白銀の風 アーク

第十章

                     
第三話 これからの困難



「お母さん」

「う……ん」

サエリが繰り返す呼びかけに、少し苦しげにサエリの母は呻いた。

「私よ、沙絵莉。帰ったわ、お母さん」

徐々に大きくなってゆくサエリの声に、目が覚めたらしい。

サエリの母の瞼がヒクヒクと震えるのを見て、アークは緊張を覚え、両手を強く握りしめた。

「お母さん」

サエリの母はビクンと身体を揺らし、目を薄く開けてサエリに顔を向ける。

「お、お母さん…し、心配かけてごめんなさいっ!」

母が何か言う前に、彼女は叫ぶように言い頭を下げた。

サエリの母の目が見開かれた。

「さ、沙絵莉? か、帰ったの?」

驚きに目を丸くしてつっかえながら叫んだサエリの母は、そのまま身を起こした。そして、娘の手を取り、両手でぎゅっと握りしめた。

「ああー、良かった! 良かった、良かった!」

手を上下に激しく振りながら、大声で叫ぶ。

その様は、どれほどの安堵を感じているのかを、アークにダイレクトに伝えてくる。

「お母さん、ほんとにごめんなさい」

サエリも母の安堵を感じたからだろう、萎れた様子ですまなそうに声をかけた。

サエリの母は、握りしめた手を自分の頬に強く押し当て、無言で頷き続ける。

そんなサエリの母の様子は、アークに強い罪の意識を抱かせた。

もちろん、サエリの怪我はアークのせいではないし、この国の治療でサエリの命が救えたかはわからない。

だが、たとえ命を救えていたとしても、完治には至っていないのではないだろうか?

