苺パニック

第1章 [下っ端店員戸惑い編]



第1話 苺の休日 ~苺~



「いちごぉ‼」

自分の部屋のベッドに寝転んで、ノリのいい音楽を聴きながら漫画を読んでいた鈴木苺は、突然の母親の怒号にぎょっとさせられ、ビックーンと身を震わせた。

気づくと、目の前に不機嫌大王と化した母、節子の顔があった。

「な、な、なに?」

跳ぶように身を起こした苺は、ビクビクしながら、しどろもどろに問いかけた。

すると母は、苺がつけていたヘッドホンを乱暴に剥ぎ取り、床に投げつける。

ガショッと不穏な音がし、苺は「ああーっ!」と叫んだ。

「お、お母さんったら、壊れちゃうよぉ」

苺の文句は、母の怒りを更にあおったらしい。

なんと節子は、右足でヘッドホンを踏みつけたのだ。

「や、やめてぇ」

苺はベッドから飛び降り、母の足元からヘッドホンを救い出した。

「な、なんでぇ?」

どうして母がこんな暴挙に出たのかさっぱりわからず、戸惑いながら問う。

「なんで? あんたね、いま何時だと思ってんの!」

「はい?」

苺は時計に目を向けて「あわわっ」と、慌てふためいて叫んだ。

「あわわっ、じゃないわよ。夕食の支度の時間でしょ、真美ちゃん手伝うの忘れるなんてぇ」

「ご、ごめんなさい」

自分の落ち度に気づいた苺は、しゅんと萎れた。

あーっ、大失敗だよお。

母の怒りはもっともだ。実は兄嫁の真美は、いま妊婦さんなのだ。

今日は、朝から両親は留守で、苺は身重の真美のお手伝いをすることになっていた。それなのに……

「ほら、さっさと下りてらっしゃいよ」

「あいあいさー」

返事をした苺は、母に遅れまいと部屋から出た。そして母を追い越し、先に階段に向かう。

「ちょ、ちょっと苺、あんた落ちないでよ」

心配する母の呼びかけに「あーい」と答え、階段をあっという間に駆け下りた苺は、その勢いのままキッチンに飛び込んだ。

「真美さん、ごめんねぇ」

真美の姿を捉えた瞬間、苺は謝った。

「い、苺さん。そんなに慌てなくても、大丈夫ですよぉ」

真美は少し焦った風に、右手には菜箸を持ったまま、両手を振る。

兄嫁の真美は、性格よしの器量よし。すらりと背が高く、スタイルも抜群。

まあ、いまは妊婦さんだから、お腹はぽこんって感じで素敵に大きく膨らんじゃってるけど……

とりあえずまだ夕食の支度は終わっていないようで、苺はほっとした。

「真美さん、苺、なにすればいい?」

挽回を図るべく、苺は兄嫁に尋ねたのだった。





「うん、うまい。やっぱり真美は料理が上手だな」

鼻の下を伸ばして、妻の料理をほめまくっているのは、苺より五つ年上の兄の健太だ。

兄夫婦は昨年の秋に結婚したばかりの新婚さんだ。

いわゆる職場結婚ってやつなのだが、真美に言わせると、健太は社内一かっこよくて仕事のできる、超エリート社員らしい。

妹には横暴な兄だが、妻には甘い。

ふたりが結婚してから、それまで知ることのなかった兄の一面に触れるたびに苺は度胆を抜かれたものだった。

「でも、そろそろ家事は辛いんじゃないか? ここんとこ、かなり大きくなったもんな」

健太は真美のお腹を見つめ、心配そうに言う。自然と家族全員の目が自分のお腹に集まってしまったものだから、真美は恥ずかしそうに頬を染めた。

「苺がまともなものを作れればねぇ、この子に任せるんだけど……」

パクパク食べながら、母がちらりと苺を見る。苺はさりげなく、視線を逸らした。

残念なことに、苺は料理が……というか、味つけがへたっぴなのだ。

レシピ通りに作れば、それなりにちゃんとした味つけのものができるはずだと母は言うのだが……なぜだろう、食べてみると破壊的な味がするのだ。

これは、苺本人にも解明できぬ謎である。

