白銀の風 アーク

第十二章

                     
第八話 引き戻された理由



「サエリ」

そっと呼びかける声に、沙絵莉は目を覚ました。

アークが沙絵莉の顔を覗き込んでいる。

「おはよう、アーク」

寝顔を覗き込まれていたことに、沙絵莉は照れつつ答えた。

「ああ、おはよう」

やさしく返事を返すアークだが、何やら気難しい顔をしている。

それが気になったが、沙絵莉はほっとして笑みを浮かべてしまう。

ここはわたしの部屋だ。

「よかった。寝ている間に、あなたの世界に飛んでなくて」

冗談めかして言うと、アークの顔が、今度は険しくなる。

「あの……どうかしたの? もしかして、お父様と話して、何か困ったことにでもなったの?」

心配しつつ問うと、アークは「いや」と首を振る。

「父とは……まあ、色々話したんだが……実は、ジェライドが戻ってしまった」

「はい?」

戻ってしまったって……

「ええっ!」

そ、それって、アークの世界に戻っちゃったってことよね?

「ど、どうして? ジェライドさん、自分で戻っちゃったの?」

「いや、それはない。ジェライドには無理だ。彼は……引き戻されたんだろう」

「引き戻された?」

その事実を受け止め、沙絵莉は血の気が引いた。

ということは……わたしもアークも、いまにも引き戻されてしまうかもしれないということなんじゃないの?

心臓が暴走を始め、極度の不安に襲われた沙絵莉は、アークにしがみついていた。

「ア、アーク!」

「サエリ、落ち着いて」

「で、でも……引き戻されちゃうかも。アーク、それに抵抗できる?」

顔色を変え、沙絵莉はアークに問いただす。

「わからない」

頼りない返事をもらい、沙絵莉は顔を歪めたが、アークは「だが、大丈夫だ!」と力強く言う。

「ほ、ほんとに?」

「引き戻すことはしないだろう。これも警告のひとつなのではないかと思う。引き戻せるのだという事実を、私たちにわからせるため……」

沙絵莉は身を強張らせて頷いた。

「ジェライドさんは、もうこっちには戻ってこないのかしら?」

「いや、戻ってくるだろうと思う。それに……」

ジェライドが戻るという答えにほっとしたが、アークの表情はひどく硬い。

沙絵莉は落ち着かず、「それに?」と急いで聞き返した。

「サエリ、アユコ殿とトシヒコ殿にも、話を聞いてもらったほうがいい。ジェライドが強制的に引き戻されてしまったことを話して、いまの実情をおふたりにも理解してもらったほうがいいだろうと思うんだ」