サエリがいま無事でいるのは、アークが自分の国に連れていったから…

罪悪感に捉われる必要はないと思うのに…サエリの母に与えただろう苦痛を思うと…申し訳なさにかられる。

「もおおっ、あんたってば、ほんとに、何があったのよっ!」

娘が戻ってきた事実を噛み締め、心からの安堵したからだろう、サエリの母は一転、怒鳴り始めた。

ほっとした反動で、さんざん心配させられた怒りが突き上げてきたらしい。

「亜由子さん」

トシヒコが母と娘の間に、遠慮がちに割って入った。

「俊彦さん、わかってるわ。ともかく、この子から話を聞かないといけないわよね」

「い、いや、そうじゃなくて…」

トシヒコは、アークをちらちらと見つつ、アユコにもごもごと言う。

「あ…あっ、そ、そう。…あのっ、お母さん、彼は、その…アーク…です」

トシヒコの仕草で、彼のことを母に紹介すべきと気づいたらしいサエリが、焦ったように言う。

紹介を言い終えたサエリは、申し訳なさそうな目を彼に向けてきた。が、そのときすでに、アークはサエリの母と目を合わせていた。

怪訝な目だ。
異国の者から、よく向けられる目。

アークはすっと息を吸い、床に膝をついたまま、礼儀正しく姿勢を正した。

「サエリの母上ですね。初めまして、私はアークと申します」

アークは胸に手を当て、アユコに頭を下げた。





「こ、このひと…は?」

アークの全身に視線を這わせ、困惑したように聞き返す母に、沙絵莉はテンパった。

なんと説明しようか、彼のことをどう話せばいいのか、まるきり思いつけない。

「沙絵莉?」

眉を寄せて説明を催促してきた母に、沙絵莉は真っ白な頭で口を開き、思いつくまま言葉にしはじめた。

「あの。私、大怪我をし…」

い、いや、怪我をしたなんて話を最初にしては、唐突過ぎて、母はなんのことやらだろう。

ま、まずは…え、えーと…

「き、昨日の朝、ここからアパートに戻ったとときにね、ふたりが…、あ、あの由美香と泰美だけど、ふたりが階段の上に…」

布団の上に起き上り、娘のこんがらかった話を聞きながら、寝乱れた寝間着を手早く直していた母は、沙絵莉の膝をパンパンと叩いてきた。

「沙絵莉、ちょっと落ち着いて話しなさい。まったくもって、あんたの話は要領を得ないわ」

「あ…ご、ごめ…」

アークの前で叱られた沙絵莉は、赤くなってうつむいた。

「ともかく、この方はどなたなの?」

彼女の謝罪など聞きもせず、母はアークに目を向けて、沙絵莉に聞いてきた。

「か、彼は…その、私の…つまり、い、命の恩人」

「えっ? 命の…恩人?」

言葉の意味が分からないかのように母は繰り返す。
俊彦のほうも、眉を寄せて沙絵莉とアークを見つめる。

「どういうこと? 貴方、誘拐でもされて、この人が救い出してくれたとでも?」

「ゆ、誘拐なんてされてないし。私、階段から後ろ向きに落ちて、大怪我をしたの。背骨のところがバギッって嫌な音がして…」

あのときのぞっとするような感覚が一瞬蘇り、沙絵莉は身を震わせた。

「怪我? どこに? 元気そうにしか見えない…けど…」

「治して…」

そこまで口にして、沙絵莉はくちごもった。

魔法の力で治療してもらったなんて…それも魔法の国でだなんて…口にしても信じてもらえそうにない。

「沙絵莉? 貴方、大丈夫なの?」

不安な色を瞳に浮かべ、母は急くように聞いてくる。

想像したとおりの反応に、沙絵莉はどうしていいかわからなくなり、顔をしかめた。

母にすれば、すでに治ってしまった怪我など、口でいくら言っても、本当とは思わないだろう。

「で、でもね。階段から落ちたの。由美香と泰美が階段の上にいて、私、ふたりに気づかなくて、勢いよく階段を上がって行っちゃって、ふたりにぶつかって落ちちゃったの」

「あんたね、どうしてすぐばれるような嘘をつくの? ふたりは、あんたのとこに行ったけど留守で、あんたのバッグが階段の下の道に落ちてたって言ってたわよ」

そ、そうっだった。アークは、彼女たちの記憶を消しちゃったとかってことだった。

「それは…アーク…」

沙絵莉は慌てて口を閉じた。

いや、駄目だ。
アークが記憶を消したなんて言っても意味がない。

いや、もっと不味い流れになりそうだ。

ど、どうしよう? どう説明すれば…

「ちょっと、沙絵莉?」

眉をひそめて非難するように呼びかけてきた母を、沙絵莉は途方に暮れて見つめた。

「サエリ、どうしたんだい?」

沙絵莉は、アークの呼びかけに顔を向けた。

「私の国のことを内密にすることはない。君の家族には、すべてを話しても構わないんだぞ」

アークの勘違い発言に、沙絵莉は顔をしかめて彼を見つめた。

「沙絵莉、この方、どこの国のひとなの?」

「あ、うん。彼はその…」

「私はカーリアン国の者です。我が国のことを、聞き及びではないと思われますが」

「カーリアン国?」

そう問い返すように言ったのは俊彦だった。

「はい。カーリアン国の首都シャラドに住んでおります」

俊彦に向けて真面目に語るアークに、沙絵莉は頭が痛くなってきた。

「き、聞いたことが、ないんだが…」

「私もよ。そんな国、聞いたことないわ」

