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第二話 魔法使い登場
「窓を開けて、外に出てはいけませんか?」
沙絵莉は治癒者に向き直り、いくぶん懇願するように尋ねた。
窓越しではなく、直接三日月を見たかったし、外気にも触れたかった。
だが、彼女の問いは、治癒者をひどく困らせたようだった。
「私では判断がつきかねます。どちらにしましても、いまはまだ、横になられるのが一番ではないかと」
「横に…ね」
確かにそうなのかもしれない。
アークの世界の癒しの魔法みたいなもので治してもらったのだろうけど、まだ病み上がり。
魔法の治癒がどんなものなのか知らないのに、起きていられるからと素人判断をして無理するのは危険だろう。
また具合が悪くなりでもしたら、沙絵莉のために魔力を使いすぎて倒れたに違いないアークを裏切るようなもの…
ここはおとなしく言うことをきいて、横になるべきだろう。
沙絵莉はもう一度三日月を見つめ、すごすごとベッドに戻って横になった。
あー、なんだか一年分くらいは寝だめしたような気分…
今日は…まだ日曜日…よね?
できれば今夜のうちに帰りたいけど…戻れるだろうか?
物問いたげな視線を治癒者に向けたものの、目をあわせてはくれない。
あらっ、これは?
身につけている服が、彼女のものでないことに、沙絵莉はいまさら気づいた。
淡い水色の服だ。
ドレープがたっぷりとってあって、ひどくドレッシー。
これって、だ、誰の服なんだろう?
もちろん、アークの服なわけはない。
彼には、妹とか姉とかがいるのだろうか?
そういえば、ここはいったいどこなのだ?
やっぱり、病院?
ずいぶんと広い部屋だが、ベッドはこれひとつだけ。
異世界の病院がどんなものだか彼女は知らないし、これがこの世界の病院の普通なのかもしれない。
アークはどこにいるのだろう?
無事回復したらしいけど…ここに入院してるのだろうか?
別の病室で、休んでいるのだろうか?
きっと、そうなのだろう。
早くアークに逢いたい。逢いに行かせてくれないだろうか?
そ、そうだ。
通信の玉。あれで話が出来るはず。
あの玉はどこかしら?
沙絵莉は自分のバッグを探して部屋を見回した。
バッグは持ってきてくれただろうか、向うに置きざりにされたのだろうか?
それに由美香と泰美のことも気にかかる。
いったいどんな風に私はアークに助けられ、向うからこちらに飛んできたのか?
あのふたりは、沙絵莉が階段から落ちたのを目撃してる。
アークは、ふたりにきちんと話を…
沙絵莉は顔をしかめた。
そんなことは望めないだろう。
沙絵莉は大怪我を負っていたのだ、悠長に話などしているわけがない。
これは早いところ自分の世界に戻って、ふたりに連絡して安心させないと…
まさかと思うが、父や母にまで、心配かけてたり…
沙絵莉は急激に焦りが湧いた。
こ、これは、のんびり寝てなどいられない。早く連絡したほうがよさそうだ。
「あ、あの。私のバッグは、この部屋のどこかにあるかしら?」
「…存じませんが」
起き上がろうとした沙絵莉だが、治癒者にソフトに止められた。
「今一度、お身体の具合を診察いたしたく存じますが」
そんなことやってられないのだが…
とはいえ無理やり抗ってベッドからでることもできず焦りが増す。
「その上で、ゼノン様にご報告せねばなりませんので…」
ゼノン様?