沙絵莉は同意して頷き、急いでベッドから出た。

「ジェライドさんがいなくなっていること、みんな知っているの?」

沙絵莉は時刻が七時であることを確認し、アークに尋ねた。

アークは首を横に振る。

「いや」

「アーク、外で待ってて。急いで着替えるから」

「わかった」


着替えた沙絵莉は、アークとともに、まず台所に行ってみた。

朝食を用意している音が聞こえてくる。

沙絵莉はドアを開けて「お母さん」と声をかけた。

「はーい。おはよう。早いじゃないの」

「う、うん。あ、あのね」

「なあに?」

味噌汁の匂いがする。その匂いに、胸がツクンと痛んだ。

アークの世界に行ってしまったら、この匂いも嗅げなくなってしまうんだ。

胸が切なく、泣きそうになり、沙絵莉はそんな自分にほとほと呆れた。

この家から出たくて、反対を押し切って独り暮らしをし、その機会を自ら放棄していたくせに……

「サエリ?」

自分に嫌気を感じていた沙絵莉は、アークに呼ばれ、ハッとして彼に顔を向けた。

そ、そうだった。ジェライドさんのことを話さなきゃ……

沙絵莉はアークに頷き、背を向けて調理を続けている母に話しかけた。

「あのね、お母さん」

「なあに? まさか、今日、アークさんの世界に戻ることになったなんて言うんじゃないでしょうね?」

コンロの火を消し、母は身体ごと振り返ってきた。

気丈な声だったが、こちらに向いた母の顔は固く強張っている。

沙絵莉は胸がひどく苦しくなった。

普通に振る舞っているように見えるけれど、母はとても無理をしているのだ。

「今日ということはない。と、答えられます」

母を安心させようとしてか、アークがきっぱりと言う。

亜由子はアークを見つめ、固く頷いた。

「ありがとう。アークさん」

お礼を言われたアークは、戸惑った顔をする。お礼を言われるようなことなど、自分は口にしていないのにと思ったようだ。

「それじゃ、こんな早くに、ふたり揃って、なんの話なの?」

そうか。お母さんにすればそうだよね。

わたしとアークが早朝に揃ってやってきて、話し難そうにしていれば……これはもう、悪い報告に違いないと思って当然だろう。

「実はね、ジェライドさんが向こうの世界に引き戻されちゃったらしいの」

「はいっ?」

亜由子が目を見開く。

「なっ? ど、どうして? ジェラちゃん、まだ朝ご飯も食べていないのに……それに、帰るって、なんの挨拶も……」

動揺している母に沙絵莉は急いで駆け寄り、少しでも落ち着かせようと肩を撫でた。アークも歩み寄り、亜由子の前に立つ。

「ジェライドの意志ではないのです。大賢者のひとりに引き戻されたのだろうと思います」

「どうして?」

「実際に、我々をいつでも引き戻せるのだということを、知らしめるため。ではないかと」

「……」

亜由子は口を半開きにしたまま固まってしまった。

「お母さん」

沙絵莉は慌てて呼びかけた。

「沙絵莉!」

悲痛な叫びを上げて、亜由子は沙絵莉の手を掴む。渾身の力で握り締められ、ひどく痛かった。

「お母さん」

「一緒に行くわ! わたしも一緒に!」

「お、お母さん?」

「あんた一人、行かせられない。心配で心配で、気が狂っちゃうわ!」

母の目から、ボロボロと涙が零れ出る。

「お、お母さん」

「亜由子殿、ジェライドは、必ずこちらに戻ります」

「も、戻る? それ、ほんとなの?」

アークが頷いて見せると、亜由子は少しだけ余裕を取り戻した様だった。

「朝食の前に、戻ってくるかしら?」

「それは……いつとは、私にもわかりませんが……」

「そうなの……」

亜由子はしょんぼりして答える。


そのあと、ジェライド不在のまま、朝食を食べることになった。

陽奈もジェライドがいないことに戸惑い、あまり食欲がないようだ。

「あの……ジェラ君……すぐ戻ってくる?」

陽奈の寂しそうな瞳に胸がきゅんとしてしまい、沙絵莉は思わず微笑んで頷いていた。

「用事を終えたら、すぐ戻るって」

「用事?」

沙絵莉の言葉に反応したのは、亜由子だった。

「あんな小さな子に、どんな用事をさせようっていうのよ。まったく、アークさんの世界は理解できないわ。幼児虐待よ」

いやいや、母よ。そうではないから……と、心の中で突っ込んでしまう。

ジェライドさんは、幼児ではない。

「ヨージガッタイ?」

幼児虐待の意味が理解できなかったらしい陽奈が、眉をひそめて聞き返してきた。

「うん、陽奈ちゃんにはその言葉、まだちょっと難しいわね」

難しいのどうのの話じゃないと思うが……

