白銀の風 アーク

第五章

第十話 彼女の居場所



沙絵莉は、彼女の瞳を瞬きもせず見つめてくるアークの瞳を、困惑しつつ見つめ返した。

愛をくれるの?

アークが…私に?

私は私だけを愛してくれる人の愛が欲しいのよ。…けど、彼は…

一度瞼を閉じた沙絵莉は、ゆっくりと目を開けてアークを見つめた。

息を詰めて、アークは彼女を見つめ返している。鼓動が急激に速まった。

彼は、どういう意味を込めて、いまの言葉を口にしたのか?

愛してくれているのだろうか? そう信じていいのだろうか?

そのまま…言葉のまま、受け取ってしまっていいの?

けど、彼は異世界のひと。異世界の住人である彼は、愛をどう捉えているのだろう?

世界が違うのだ。愛の捉えかただって違うかもしれないのだ。

それに、私は? 私は彼を愛しているの?

自分に向けて問いかけた沙絵莉は、ひどく動揺した。

自分の気持ちが、正直わからない。

アークとともにいると、楽しくて、安心できて、それに心が満たされる。

沙絵莉は、彼女の返事を固唾を呑んで待っているアークの瞳を覗きこんだ。

いつもより黒みが増して見える銀色の瞳が、じっと彼女を見つめている。

胸が…心が震えた。

「ふたりの魂は結びついている。そうだろう?」

まるで彼女の心の震えを感じ取ったかのように、アークが言った。

沙絵莉は、何も考えずに頷いていた。

アークは満足そうに微笑んだ。

「いまはそれで充分だ。君は私が守る。何があっても、必ず。さあ、もう寝るといい。明日迎えに来る」

「い、行ってしまうの?」

別れを感じた沙絵莉は、切なさを感じて両手を伸ばした。その手をアークがそっと握り締める。

「心配しないで、横になって瞼を閉じるんだ。今度はゆっくり眠れるから」

諭すように言い、アークは沙絵莉を横にならせた。そして彼女の額にやさしく手を当ててきた。

手のひらはとても温かかった。
安心できる温もりに、サエリの意識は急激に遠のいていった。


眠ってしまったサエリを見つめつつ、アークは彼女の手を握り締めた。

彼の癒しで、彼女の心が癒えてくれることを願いながら、アークは心を込めて彼女の指先にそっとくちづけた。





ふーっと息を吐き出し、沙絵莉は目を開けた。

いない…

部屋を見回した沙絵莉は、アークの姿がない事を認識し、ひどくがっかりした。

それにしても、おかしな目覚めだった。いま目を閉じたのに…

沙絵莉は、カーテン越しに日の光を見つめた。

朝なのよね。

よく寝た気もするけど、まったく寝てない気もする。

それでも、頭が軽いというか、いまなら難しい試験すらスラスラ解けそうな気がするくらい、頭の中がすっきりしてる。

今日は…アークの世界に行くんだわ。

彼が誘ってくれて、明日の朝になったら迎えに来てくれるって…

沙絵莉は勢いよく起き上がった。

寝てなんかいられない。さっさと支度しなきゃ。十時に来るって言ってたから…で、いま何時?

焦りつつ目覚まし時計に目をやった沙絵莉は、肩からすとんと力を抜いた。

な、なんだ、まだ七時前じゃない。約束の時間まで三時間もある。

「よしっと」

弾む気分でベッドから出た沙絵莉は、タンスを開けて着替えを探した。

「ここじゃ、いいのがないなぁ」

気に入りの服は、すべてアパートの家だ。

アークの世界に招かれていくというのに、それなりに素敵な服を着ていきたい。

花の祭りのときに見た、アークの世界の女の子たちの姿が頭に浮かぶ。

花をアレンジしたドレスに身を包んだ彼女たちが羨ましくてならなかった。

出来れば、あれに負けないくらい…

顔をしかめてタンスの中を引っ掻き回していた沙絵莉は、ふと手を止めた。

ああ、そうか。考えてみたら、あれはお祭りだったからだ。

沙絵莉は唇を突き出した。

ということは、彼女たち、普通の日はいったいどんなファッションなんだろう?

花のファッションじゃなかった人もたくさんいたはずだが、花のドレスを着ていた女の子たちの印象が強すぎて、薄ぼんやりにしか覚えていない。

ともかく、おしゃれな服を着てゆきたいなら、一度アパートに帰る必要がある。

そう決めた沙絵莉は、適当に服を選び、着替えを終えてキッチンに行った。

「お母さん、おはよう」

キッチンから聞こえる物音で、母だと思い込んで沙絵莉はドアの間から顔を出しつつ声をかけた。

「沙絵莉お姉ちゃん」

びっくりしたように叫んだのは陽奈だった。

「あ、あら陽奈ちゃん」

陽奈はキッチンの椅子に座って牛乳を飲んでいるところだった。

「陽奈ちゃん、あの、お母さんは?」

「亜由子ママは…そのぉ…お洗濯…」

そうもごもごと口にする陽奈は、困ったように顔を赤らめて俯いた。

その様子を見て、沙絵莉は首を傾げた。

いったい?