「ゼノン様って、どなたなんですか?」
「……」
どうやら、言ってはならないことを口走ってしまったらしい。
相手は驚きすぎて声が出ないようだ。
「いま言った言葉は忘れてください」
驚きっぷりがあまりに異常で、びびった沙絵莉は思わずそう口にしていた。
治癒者は聞かなかったことにしたのか、診察とやらを始めた。
と言っても、身体から十センチほど上に両の手のひらをかざして、頭からつま先までゆっくりと下ろしただけだ。
「すべて良好のようでございます。これ以上の癒しは必要ないと思えます」
やり終えた満足感か、それとも安堵感からか、相手はほっとした笑みを浮かべた。
「ずいぶんお世話をかけたようですみませんでした。治療して下さってありがとうございました」
治療費の値段は気になるが、それは後でアークに聞くとしよう。
そして支払いの方法も相談して…
「では、ゼノン様のところへ行って参りますので」
「は、はい」
ゼノン様が誰か分からない沙絵莉は、曖昧な返事をし、出て行く彼を見送った。
ドアが締まりひとりになった沙絵莉はもじもじした。
見知らぬ静まり返った部屋にひとりでいるのは、やたら落ち着かない。
沙絵莉は起き上がり、部屋を見回した。
どうしよう?
もう癒しは必要ないとかって言われたし、ベッドから出てもいいんじゃないだろうか?
それでバッグがないかどうか探して、通信の玉でアークに連絡…
トントンとノックの音がし、沙絵莉は驚いてドアに顔を向けた。
さっきのひと、もう、ゼノンとかいうひとを呼んできたのだろうか?
ベッドに横になるべきか迷いながら、焦っていた沙絵莉は「はい」と返事をしてしまった。
「失礼いたします」
入ってきた人を目にし、沙絵莉は目を見張った。
息を呑むほど美しい女性だ。
こんな妖艶な美女はこれまで見たことがない。
さっきの治癒者もハンサムな人だったが…
アーク自身も、この美女に負けない容姿だし…
この世界って、美男美女がわんさかいるのだろうか?
アークってば…なにを好きこのんで、私をこの世界に連れてきたがるのだろうか?
こんな美女が身近にいる世界に住んでいるというのに…
からかわれたのだろうか?
それともアークは、美女が好みじゃないとか?
沙絵莉は、そう考えた自分にむっとして顔をしかめた。
わ、私だって…それほど悪くはないと思うけど…
だが、この人の前では、一ミクロンの自信すら消滅する。
「沙絵莉様、ご気分はいかがですか? 治癒者はもう大丈夫だろうと言っておりましたが…」
顔にはちょっと不似合いな、低く張りのある声だった。
「は、はい。もういいみたいです。あの…アークはどこに? あの、わ、私、帰らなくちゃならないんで…家に」
ぼそぼそと言う沙絵莉を見つめていた美女は、微かに眉をひそめた。さらにぐっと色香が増し、あたりに芳香が振り撒かれた気がした。
「アーク様は、いま湯殿に入られたばかりなのです」
ゆ、湯殿?
それって、つまり、お風呂に入ってるってことよね?
まだ具合が良くなくて、病室で寝てるのだろうと、気を揉んでいたってのに…アークってば、お、お風呂ぉ?
それも、いまはいったばかりだって、このひと言ったわよね?
表情には出さなかったが、胸がムカムカしてならなかった。
お風呂に入れるほど具合がいいんだったら、入る前にちょこっと私のところに顔を出してくれたって良さそうなものなのに…
「呼びに行ってもよいのですが…わざわざ行かなくとも、すぐにおいでになりますよ」
そう口にした美女は含みのある笑みを浮かべ、沙絵莉はどきりとした。
こ、このひと、いったいアークのなんなの?
もしや妹?
期待を込めてそう考えたが、どうみても妹には見えなかった。
この場にいるのが耐えられない気分になり、沙絵莉は顔を強張らせて俯いた。
俯いてしまったサエリを、ジェライドはそれとなく見つめた。
艶やかな黒に近い栗色の髪が、寝乱れて幾筋か首もとや頬にかかっている。
とても美しい目、そして口許の好ましい愛らしさ…
ジェライドは、少々礼儀に反すると承知しつつ、彼女の内面に意識を向けた。
駄目だ。やはりわからない。
いったい、なぜ?
シールドで遮られているのではない。だが、見透かせない何かが存在してるとしか…?