「あの、食事中ではありますが、急ぎ、お話したいことがあるのです。いま、話をしてもよろしいでしょうか?」

アークが落ち着かなそうに切り出す。

どうやら、いつ切り出そうかと、思案していた様子だ。

確かに、のほほんと朝食を食べている場合じゃなかったかもしれない。

「話って……ジェラちゃんのこと? それとも、あなたたちが向こうの世界に……行く話?」

「いえ。昨夜、父と話をしたのですが?」

「えっ? まあっ、向こうと連絡を取れるの?」

「取れるだろうね。ほら、亜由子さん、例の玉」

俊彦が、思い出させるように言う。

「あ、ああ……そうだったわ。あの玉で話せるんだったわね。で、ああいう玉で、あなたのお父さんと話したわけ?」

「はい。父の申すには、大賢者たちは、私たちが戻るのを、いつまでも大人しく待つようなことはないだろうと言うのです」

「大賢者? よくわかんないけど……」

顔をしかめて呟いた母は、「それで?」と話の続きを催促する。

「私は、強制的に引き戻されるような事態だけは避けたいと思っています」

「それはそうよ」

母が頷き、話を続ける。

「あなたたちが、挨拶もせずに急に消えたら……ショックでおかしくなりそうだわ。きちんと別れの……き、きちんと挨拶して、行ってちょうだい!」

母は最後、怒ったよう叫んだ。

先ほどは、興奮した挙句、一緒について行くと言い出した母だが、さすがに冷静に戻り、それはできないと思ったのだろう。

けど、わたし……あのお母さんの言葉が、すごく嬉しかった。

お母さんがついてきてくれたら、どんなに嬉しいだろうって、思ってしまった。

母も一緒に、アークの世界で暮らす……もちろん、それは叶えられない夢だ。

母には、夫である俊彦と、娘である陽奈がいる。

「それで、婚約の儀を、こちらで執り行いたいと思っているんですが」

「婚約の儀?」

沙絵莉と亜由子、俊彦の三人で声を揃えてしまう。

婚約の儀をこっちでやるの?

「アーク、ほ、ほんとに?」

慌てて問うと、アークが真剣な表情で頷く。

沙絵莉は戸惑ったものの、アークと婚約するという事実を受け止めた途端、顔に熱が集まってきた。

アークと結婚するという意志は固めたけど……まだまだ現実として認識が薄いみたいだ。

「はい。それで……あの、厚かましいことだとは思うのですが……」

「え、ええ」

動揺の中にいたらしい母が、話を促がす。

「……実は、私の母も……婚約の儀に参加したいと言うのです」

「はい?」

「えっ!」

母の叫びに、沙絵莉も合せて叫んでしまう。

婚約の儀にアークの母であるサリスが参加する?

「そ、それって……? あ、あれよね」

参加するということは……?

なかなか把握できず、ごくりと唾を呑み込む。

「まあっ、あなたのお母さんが、こっちに来るっていうの?」

「はい。母はどうしても参加すると……こちらの御迷惑になることは、母もわかっているのでしょうが……どうしても婚約の儀に参加したいようで……申し訳ありません」

アークは、すまなそうに頭を下げる。

「ほんとに、いらっしゃるの? あの、お、お父様は?」

「父は立場上こられない。だが、とても残念がっていた。できるものなら来たかったようだ」

「まあっ!」

話を聞いていた亜由子が、ようやく事態を把握したようで、大声で叫ぶ。さらに、「まあまあまあ」と繰り返す。

「やはり、ご迷惑でしょうか?」

「そうじゃないわよ。嬉しいのよ! 嬉しいに決まってるでしょ!」

叫んだ母は、勢いよく立ち上がった。

「お母様がいらっしゃるなんて……。それで、いつ?」

「いえ、まだいつとは……婚約の儀を執り行う準備が整い次第でしょうか」

「準備? いったいどんな準備をしなきゃならないの? こっちだと、婚約パーティーとかってのなら、やるひともいるんだろうけど……」

「私も、どのようなことをやるのか詳細は知らないのです。指輪の交換をすることは知っていますが」

「それだったら、指輪がいるじゃないの。早く買ってこないと」

「いえ、指輪はあるのです」

「あるって、どこにあるの?」

亜由子が問う。

「ジェライドが……あっ」

アークは、急に何か思いついたように叫ぶ。

「アーク、どうしたの?」

「ジェライドが引き戻された理由に思い至った」

「そうなの? あの、どうして?」

「……指輪だ」

痛そうに呟いたアークは、疲れを帯びた表情になり、肩を落としたのだった。






   
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