ハッピートラブル happy trouble 続編 |
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第8話 困った現状 「さあ、姫野君、これを早く履きなさい」 玄関先で急かすように言われ、蓬は気後れしながら那義の指示する靴に足をつっこんだ。 いま着ている服によく合う。というか、このデザイン、那義の履いている靴のサイズ違いのようだ。 どうせ柊崎のマンションに入ったら、すぐに脱いでしまうのに……那義はこういうの、とことんこだわりたい派のようだ。 「どうしたんです。早くなさい」 「は、はい」 渋々答える。 いまの自分の姿に、気後れを感じて当たり前じゃないだろうか? わかっていたことだが、いまや蓬は、那義のミニチュア版みたいな姿なわけだし、こうしてくっついていると子分みたいだ。 生地は同じものを使用しているらしく、良く似ているのだけど、細部のデザインが違う。 簡単に言うと、那義のものより派手。落ち着いた感じもないし、凛々しいってのも違う。 なんかなぁ、なんかこう、騙された感が…… 「姫野君、バッジの位置が、それではおかしいですよ」 「えっ、そ、そうですか?」 「姿勢を正して!」 鋭く言われ、思わずピシッと背筋を伸ばしてしまう。 那義はバッジを外し、付け直してくれた。 なんだか、これから小学校の入学式に行く子どもの気分だ。名札のつけ方がおかしいと、母親が付け直してくれているみたいな? ははは…… 渇いた笑いを口元に浮かべていると、すっと那義の目が自分に向き、ぎょっとした蓬は、思わず視線を逸らした。 「まあ、あとは大丈夫のようですね。では、常に姿勢をよくすることだけ気を付けて。……ついていらっしゃい。……返事は」 「はいっ」 那義から、柊崎の部屋に入ったら、何を言われても「はい」と答えろと命令された。 加えて、「はい」で済ませられない質問を受けた場合は、口を開くなと追加命令もいただいた。 いったい、このあと、どうなるんだろう? 「貴女の着替えがあまりに遅いから、予定したよりかなり遅くなってしまった。くずくずせずに、いきますよ」 小言とともに那義から促され、蓬は気後れしながら玄関から出た。そして、那義のあとに続き、柊崎の部屋へと歩いていく。 よ、よかったのかなぁ? 激しく不安だ。 那義がインターフォンを押し、待つこと一分。杏子の声で「はいはい」と弾むような返事があった。 「奥様、那義でございます」 「あら、なんだ、あなただったの? わたしも勘が鈍ったのかしらねぇ……」 そう言って、中途半端なまま通話は切れた。 やってきましたよということだけ伝わればよいらしく、那義は自分で鍵を開けて中に入って行く。 考えれば、自分が仕える主人に、出迎えてもらうなんておかしいかもしれない。 那義が靴をきちんと揃えて脱いであがり、蓬は那義の靴にきっちりと並ぶように気を付けながら上がった。 那義は蓬が自分の後ろについたのを確認すると、颯爽とダイニングに向かう。 蓬は精一杯、彼の歩みに似せてついていったが、軍隊の行進みたいになっている自分が笑えた。 「那義、あなたときたら、ようやく来たの?」 部屋に入った途端、不機嫌そうな杏子の声が飛んできた。 ソファに座っているようだが、大きな那義が目の前に立ちはだかっていて、蓬からは見えない。 柊崎の顔が見たいのは山々だが、横からひょっこり顔を出したりしては、那義の不興を買う。 姿勢を正して、執事補佐……アンダーバトラーとやらに徹しなきゃならないのだ。 それに、この姿を見られるのも、恥ずかしいし…… 「奥様、若は?」 「帰ってすぐ寝室にこもってしまったわ。