眉をひそめてサエリを見つめていたジェライドは、彼女がもじもじと身を動かし、我に返った。
彼はこほんと咳払いし、気を取り直した。
サエリ様の内面をまったく窺えないのは、ほかの先輩大賢者らも同じのようだし…気にしてばかりいても仕方がない。
「ご挨拶が遅れましたが、私はジェライドと申す者です。サエリ様、以後、お見知り置きを…」
「はい」
短い返事をしたきり、また俯く。
彼と話したくないのか、もともと無口な娘なのだろうか?
「ゼノンだが、入ってもいいかね?」
ドアを叩く音とともにゼノンの声がし、ジェライドはほっとしつつ、ゼノンを迎えるためにドアに歩み寄った。
「サエリ?」
ゼノンが再び呼びかける。
ジェライドは、ゼノンの呼びかけに答えようとしないサエリにさっと目を向けた。
サエリは、ジェライドを見つめ、それからドアに目を向け、慌てたように「はい」と返事をした。
どうやらサエリは、ジェライドがゼノンに答えるものと思ったようだ。
ドアが開き、ジェライドは片膝をつくようにして、入ってくるゼノンに「ゼノン様」と声をかけながら頭を下げて迎えた。
入ってきたゼノンはサエリに歩み寄ってゆく。
サリス様はご一緒ではないようだ。
ジェライドはすっと立ち上がり、ゼノンの一歩後ろに立ち、サエリに目を向けた。
「ようやく目覚められたか。気分はどうかな、サエリ?」
沙絵莉は目を見張った。
今度は立派な体格をした紳士の登場だ。
なんだか無闇に気圧されてしまいそうな雰囲気を持った人で、胃が引きつりそうだった。
呆気にとられたのは、妖艶な美女が紳士の登場にさっと片膝をついて迎えたこと。
いったい、この紳士は誰なのか?
ゼノンというお名前らしいけど…この病院の院長とか?
沙絵莉のことを治してくれたのは、ここにいた治癒者のひとの父だとかって話だったが…
この紳士は、治癒者の父親ではないのよね?
このひとを呼びに行った治癒者の彼は、戻ってこなかったようだ。
「はい。いいみたいです」
「そうか。よかった」
「あ、あの、あなたは…もしかして魔法使いですか?」
アークのお師匠様しか思い浮かばず、沙絵莉はそう尋ねたが、相手の反応に、馬鹿なことを言ったらしいと悟った。
一歩後ろに下がっている美女も、笑いを堪えているようだ。
笑い者になったことに、沙絵莉の顔は真っ赤に染まった。
おかしそうな笑みを浮かべた紳士は、彼女を楽しげに見つめ、返事をした。
「魔法使いという言葉では呼ばれないが…」
「ご、ごめんなさい。アークが弟子をしている人かと…そう思ったものですから…」
「弟子? アークがそう言ったのかな?」
「はい。仕事を尋ねたら、弟子をしているって…」
そういえば、もう一つ何か言っていたが…覚えていない。
「そうだな。あやつは、私の弟子なのだろう」
ということは、やっぱり、このひとがアークのお師匠様ってこと?
「サリスが何か飲み物を持ってくるはずだ。治癒者の指示を聞いておったが、もうすぐ来るだろう。…ところでアークは?」
いまになっていないことに気づいたとでもいように、ゼノンという紳士はジェライドという美女に尋ねる。
「いま湯殿に…もしかしたら、眠っておいでかも知れません」
眠ってるって、お風呂でってこと?
「そうか。ジェライド、様子を見てきてくれぬか?」
「はい。すぐに」
沙絵莉は、嫌な気分に囚われた。なんとも苦いものが込み上げてくる。
アークはお風呂に入ってて…いま、寝ているかもしれなくて…
その様子を見に行くってことは…?
だって、いま彼は、裸のはずなのに…
この女性は、アークのなんなのだ?
優雅な足取りで部屋を出て行く美女を見送る沙絵莉の胸は、痛いほど疼いた。
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