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第三話 あり得ない事態
目を覚ましたアークは、重い瞼を無理やりに開けた。
昨夜は、サエリの様子が気にかかってならず、かなり遅くまで彼女を見守っていたため、まだ眠くてならないのだが…
横になったまま首を回し、アークは反対側の壁際に置かれているベッドを見つめた。
えっ?
アークは眉をひそめた。
サエリのベッドは空だった。見回しても、彼女の姿はこの部屋にない。
ぎょっとして起き上がったアークは、窓に目を向けてみた。
夜が明けたばかりのようだ。
サエリは、顔でも洗っているのではないだろうか?
片足をベッドの下におろし、洗面所に行って確認しようとしたアークは、動きを止めた。
きっと風呂だな。
この部屋のドアは、眠りに着く前、念のため封じておいた。
目覚めた彼女が行ける場所は、洗面所と風呂場しかない。
女性というのは、風呂を好む。
きっとサエリは、アークが眠っているのを見て、風呂に入ろうと思い立ったに違いない。
ほっと安堵し、大きなあくびをしたアークは、またベッドに横になった。そして、瞼の重みに負けて目を閉じた。
どのくらいで、風呂から上がるだろうか?
すぐに上がってくるかな…
ただ目を閉じているだけのはずが、アークはそのまま寝息を立てていた。
ベッドに横になったまま、沙絵莉は周囲の状況を眺めていた。
この治療所、驚くことに続々と怪我人がやってくるのだ。
打ち身とか、捻挫みたいな症状のひとが多いようだが、なかには火傷をしている人もいる。
いったいなんで、火傷などしてしまうのか、不思議でならない。
ベッドがいっぱいになったのを見て、彼女は自分に割り当てられたベッドから出ることにした。
治療の効果か、ありがたいことに、立ち上がっても大丈夫のようだ。
気分も悪くならないし、ふらつくこともない。
沙絵莉はほっとしつつ、彼女を診てくれた治療師と介護してくれた看護師らしき女性を探した。
ふたりとも、どんどんやってくる患者相手で、ひどく忙しいようだ。
沙絵莉がこの治療所にやってきたときは、ここもまだ開いたばかりだったわけで、いまこの広い治療所には、何人もの治療師と看護師がいる。
そのせいだろう、沙絵莉がベッドから出ても誰も彼女に注意を払わなかった。
どの治療師も、顔をしかめて患者の患部に手を当てている。
その様子は、まるで全力で祈りを捧げているかのようだ。
彼女を診てくれた治療師に、一言お礼を言いたかったが、あんなに忙しそうなのでは、声をかけたりしたら、かえって迷惑になりそうだ。
またお礼にくればいいだろう。でも、そのためには、この場所を覚えておかないと…
沙絵莉はドアの外に出て、まず辺りを窺った。
右に左に廊下が伸びている。
どちらに行けば出口なのだろうか?
戸惑った彼女は、なかなか行く方向が決められず、そのまま突っ立っていた。
廊下の右側から誰かがやって来る。
また負傷した人がやってきたらしい。
怪我人は、肩を支えてもらいながら歩いてくるところをみると、どうやら右足を怪我しているようだった。
それにしても、こうも怪我人が出るとは…ここはいったいどういうところなのだろう?
戦いでもしてたりして…
そう考えた沙絵莉は、ぴんときた。
もしや、格闘技場とかあったり?