電話でも話したけど、かなり症状が重くて……。あの会社は最低ね。あの圭さんに対して、色仕掛けで仕事を取ろうなんて……」 い、色仕掛け? 「おや、そのようなことが?」 ふたりの話している内容も気になったが、具合が悪くて臥せっているらしい柊崎のことのほうがもっと気になる。 「あ……」 あの、と呼びかけようとして、蓬はハッとして口を噤んだ。 声を出した瞬間、那義の身体が微かにピクリとし、蓬はサーッと血の気が引いた。 凍結した状態でいたが、那義と杏子の会話は、変わらず続いている。 蓬はハーッと、安堵の息を吐き出した。 どうやら、蓬の声は杏子に届かなかったらしい。 けど、これって、どうなの? やっぱり、あとでお叱りを受ける対象になるよね、やっぱり? 心の中でため息をつく。 そのとき、那義がくるりと身体を回してきた。 なんの前触れもなく、蓬はぎょっとして那義と見つめ合った。 「姫野君」 「は、はいっ」 蓬が返事をした直前、杏子が大きな声で「えっ?」と叫んだ。 「君は、若のところに……」 那義は平然と話を続けているが、杏子がソファから立ち上がった音と、駆け寄ってくる足音が聞こえ、次の瞬間には、杏子は蓬の目の前にいた。 「まあっ」 杏子は目を見開いて仰天している。 「……」 どうもと言いそうになり、蓬はぐっと奥歯を噛み締めた。 『はい』だけ、『はい』だけだから、いまのわたしに許されてるのは『はい』だけなのよ。 蓬、ガンバレ! 自分にエールを送り、杏子に向けて、ぎこちなくお辞儀してみた。 「奥様、紹介が遅れましたが、この者はアンダー・バトラーでございます」 「あらま。そういうこと?」 「は、はい」 ぺこんと、無様なお辞儀をついやってしまい、蓬は那義にギンと睨まれた。 ひ、ひぇ~っ! ビビって背筋を伸ばし、もう一度お辞儀をやり直す。 そのさまがおかしかったらしく、杏子が噴き出した。 「おほほほほ……楽しいじゃないの。相変わらず、楽しませてくれるわねぇ、那義」 「お喜びいただけまして、我々も嬉しゅうございます」 我々って、わたしも入ってるわけか? 「それにしても、良く似合っているわよ、アルプリちゃん」 「は、はい」 「姫野君、返事は『はい』と歯切れよく」 手厳しく指摘され、蓬は顔をひきつらせて、「はい」と答えた。 「那義。あなたときたら……楽しんでいるわね」 「そのようなことは……私はただ、奥様と若に楽しんでいただこうと……」 「はいはい。でも、愉快なことは確かだわ。アルプリちゃん、圭さんのところにいってあげてちょうだい」 「はい」と答えたものの、迷って那義を窺う。 那義はただ頷いただけだった。 どうやら、彼のところに行ってもいいらしい。 一歩、柊崎の部屋のほうに足を踏み出した蓬だったが、那義を振り返った。 那義は、じっと見つめてくる。 答えが聞かずとももらえたようだ。 柊崎のところでも、那義の命令は継続させなければならないらしい。 仕方がない……どこまで頑張れるかわからないが……そのつもりでいくとしよう。 駆けてゆきたいのを我慢して、蓬は柊崎の部屋に歩いていった。 ドアを軽くノックする。 返事が聞こえない。困った蓬は、もう一度ノックしてみた。 耳をそばだててみるが、やはり返事はない。 寝てしまっているのかなぁ? ここはいったん戻るべきだろうか? いまは執事補佐という役目をもらっている立場であり、主人の返事がないのに開けて入るわけには…… それでも、いつものアレルギーから気分が悪くて寝ているのなら早く側にいってあげたい。 蓬が側にゆけば、柊崎の体調は良くなるのだから…… 「なんだ……なにか用事があったんじゃないのか……?」 ぼそぼそとした声が聞こえ、蓬はハッとしてドアに耳を近づけた。 