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3 元気を注入
ああ、よかった。
安井さん、わたしの付き合っている相手がフカミッチーだってことに気づいてないみたいだ。
安井から相手はいったい誰なのかと問われて、思わず道隆のことを見上げてしまったから、これはもうバレたと青くなったのだが。
フカミッチーは、会社のひとたちには内緒にしておきたいみたいだものね。
仕事相手である澪と付き合っていることを知られたら、やはり立場的に困るんだろうと思う。
そうでないのなら、道隆は安井に話しているはずだ。
それにしても、安井さんてば、フカミッチーのこと部外者って……
思い出して小さく笑ってしまう。
深沢さんですよって言いたいけど、ここは我慢だな。
「お相手のひとは、わたしのヒーローなんです」
安井に向けて言ったが、道隆にも聞かれているわけで、頬がじんわり染まる。
「ヒーロー?」
戸惑ったように安井さんは言葉にする。
「そうなんです。わたしのピンチに颯爽と現れて、窮地から救ってくれたんです」
「そ、そうなんだ」
安井さんは面食らった様子ながらそう言うと、しょぼんと肩を落とした。
そんな姿を見ると、どうにも申し訳ない気持ちになる。
安井さんには、この仕事をさせてもらうようになってから、ほんとよくしてもらったのに……ランチを食べながら仕事の相談にも乗ってもらって……
「そうか……婚約したんだ」
床に向かって呟くと、安井は澪に小さく頭を下げ、それから道隆に向かって「仕事戻ります」と告げ、その場からいなくなった。
ふたりきりになり、道隆を見上げる。
すると道隆も澪を見つめてきて、何も言わないまま打ち合わせの部屋のドアを開けると、中に入るように促してきた。
部屋に入ると、道隆は澪に椅子を勧め、自分も腰かけた。
澪が椅子に座ると、「では、打ち合わせをしましょう」と、すぐに仕事に入った。
今の出来事について、この場で語るのはやめておこうってことみたいだ。
澪もその方がよかった。ここは会社だし、プライベートの話は帰ってからでもゆっくりできる。
だが、仕事の話を真剣にしつつも、頭の中で安井に告げた言葉がチラチラする。
ヒーローだって言っちゃって、フカミッチーどう思ったんだろう?
けど、事実だものね。
フカミッチーが救ってくれなかったら、とんでもなく怖いことになっていたかもしれないのだ。
まあ、知らない部屋で目覚めて、隣に男の人が寝てたのには、仰天動転だったけど。
それがフカミッチーで、ほんとにほんとによかったよ。
「水木さん、聞いてますか?」
安堵の気持ち満タンでいたら、道隆に呼び掛けられ、澪はハッとして彼に目を向けた。
「す、すみません。き、聞いてませんでした」
顔を真っ赤にして謝る。
もおっ、わたしってば大失態だ。
仕事中なのに、ほかのこと考えて、話ちゃんと聞けてないとか……
肩身が狭く、身を縮こめていたら、くすくす笑う声が聞こえる。
急いで顔を上げると、道隆はそれはもう楽しそうに笑っていた。
「フカミ……ふ、深沢さん」
つい咎めるように呼びかけてしまう。
「ごめん。さあ、仕事の話に戻ろう」
「は、はい。今度はぼおっとしてないで、ちゃんと聞きます」
誓うように告げ、澪は仕事に集中した。
「それでは、よろしく」
打ち合わせが終わり、いつものように仕事に必要な紙袋を手渡しながら道隆が言う。
澪は、「はい」といくぶん畏まって答えて、それを受け取った。
道隆に見送られて、先に部屋を出る。
いつも思うことだけど、打ち合わせの時の道隆と、家で一緒に過ごしているフカミッチーは別人みたいだ。
だから、打ち合わせの時は、付き合う以前のままでいられるんだと思う。
家に帰った澪は、さっそく仕事に取り掛かることにする。
クリスマスもやってくるし、年末はあれこれ忙しい。年始だって予定がいっぱいだ。お正月には、道隆の実家と澪の実家、両方に顔を出さなきゃならない。
だから、いまのうちに頑張っとかないとね。
明日は、もう羽歌乃おばあちゃん家のパーティーなんだし……
そのことを考えると、どうにも不安が頭をもたげてくるわけで……
うーん、楽しみにも思ってるんだけどなぁ。
顔をしかめて考え込んでいた澪は、ハッと我に返って首を横に振った。
いけないいけない。
意味もなく悩んでいちゃ、時間がもったいないよ。
仕事仕事。
頭を切り替え、本気モードで仕事に取り掛かる。
夢中でやっていたら、ドアをコンコンとたたく音がし、澪はぎょっとして顔を上げた。
し、しまったー!
またやっちゃった。
なんと、すでに八時になってしまっている。
慌てて立ち上がり、椅子を蹴倒した。
ガターンと大きな音をさせてしまったところで、ドアが開けられた。
道隆が顔をのぞかせる。
「そんなに慌てなくていいぞ」
「ご、ごめんなさい。まだ夕食の支度できてなくて……」
情けなさに俯いて唇を噛んだら、歩み寄ってきた道隆に頭を撫でられた。
「外食も悪くないよ」
思いやりいっぱいの言葉に涙ぐみそうになる。
ほんと、道隆優しすぎる。
甘えたくなるけど、それじゃダメだ。
「ううん、大丈夫。フカミッチー、先にお風呂に入って、その間に支度するから」
「無理しなくていいんだぞ。疲れてるだろ?」
心配そうな道隆のまなざしに、疲れなんてすべて吹っ飛ぶ。
「全然!」
元気よく叫んだ澪は、さらに元気を注入するべく、爪先立って道隆の唇にキスをし、弾むようにキッチンへと急いだのだった。
つづく
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