「陽奈ちゃん、牛乳…あら、沙絵莉、おはよう」

元気な声が聞こえ、沙絵莉はドアに振り向いた。

「お母さん、おはよう」

「まだゆっくり寝てると思ったのに、早いじゃない」

「それが、友達と約束が出来ちゃって…」

「なんだそうなの。今日は夕方までいると思ったのに…」

つまらなそうな顔の母をみて、じんわりした嬉しさを感じながら、沙絵莉は「また、来るから」と答えた。

そんな会話をしている間に、陽奈が母の足にしがみつき、沙絵莉から隠れるように後ろに回った。

「陽奈ちゃん、どうかしたの?」

「なんでもないのよ。ね、陽奈ちゃん」

「う、うん」

どうもなんでもないという感じではないし…なんだか秘密めいたやりとりだ。

首を傾げていると、母がなにやら目配せしてきた。

「さあて、それじゃ、朝食の支度しなきゃね。お味噌汁の具は何がいいかしらね、陽奈ちゃん?」

「陽奈、玉子のがいい」

「たまねぎと玉子のね?」

「うんっ」

「それじゃ、陽奈ちゃん、玉子割るの手伝ってもらおうかしら」

亜由子の頼みに、陽奈は満面の笑みを浮かべて頷いた。

仲の良いふたりの会話をただ聞いているだけだった沙絵莉は、なんとも物悲しい気分に陥った。

きっと、毎朝こんな風に、陽奈と母は朝の時間を過ごしているのだろう。

仲間外れにされているわけではないのに、この場にいることがいたたまれない。

「あの、私も、何かやることない?」

「いいわよ。一人暮らしで、毎朝自分でやってるんだから、ここにいるときくらいゆっくりしてなさいよ」

優しさからの言葉だと分かるのに、胸がつくんと痛んだ。


彼女の居場所は、やはりこの家には…ない。

そう改めて強く感じたのは朝食の場だった。

この家の主だというのに、沙絵莉の存在があるせいで、俊彦がひどく固くなっているのがはっきりと伝わってくる。

母が沙絵莉と一緒に暮らしたいという気持ちは本心だろう。けど、夫である俊彦のことも把握しているはずだ。

やっぱり、この家には…住めないよね。

母とふたりでの暮らしが懐かしく思い出され、思わず涙ぐみそうになり、沙絵莉はぐっと堪えてご飯を口に入れた。

やれやれ、私ってば、ほんと自己本位…

母が洗濯やら掃除やらやっている間、沙絵莉は陽奈にせがまれて、彼女の気に入りのおもちゃで遊ぶ相手になった。

朝食の片づけを手伝っているときは、陽奈に絵本を読んでやっていた俊彦だが、沙絵莉と陽奈が遊びはじめると、いつの間にやら書斎にひきこもってしまったようだった。





「それじゃ、お母さん」

「ええ。気をつけてね」

「うん」

「沙絵莉お姉ちゃん、また来てねぇ」

「ええ、陽奈ちゃん、またね」

沙絵莉は母と陽奈に手を振り、岡本家を後にした。

考えていたより家を出るのが遅くなってしまったが、まだ充分時間はある。

垣根越しに岡本の家に目を向けた沙絵莉は、くいっと眉を上げた。

洗濯されたシーツ、そしてお布団。どちらも可愛らしい柄でサイズが小さい。

陽奈のものだと考えた沙絵莉は、今朝、陽奈の様子がおかしかったわけに思い至った。

そうか、陽奈ちゃん、おねしょしちゃったんだ。

そう分かった瞬間、痛いほど胸が詰まった。

私がここに住んでいた時、陽奈は頻繁におねしょをしてたんだった。

両親を亡くして、ひとりぼっちになってしまった陽奈。

おねしょをするたびに、泣きそうな顔で申し訳なさそうに俯いていた陽奈が思い浮かび、沙絵莉は息を止めた。

風でひらひらと揺れているシーツがぼやけ、沙絵莉は右手で乱暴に涙を拭った。


陽奈の辛さに比べたら、わたしなんて…

バス停で、なかなかやってこないバスを待ちながら、沙絵莉は自分の情けなさに大きなため息をついた。

陽奈と俊彦のために沙絵莉にできることは、彼らの生活に入り込んで邪魔をしないってことなのではないだろうか?

アークのところには、私の居場所があるんだろうか?

彼は魔法使いの弟子なはずだけど…沙絵莉が住める家はあると言った。
それに、仕事もいくらでもあるって…

いったい彼は、私にどんな仕事を斡旋してくれるつもりだろう?

魔法使いの召使いとか?

召使いをしている自分を想像して、沙絵莉は吹き出した。

バス停で待っている老婦人が振り向いてきて、沙絵莉は「こんにちは」と挨拶しつつ、笑みで誤魔化した。

彼の世界で住むなんて、法外すぎて、やっぱり本気では考えられない。

だいたい私は魔法を使えないんだし、つまり、異端者ってことになるんじゃないだろうか?

それって、かなり肩身が狭いかも…

魔法の使えないひともいるんだろうか?

アークに逢ったら、聞いてみよう

そうだわ。
アークからもらった通信の玉、あれって、私からも彼に話しかけたりできるのかな?

沙絵莉はハッとした。

つ、通信の玉って…私、ちゃんと持ってきたわよね?

慌てふためきながらバッグを開けて探したが、玉は見つからなかった。ポケットの中にもない。

私ってば、もおっ!

どうやら部屋に置いてきてしまったらしい。

ベッドでアークと話して、そのまま寝てしまったのだから、ベッドの中か、ベッドの下…?

お母さんが掃除機をかけたら、吸い込んじゃうかも。
いや、万が一、母が玉を見つけてしまったとしたら、めちゃくちゃまずい。

すでにバスが近づいてきていたが、沙絵莉は岡本家へと飛んで帰った。






   
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