笑顔に誘われて…
第48話 般若も当然



「……あの、ほんとに申し訳ない」

靖章は小声で謝罪してきた。

興奮が収まった真央は、いまは母親の膝に座って絵本を見ている。

「貴方の立場であるなら……当然のことだと私は思いますよ、靖章さん」

吉倉は靖章を見つめ、彼を支持するように共感を込めて言った。そして、早紀から由香へと順に視線を回してきた。

早紀は吉倉と目を合せ、小さく頷いていた。そのことに由香はほっとした。

靖章の言葉を、早紀もまた受け入れられている。

やはり、姉の元上司のひとが、姉夫婦を陥れたということなのだろうか?

これから吉倉は、真実を解明するために、どう動くつもりなのだろう?

元凶らしい洞田というひとに直接会って、話を聞いたりするのだろうか?

姉の中にある不信を拭い去り、ふたりが心に陰りなく再出発できるように、ことを明らかにしてやらなければ……

「それにしても……」

吉倉は感慨深そうに呟くと、早紀と靖章、そして靖章に抱かれている真央を見つめて微笑んだ。

その笑みを目にして、由香まで心が和む。

「こんなにも簡単に、容疑者を突き止められるとは思いませんでしたね。……本当に良かった」

しみじみと口にして、吉倉はふっと息を吐く。

「や、やっぱり……洞田課長が?」

早紀が、確認を取るように吉倉に言う。その言葉を聞いた靖章は、晴れ晴れとした表情になり、満足そうに頷いた。

まるですべてが解決したかのような場の雰囲気は嬉しいものの、由香はちょっと戸惑いを感じた。

この雰囲気に文句が言いたいわけではないけど、まだ洞田というひとが犯人と限定するまでには至っていない。確たる証拠も……

あっ……証拠?

「そうだ、お姉ちゃんに送られてきた写メのことは?」

そうよ、それについても話すべきだわ。

「そうでしたね、そのことも……」

「そ、そうよね」

吉倉の言葉に、早紀が重ねて言った。

嬉しそうな表情は消えてしまい、神経質そうに表情を歪めている。

それを目にして、由香はどきりとした。

わ、わたし……もしかして、言わなくていいことを口にした?

お姉ちゃん、あんなに心を和ませていたのに……

いまさら、写メのことなんて持ち出さなかったほうが……よかったの?

不安が込み上げてきた時、そっと背中に温かいものを感じた。ハッとして吉倉に目をやる。

彼が自分を見つめているのを見て、背中の温かなものは彼の手のひらだとわかった。

吉倉は、由香が不安になっている理由を見透かしているかのように、安心させるように撫でてくる。

そして、その口元にも、穏やかな笑みを浮かべた。何も心配はいらないと、眼差しで伝えてくる。

「わたしってば馬鹿ね。……もうすべて解決した気になっちゃってたわ」

少しイライラしたように早紀が言う。由香はなんとか取り成そうと、姉に話しかけようとしたが、吉倉に止められた。

「早紀、写真って?」

靖章がせっつくように尋ねた。

それから姉は、由香が聞いたと同じ内容を、ぼそぼそと口にした。

自分が浮気したと妻が思い込むことになった決定的な画像が、自分の携帯から届いたのだと聞いた靖章は、あんぐりと口を開けた。

「は? ぼ、僕の携帯から……?」

完璧に面食らっている顔だ。

「それは、どんな画像だったんですか?」

唖然としている靖章に代わり、吉倉が姉に問いかける。

由香は緊張からぎゅっと手を握り締めた。

画像がどんなものだったのか、由香もまだ聞いていない。だが、夫が浮気したと、姉が信じ込むような画像だったのだ。

な、なんか聞くのが恐いかも……

心臓がドキドキと高鳴り、緊張が増す。

靖章と若い女の子がべったりくっついている、浮気していないなどと言い逃れできないような、決定的な写真が頭に浮かんできてしまう。

「寝てたの」

ね、寝て? ま、ま、まさか……ほ、ほんとに……靖章さんが、お、女のひとと?

「ベッドで……ほとんど裸みたいな感じで……靖章が寝てた」

「なっ?」

驚きの叫びを上げた靖章は、そのあと困惑顔で視線をさまよわせる。

「ははあ、靖章さんひとりなんですね? 映っていたのは」

吉倉がそう言い、由香はぽかんとした。

はいっ? ひ、ひとりだけ?