いまのは柊崎さんの声だ。寝ていなかったのか。 よ、よし。それじゃ、わたしですと声をかけて…… 那義に聞かれては不味いと、さっと背後に振り返った蓬は、その場で飛び上がった。 なんと、触れるほど近くに那義が立っていたのだ。 どうやら一緒について来て、後ろに張り付いていたらしい。 ま、まったくもおっ。このひとは、心臓に悪いよぉ。 「なんだ?」 不審そうな柊崎の声が聞こえてきた。 驚いて派手に飛び上がってしまったため、ドンと床を鳴らしてしまったからだ。 「若、那義です。入ってもかまいませんか?」 「……お前か……急ぎの用事でもできたのか?」 その声は、ひどく疲れを帯びていた。蓬は眉を寄せて、那義を見上げた。那義はちらりと蓬を見たが、すぐにドアに顔を戻した。 「はい。実は、この度、アンダー・バトラーを起用することにいたしまして」 「は? なんだ……また馬鹿なことを考えついたものだな」 「まだまだ見習い同然で……未熟なのですが、若の世話をさせてはどうかと」 「何を企んでる?」 「企みなど……」 「そんなもの必要ない。那義、絶対に入って来るなよ。いまはお前の冗談に付き合う気分じゃない」 「おや、困りましたね」 「勝手に困ればいいさ。私は休む……ああ、もちろん蓬が来たら、すぐに通してくれ」 柊崎の言葉に、どきんと胸が高鳴る。 顔がぽっと熱くなり、蓬は頬に手を当てた。 「おやおや、これは少々困りました」 「……しつこいぞ」 不穏な声の響きに、蓬は那義と目を合せた。 那義は肩を竦め、ドアに向けて声を張り上げた。 「では、仰せのままに」 そう口にした直後、那義は勢いよく寝室のドアを開けた。目を丸くしていると、那義に背を押され、気づいた時には部屋の中に入っていた。 「は、はいいっ?」 急展開に、うわずった叫びを上げた蓬は、ベッドにうつ伏せになっている柊崎と目を合せた。 ぐったりして片腕をベッドの端から垂らしていた柊崎は、蓬を見て目を見開いた。 時が数秒止まった気がした。 見開かれた柊崎の目が、ゆっくりと細められる。 「冗談が過ぎるぞ、那義」 「若のご不興を買うのは覚悟のうえ。さあ、姫野君、アンダーバトラーとして最初の任務ですよ。若を癒してさしあげなさい」 「……はい」 他に言えず、そう返事をして柊崎に向く。どぎまぎしながら柊崎に歩み寄っていくが、柊崎の表情が気になって、途中で足を止めた。 「那義、お前はもう行っていいぞ」 「そうはゆきません。奥様から指示を受けていますので……若の寝室に、ふたりきりというわけには……」 「アンダー・バトラーなんだろう? 私の世話をさせるために起用したと言ったのはお前だぞ」 「これは、一本取られましたね」 那義は肩を竦め、蓬に顔を向けてきた。 「姫野君。君はあくまで、アンダー・バトラーとしてここに残る。それを忘れないように」 「は、はい」 「では」 「那義、杏子さんを」 「若、わかっておりますとも」 にっこり微笑み、那義は部屋から出て行った。 柊崎とふたりきりになり、蓬は途端に緊張を感じた。 蓬が女だとバレたあと、ふたりきりになる機会はほとんどなかった。 「アルプリ……おいで」 その甘い響きの声に、背中のあたりがおかしな具合に粟立つ。 おまけにいまの柊崎は、ワイシャツの前をはだけさせ、ベッドにしどけなく横たわっていらっしゃるわけで…… こ、こ、これは……め、目のやり場に…… 「かっ、身体は……大丈夫ですか?」 「いや、まるきり大丈夫じゃない。だから早く側に……」 手を差し出して請うように言う。 踏み出したいのに、踏み出せないという、なんとも困ったこの現状に、蓬は途方に暮れたのだった。 |