苺パニック

注:こちらのお話は、書籍になるにあたって削除されたものです。
  サイト掲載時のものを、改稿してあります。

  書籍になるにあたって、大きく改稿したために、書籍の内容とは異なっています。
  そのことを踏まえた上で、お楽しみいただけたら幸いです。

  
(こちらのお話は、書籍ではP104、20『愉快なナビ』の前のお話になります。書籍とは流れが違います)


その3 おおいに迷う



「鈴木さん」

強烈にうとうとしているところに呼びかけられ、苺は反射的に顔を上げ、ぽやんとした目を前に向けた。

「ふああああ〜〜っ」

不可抗力で欠伸が飛び出る。

「……」

うん?

いま、呼びかけられたよね?

疑問に思ったことで、少し眠気が消えてくれた。

欠伸をしたまま大きく開いていた口を閉じ、改めて前を向く。

「あっ」

そこで苺は、瞬時に現実に立ち帰った。

店長さんが、じーっと苺を見つめている。

呆れたような表情で、『何か私に言うことはないのか?』的な眼差しをしておいでである。

苺はビクビクッと震え、慌てて姿勢を正した。

「あ、あのっ! い、苺、いま寝て……」

たよね? 確実に。

うわーっ、やっちゃったよ!

上司の前で転寝した挙句、呼びかけられたのに気づかず、大欠伸を披露するとは。

大失態だ!

「顔が引きつっていますよ」

淡々とした顔と声で、してほしくない指摘を食らう。

「す、すみませんです!」

巨大な大目玉を覚悟して平謝りする。

「コーヒーをお願いしますよ」

へっ? こ、コーヒー?

お目玉は? お説教は?

戸惑ったものの、回避できるのであれば、回避したい。

「たっ、ただいま」

苺は慌てて立ち上がると、給湯室に飛んで行った。

給湯室のドアを閉め、そこで安堵の息を吐く。

やれやれ……大失態に対するお小言は、ひとまず食らわずに済んだけど……

これって、やっぱり、あとで食らうことになるのかな?

よし。こうなったら、少しでも機嫌を直してもらえるように、美味しいコーヒーを淹れるとしよう。

そのとき、ドアの向こうから、笑い声が聞こえるのに苺は気づいた。

な、なんだ? この笑い声って店長さんだよね?

苺がうとうとしていたことを、怒ってたんじゃなかったのか?

でも、なんで笑って……?

苺のことを笑ってるってことだよね?

よほど無様だったとか?

まあいいや。笑っておいでなら、安心してよさそうだし。

胸を撫で下ろした苺は、丁寧に豆を挽く。

うーん、いい香りだねぇ。

しばし挽き立ての豆の香りを楽しみ、苺は慎重にコーヒーを淹れた。

コーヒーを淹れるのも、だいぶ慣れてきたなぁ。

手際がいいとまではいかないけど、あとは経験の積み重ねだよね。

しかし、こいつをどう使うかもわからずに困り果てたのも、懐かしい思い出だよ。

サイフォンを見つめて、うんうんと頷く。

コーヒーを二人分淹れ、苺は店長さんのところに運んで行った。

「どうぞ」

「ありがとう。鈴木さん、こちらに座りなさい」

王様チックにお礼を言った店長さんは、自分の隣の席に座るように言う。

「とっ、隣に座るんですか?」

もしや、これは、苺を隣に座らせて、厳しくお灸を据えようというおつもりなのではないのか。

一気に緊張を帯びる。

だが、断わったりはできない。

苺は渋々隣に座り込んだ。

「いま、色々と探してみたのですが……これなどどうです?」

「は、はい?」

なんの話だ? お灸は?

店長さんが指さしているのは、パソコンの画面だ。

そこに映し出されているものを見て、苺はびっくりした。

「えっ? こ、これって?」

「選んでいただくと言ったでしょう?」

い、言った。確かに言った。

執事の衣装、選ばせてくれるって。

けど、もうすっかり頭から消えてたよ。

病院で、店長さんとポーカーの勝負をやったんだけど、驚くことに苺が勝利した。それで店長さんは、苺の執事になってくれるんだったよね。

「この色なら、ちょっとしゃれていてよいのではと思ったのですが……苺、お嬢様の立場として、どうです? それとも、黒のほうが好みですか?」

店長さんが勧めてきた衣装は、確かにしゃれていた。これを着た店長さんは、それはもうすっごいかっこいいことだろう。

そのとき、画面が切り替わった。
今度は黒の執事服が映し出される。

うほーっ、こいつもいいじゃないか。

こちらも絶対に店長さんにお似合いだよ。

「他にも色々ありますが、サイズや在庫などの関係で、このふたつから選んでいただけるとありがたいのですが」

そうなのか?

色々あるというのなら、色々見てみたいというのが本音ではあるんだけど……

「このふたつからでいいですよ」

「そうですか。では、どちらにしますか?」

そう聞かれて、二着を見比べてみる。

うーむ、どっちも捨てがたい魅力があるよ。

苺は眉を寄せて腕を組み、おおいに迷う。

「店長さんには、どっちもすっごい似合うですよ」

グレーっぽい色のは、ハイカラな感じでいまどきの執事さんという感じになりそうだ。

まあ、いまどきの執事さんを、ふたりほど知っているが、どちらもこんな感じじゃないけどね。

もっと普通っぽいスーツを着ていた気がする。

「善ちゃんと真柴さん、こんな感じのは着てませんよね?」

「そうですね。こんなデザインのものは着ていませんが……それでも、普通のスーツとは違うのですよ」

「そうなんですか? あっ、まさか善ちゃんは自分で作ってたり」

「どうなのでしょうか? 聞いたことがありませんね」

「なら、作ってるかもしれないですね?」

あんなに上手に店長さんのセーターを編んでるくらいだ。もうなんでも作れそうだ。

「それで、どちらにしますか?」

返事を催促され、苺はまた迷う。

「うーん。どっちも捨てがたいけど……」

グレーのほうを店長さんが着たところを頭に思い浮かべてみる。

うひゃーっ、やっぱり絶対にかっこいいよ。

超お洒落な執事さんになりそう。

「こっ、こっち、かな」

テンションを上げてグレーの方を指さしたものの、黒のほうも惜しくなる。

黒も絶対似合うし。

こっちは、超クールな執事さんになりそうだよ。

みっ、見たい!

「や、やっぱり、こっち。……い、いや、やっぱこっち」

黒を指し、グレーを指し、を繰り返していたら、店長さんがぷっと噴き出した。

「だ、だって」

「ここはもう、わたしに任せてもらえませんか?」

その申し出に、苺は頷いた。

その方が良さそうだ。

苺は、どこまでいっても迷いそうだよ。

「それじゃ、お任せするですよ」

店長さんは頷き、またコーヒーを飲む。

うわーっ、執事ごっこが、これで現実味を帯びてきたよ。

今日注文したとして、衣裳はいつ届くんだろう?

来週あたりかな?

めっちゃ楽しみだよ♪

コーヒーを飲みながら、苺は執事ごっこに思いを馳せたのだった。





   
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