ロールプレイングゲームなんかだと、娯楽の闘技場とかあったりするし…
異世界なら、そういうのがあってもおかしくないんじゃ…
ふたりがすぐ近くまでやってきたのをみて、沙絵莉は治療所に入るだろうふたりの邪魔にならないように、ドアの前から急いでどいた。
わあっ、このひとの髪…
沙絵莉の目は、女性の見事な髪の色にひきつけられた。
ものすごくきれいな、青い髪。
沙絵莉は思わず憧れの目で見つめた。
「すみません。パウエイ殿。私が身の程知らずに無謀なことをしたばかりに」
「大丈夫よ。これくらいなんともないわ」
「ですが。私をかばって…」
「かばうのは当然でしょう。私はあなたの師なのよ。すぐさま状況に合わせて、迅速に処理すれば良かったのに、それができなかった。私の手落ちよ」
「はあ」
「単なる打撲。すぐに治るわ」
明るく言ったものの、パウエイの心には影が差していた。
迅速に処理できなかったのは、自分の心に乱れがあったからだと彼女にはわかっていた。
今朝、あんな話を聞かなければ、こんな失態は防げたのに…
ギル殿には婚儀の話が出ているようだと、輪を組んだ聖騎士達が話していたのを、通りすがりに聞いてしまったのだ。
いまの彼女は、ギルという名が耳に入ると、無意識に聞き耳を立ててしまう。
今になってみると、アーク様に憧れていたころが一番良かったと、パウエイは思う。
本当の恋というものは、人の心を乱すばかりでろくなものじゃない。
治療所のドアの側に、見たことのない女性が立っていた。
いったい何者なのか、どこの出身なのか、服のデザインがずいぶんと個性的だ。
ここは修練場だ。剣士が剣技を磨くためにある場所。
剣士以外の者…こんな一般の女性がいるのは珍しい。
それにしても、可憐な美女というに相応しい容貌だ。
華奢な肩の線、小柄な身体を、パウエイは羨望の眼差しで見つめた。
痛々しげで思わずかばってやりたくなる女。そういう女を男は好むのだ。
筋肉質で大柄な自分とは大違いだ。
その娘のほうは、どうやらパウエイの髪に見惚れているようだった。
彼女は哀しい笑みを浮かべた。
私の取り柄はこれだけ…
ギル殿が目をかけてくれるのはこの髪だけ…
パウエイは自嘲して唇を噛み締めた。
「パウエイ殿、さあ、中へ」
「ええ、ゲライ、ありがとう」
ざわざわとした室内に入ると、パウエイの脳裏から娘のことは消えた。
ありがたいことに空のベッドがひとつだけある。
ゲライの助けを借りて、そのベッドに腰かけたパウエイは、痛めた足をそっとさすった。
剣の放つ衝撃波を、まともに食らったのだ。
打ち身になっているんだろう。
ズボンの裾を捲ってみると、案の定、大きな赤い痣になっていた。
痛くないとはいえないが、パウエイは、眉を寄せて心配そうに痣を見つめているゲライを見上げ、微笑んでみせた。
「久しぶりだなパウエイ。治療所の存在を忘れていたわけではないらしいね?」
近づいてきて、開口一番冗談で笑わせてくれたのは、顔馴染みの治療師だった。
「ええ、久方ぶりに思い出して、ちょっと寄ってみようと思ったのよ」
冗談にやり返したパウエイは、治療師と声を合わせて笑いあった。
心もちゲライの頬も緩んだようだ。
「あれっ、…このベッド」
どうしたのか、治療師は周りをきょろきょろと見回し始めた。
「このベッドが、どうかしたの?」
「いや…娘が…おかしいな」
「娘?」
「ああ、ギル殿が連れてきて…治療を頼まれた女性だったんだが…後で様子を見に来ると言っておられたのに…参ったな」
治療師は、困ったように呟く。
ギルの名に、パウエイは無意識に息を止めていた。
娘というのは…もしや…さきほどの?
「ここに入るとき、それらしき女性が外にいたけど…」
「本当かい? 君、まだ近くにいるに違いない。ちょっと外に探しにいってくれ。あのまま出て行ったのでは、また倒れるかもしれん」
「わかりました」
治療師に命じられた助手は、急いで部屋から出て行った。
治療師は、すぐにパウエイの手当てを始めてくれたが、彼女はちっとも落ち着かなかった。
ドアの外にいた娘の顔がパウエイを悩ます。
ギル殿の相手とは、もしかしてあの娘なのでは…
再び目を開けたアークは、すっきりとした目覚めを感じ、ベッドに起き上がった。
ええと…?
どうやら、うっかりまた寝てしまったようだな。
眉を寄せ、サエリのベッドに目を向けたが、やはり空っぽだ。
なんだ、そんなに寝ていないらしい。
そう思ったが、窓の方を見ると、確実に時間が経過しているとしか思えない明るさだ。
アークは飛び降りるようにベッドから出て、洗面所に繋がっているドアの前に立った。
「サエリ!」
大きな声で呼びかけるものの、返事はない。
アークはドアを開け、中を窺った。
洗面所にはいない。とすると風呂でしかない。
彼女は入浴中に倒れたのだ。
アークはそのまま浴室に駆け込んだ。
「サエリっ!」
広い浴室のどこにも姿は見えず、ぞっとしたアークは、一瞬足が竦んだ。
湯船に沈んでいるのだ。
彼は何も考えず、即座に湯船に飛び込んだ。
「サエリ! サエリ!」
呼びかけながら、湯船の中を探し回ったがサエリの姿などなかった。
目の前の現実に、アークは茫然とした。
サエリが…消えた?
あ、あり得ない。
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