、タイミングが悪いと、彼の声を耳にしたのか、きょろきょろと首をまわす人もいた。
もう黙っているようにと彼女に命令されて、彼はおとなしくなった。
満杯になったかごを持ち、沙絵莉はレジに並んで会計をすませた。
アークに美味しい物を食べさせようとあれこれと買い込んだのでダンボール一杯にもなった。
かなり重かったが、透明人間のアークに持ってもらうわけにはゆかない。
ずっしり重い段ボール箱を抱え、沙絵莉は出口に向かって歩いた。
これだけの荷物を抱えていたら、気づかいを見せない彼ではないと思うのに、彼女の命令を律儀に守っているのか何も言わない。
自転車に荷物を積んでしっかりと固定した沙絵莉は、周りを見回して誰もいないのを確かめてからアークに声をかけた。
「アーク?」
何にも返事がない。
「返事をして…いるんでしょ?」
やはりなんの返事もない。
まさか、つまらなくなって、自分の世界に帰ってしまったのだろうか?
いや、そんなことはしないだろう。沙絵莉に一言もなく帰るはずはない。
とすると…
沙絵莉は荷物をそのままに、慌てて店内に戻った。
スーパーの中を「アーク」と囁くように呼びかけながら小走りに移動していると、大量の缶詰が転がった通路で人が右往左往していた。
ひとりの婦人が、おろおろと謝りながら、数人の店員と一緒に転がった缶詰を拾って、元通りに並べるのを手伝っている。
へこんだ缶詰をより分けながら、若い女性店員がぶつくさ言っていて、沙絵莉からみても、ひどく感じが悪かった。
年長の男性店員がその態度をみかねて叱責し、婦人に向いて感じのいい笑みを浮かべた。
「お客様。私たちで片付けますから。どうぞお買い物をお続け下さい」
「で、でも」
婦人は泣きそうな顔で缶詰を握りしめている。
年長の男性店員はにこやかに笑みながら、その缶詰を受け取った。
「こういうことはとてもよくあることで馴れていますから。さあ、お買い物をお続け下さい」
床に置かれていた婦人の買い物かごを持たせて促し、男性店員は最後に「これに懲りずに、またおいで下さいね」と声をかけた。
見上げた客あしらいだと感心していると、肩に手が置かれ、沙絵莉はほっとした。
もちろんアークだ。
「何をしていたの、探したのよ。行きましょう」
囁いた沙絵莉は、すぐに店から出た。
荷台には荷物があるから自転車を押してゆく。
アパートはすぐそこだ。だが、その前にパン屋にも寄りたい。
歩いている途中でアークが悔いるような沈んだ声で言った。
「私が悪いんだ。あの婦人に悪いことをした」
「あなたが缶詰を転がしたの?」
「あれはカンヅメと言うのか? 私が転がしたわけではないんだが。その缶詰とかいうのを見ていたら、あの婦人に気づかなくて、私の身体にぶつかって、その拍子にあの婦人が…」
「缶詰の山に突っ込んだってわけね」
「姿を現して、片づけを手伝いに行くべきかな」
「そんなのかえっておかしいわ。仕方ないわ、ふたりであのおば様に、心の中で謝りましょう」
「…そうだな。そうしよう」
沙絵莉はアークの言葉に微笑んで頷き、歩き始めた。
「さきほどのカンヅメというものは、買ったのか?」
しばらくしてアークが聞いてきた。
やたら期待がこもっているように聞こえた。
「いいえ」
「そうか。あれの中身を見てみたかったのだが…」
かなり残念そうな口振りだ。
「あれと同じ物じゃないけど、缶詰ならうちにあるわよ」
「そうか」
明るい口調になったアークがおかしくて、彼女はくすくす笑った。
「家はもうすぐだげと、その前にパン屋に寄るわね」
「パン?」
「美味しいのよ。もう少し我慢してね」
「サエリ、世話をかけてすまない」
見えない同伴者は、きっと頭を下げているのだろう。
沙絵莉は笑みを浮かべながら、彼の手があるであろうと思える方向に手を差し伸べた。
その手にそっと触れるものがあり、彼女はそっと握り締めた。
目に見えなくても、あたたかな彼の手のひら…
アークの温もりがじんわりと心に沁み、沙絵莉は涙ぐみそうになった。
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