「ええ。この国からは遥か遠方にあるのです」

いやいや、遠方どころじゃないし。

「もしや、中東とかに…あったのかな?」

首を傾げて、自信なさそうに俊彦が呟く。

「沙絵莉」

掴まれていた手を、ぎゅっと握って呼びかけられ、沙絵莉は母に目を戻した。

「う、うん」

「どういうことなのよっ?」

手を激しく振りながら、強い口調で言う母に、沙絵莉は頭を抱えたくなった。

「つまり…」

もうこうなったら、アークが異世界のひとだと伝えるより、仕方がないようだ。

それを言わねば、真実は何ひとつ伝えられない。

「アーク、貴方が魔法の国のひとだって、伝えちゃってもいいのよね?」

「ああ、もちろん構わないとも。もしや、君はそのことを口にしていいのかと、躊躇していたのか?」

そういうことではなかったのだが。

「一応、了解を得ないとと思って」

「沙絵莉。ちょっと待ちなさい。貴方、いまさっき、なんか、おかしなこと、言ったわね?」

「えっ? な、なにが?」

「いまさっきよ。ほら、このひとが…な、なんか…魔法の国のとかって…」

沙絵莉は覚悟を決めて、母に向き直った。

口にする前に、ごくりと唾を飲み込む。

「つ、つまり。そうなの。彼は、その…魔法の世界のひとでね。私の怪我を…」

「は? ちょっと、あんた、いい加減にしなさいよっ!」

凄まじい剣幕で怒鳴られ、ぎょっとした沙絵莉は思わず後ずさった。

「なーにを血迷ってるの? 魔法って何? だいたい怪我なんて、どこにもしてないじゃないの」

「だから、治してくれたの。アークが彼の癒しの技で。治癒者さんとかも。すごくお世話に」

母がこれ以上は開かないと言うほど見開いた目を向けて来るのを見て、沙絵莉は頬をひくつかせた。

信じてもらえてないどころか、強烈な不安が瞳に浮かんでいる。

沙絵莉自身だって、自分の世界に戻ってきて、こうして岡本の家にいる現状では、口にしている話が現実離れしているように聞こえる。

けど、アークはここにいる。

「と、俊彦さん。どうしたらいいの? さ、沙絵莉が、沙絵莉が…お、おかしくなっちゃってるわ」

突然悲鳴のような叫びを上げ、亜由子は俊彦にすがりついた。

「亜由子さん、お、落ち着いて」

俊彦は亜由子を抱きしめ、なだめるように背中をさする。

「お、お母さん」

今度は沙絵莉が、動揺を見せて母に呼びかけた。

母は俊彦から勢いよく身を離し、沙絵莉に抱きついてきた。

「ど、どうしたのよ。しっかりして沙絵莉。こ、このひとに、いったい何されたの?」

「お母さん、違うってば。彼は命の恩人なの。助けてもらったのよ」

「あんた、だまされてんのよ! 魔法なんて馬鹿なこと口にしてっ! しっかりしなさい!」

「違うってば!」

物凄い力で母に抱きしめられた沙絵莉は、わかってもらえないことがもどかしくてならなかった。

「アーク、ごめんなさい」

「沙絵莉、正気になってちょうだい」

「もおっ。お母さん、私は正気よ。ちゃんと説明するから落ち着いて聞いてよ。お願いだから」

頼み込むように言うが、母のほうこそ正気をなくしているようで、とても落ち着いて話を聞いてくれるような状態ではない。

「俊彦さん、警察を呼んで、早くっ!」

訳が分からなくなったのか、母がとんでもないことを叫びはじめ、沙絵莉は慌てた。

「だ、駄目よ!」

状況は悪くなるばかりだ。

「アーク」

困った沙絵莉は、母を押さえつけながら、彼に泣きついた。

「お願い、どうにかできない?」

この場で一番落ち着いた様子のアークは、沙絵莉に頷いて見せると、すっと手を上げて、亜由子に向けた。

母の全身から力が抜け、その場にくずおれる。

「亜、亜由子さん!」

驚いた俊彦が、亜由子を抱えようと手を伸ばしてきた。

「い、いったい? …君、彼女に何をした!」

今度は俊彦が、怒りとともに怒鳴りつけてきた。

「癒しの技を。興奮されていたので、意識を静めました。急激な変化に、意識を失ってしまわれただけですから、すぐに意識は戻ります」

アークの説明に俊彦はどう対応すればいいかわからないようだった。

「サエリ、すまない。君はこうなることを懸念していたのだな。私は、姿を消しておくべきとの君の意見に従うべきだった」

後悔してうなだれるアークに向けて、沙絵莉は首を横に振った。

「アーク、そんなことはないわ」

「サエリ?」

「貴方が後から姿を見せたとしても、母は同じ反応をしてるわ。貴方が異世界のひとだってこと、信じてもらうのは難しいと思ってたから…貴方が気にすることないの」

「さ、沙絵莉ちゃん」

俊彦の困惑した呼びかけに、沙絵莉は振り返った。

俊彦は母よりも冷静さを保っている。

「アーク、まずは俊彦おじ様に信じてもらいましょう」

頷くアークに頷きを返し、沙絵莉は俊彦に顔を向けた。

だが…

俊彦の顔には、得体のしれないものを目にしたときの、計り知れない恐怖が張り付いていた。

沙絵莉は、これからの困難を強烈に感じざるを得なかった。






   
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