由香は焦って姉に向いた。すると姉は、こくんと頷く。

「そうか。早紀さん、貴女は、浮気相手の女性が送ってきたのだと、見てすぐに決めつけてしまったわけですね?」

確認を取るように言われ、早紀は頬を赤らめた。そして、靖章をちらりと見て俯いた。

「そ、そうみたい」

なんだ、そういうことだったのか。

つまり、写メを送ってきたのは女性とは限らないわけで、この話の流れでゆくと……結局、先ほどの洞田というひとに疑いが……

「で、ですが……僕は、洞田課長と同じ部屋で寝たことなど、一度だってありませんが。あのひととは部署も違うし、出張や慰安旅行などでも同行したことはありません」

靖章が戸惑いながら口にし、靖章には悪いが、由香はちょっと苛立ちを感じてしまった。

そんな正直に言わなくても……という気持ちになる。

犯人は、洞田と言うひとに違いないと思いたいのに……

由香は助けを求めて吉倉を見たが、彼も気難しい顔をしている。

な、なんか……洞田課長犯人説が薄くなってきちゃった?

「残念ですが……洞田課長には無理だと思います」

靖章は無念そうに言う。すると吉倉が、考え込みながら口を開いた。

「写メは貴方の携帯から送られているんですよね。とすると……早紀さん。写メが送られてきた、だいたいの日にちはわかりますか?」

「ひ、日にちまでは……けど五月です。靖章さんが会社のひとたちと旅行に……」

「五月の旅行?」

靖章は携帯を取り出し、慌てて操作し始める。

どうやらメールを確認しているようだ。

すると、靖章が動きを止めた。

「こ……これか?」

ぼそりと呟き、携帯の画面を早紀に見せる。

画面をじっと見つめ、早紀が「こ、これ……」と、掠れた声で口にした。

その瞬間、靖章が大きく息を吸い込み、顔を天井に向けて、疲れたように息を吐いた。

「千藤だ……」

「えっ! せ、千藤さん?」

姉が驚いたように叫ぶ。どうやら姉も知っている人らしい。

「そのひとは、どなたなんですか?」

「部下なんです。僕の。もちろん早紀も知っている」

早紀が「え、ええ」と答える。

眉を寄せて写メを見ていた靖章は、おもむろに電話をかけはじめた。

携帯を耳に当てた靖章は、なかなか相手が出ないのか、苛立たしそうにテーブルを指先でコツコツと叩く。

「ああ、千藤。お前にちょっと聞きたいことがあるんだが。……ああ? デート中? 二時間も三時間も話し続けようってわけじゃない。黙って聞け!」

靖章は声を荒げることなく口にしているが、その言葉には怒りが滲んでいたし、彼の中でふつふつと怒りが膨らんできているのが伝わってくる。

相手はおとなしく話を聞く気になったのか、靖章は話し始めた。

「五月に仲間内で旅行に行ったとき、お前と同じ部屋に泊まったろ?」

「はいっ?」

携帯から、男性の甲高い叫び声が漏れ聞こえた。

突然の電話でそんな話題を向けられ、千藤というひとは戸惑ったようだ。

「靖章さん、できれば私たちも相手の言葉が聞きたい」

潜めた声で吉倉が言った。靖章はちょっと戸惑いつつ頷いた。

すると、吉倉は靖章にぐっと頭を近づけた。それを見て、姉も顔を近づける。
その様子に、由香も慌てて顔を近づけた。

「なんでいまさらそんなこと聞いてくるんですか?」

四人が顔を突き合わせたところで、相手が言った。

その声には不思議そうな響きがこもっていた。

「僕の寝てる写メ……お前が早紀に送ったのか?」

「あ、あんのぉ〜、だから、なんでいまさらその話に? ……ええっ! まさか、いままで話題に上らなかった……とか?」

「千藤、お前、なんだな?」

靖章は重々しい声で確認する。

「そ、そうですけど……いつもクールに決めてる椎名さんの寝姿がすっげぇ乱れてて、つい悪戯心が……それに高知先輩が喜ぶかなって……あの、いまになって知ったなんて……俺、まるっきり意味がわからないんすけどぉ……」

靖章の顔が、見るも恐ろしいほど歪んだ。

その般若のような父の顔を愛娘が見ないよう、早紀は慌てて真央の顔を反対方向に向ける。

「おっ……お前なぁ!!!」

靖章は、すさまじい声で相手を怒鳴りつけた。

……悪戯心とは……な、なんとも言葉がない。

般若になるのも当然だろう。

脱力感に見舞われてしまい、由香は肩を落とした。





   

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