「苺は味音痴だからなぁ」

父はのんびりと事実を口にする。

おかげで、苺は兄と母から失笑を食らった。

「ほんと、この子には、一生お嫁の貰い手なんかないわね」

悪うございましたね。どうせ、わたしゃ味覚音痴でございますよ。嫁の貰い手もありそうにございませんよ。

苺は唇を突き出し、心の中で呟いた。

歯に衣着せぬ毒舌も、血の繋がった家族だからこそだ。
何を言われたところで、いまさらなんてこともない。

「なあ、いちごうお前、本気で料理学校に通ったほうがいいんじゃないか? いまのままじゃ、マジで結婚できないぞ」

真剣に妹の身を案じる健太の発言は、罵られるより堪えた。

「苺の名前、いちごうじゃないもん。苺だもん」

視線を向けずに文句を返し、箸で摘まんだおかずを口に放り込む。

健太は、苺のことを幼い頃から、『いちごう』と呼ぶ。漢字で書くと、『一号』だ。

つまり苺は、健太の子分一号というわけなのだ。

まったくいい加減、妹のことを『いちごう』なんて呼ぶのはやめてほしい。

苺はロボットでもサイボーグでもないってんだ。

「料理学校ねぇ……行ったところで貰い手がなさそうだし、ここはやっぱり定職に就くべきだと、お母さんは思うけど」

いつもの話題に、どうしても顔が歪んでしまう。

苺は今年の三月、専門学校のデザイン科を卒業した。

デザイン関係の職に就きたかったのだが、挑んだ会社はすべて不採用。

結局、いまだにフリーターの身。

なんとか定職に就こうと、就職活動は地道に続けているが、うまくいっていない。

健太からは、デザイン関係にこだわるからだ、と指摘されているのだが……

とにかく、このままじゃ学費を出してくれた両親に対して申し訳ないし、立つ瀬がない。

ご飯が終わったら、また履歴書を書くとしよう。





夕食を手伝うのが遅れたお詫びに、後片づけを一手に引き受け、苺は自分の部屋に戻った。

散らかった部屋を見て、思わず顔をしかめてしまう。

片付づけようとは思ったが、「あーあ」と声を上げながら、ベッドにどさりと寝転がる。

ほんと、ちゃんと定職に就かなきゃだよね。

天井を見つめて、思案する。

やっぱり、デザイン関係にこだわるのをやめるべきなのかなあ?

よっしゃ。

彼女は跳ねるように起き上がると、机を前にして座り込んだ。

いま君がやらねばならないことは、履歴書を書くことだよ、苺君。

それがなければ面接に辿り着けない。

とはいっても、面接はすでに両手では収まらないほど受けたのだが、受けた回数と同じ数の不採用通知が届いた。

それを思うと、面接に向かうのはしんどい。

けど……イチゴヨーグルトにはスプーンなくらい、就職活動に面接はつきものだ。

まだまだ記入する欄が残っている履歴書を見つめた苺は、ペンを置いて立ち上がった。

ちょいと、気分転換しよう。

明るい気持ちで書いた履歴書のほうが、きっと良い結果を招くだろう。

三個パックのイチゴヨーグルト、まだひとつ残ってたよねぇ~。

ルンルンとスキップを踏みながら階段を下り始めた苺は、スキップの手順を誤り、ドドドッとものすごい音を響かせた。

その後、よたよたしながら冷蔵庫に辿り着くと、イチゴヨーグルトとスプーンを片手に、痛むお尻を撫でつつ階段を上がった。

イチゴヨーグルトは、いつもと同じように美味しかった。

階段を踏み外し、たとえお尻に痛みが残っていたとしても、しあわせをもたらしてくれる食べ物だ。

明日もアルバイトは休みだし、大型スーパーに行って買ってこなきゃ。

そのついでに、いつもの宝飾店に寄って、キラキラたちも眺めて来るとしよう。

苺は、机の上に置いてある赤い宝石箱に手を伸ばし、蓋を開けた。

この宝石箱は、何年か前に母親からプレゼントされたものだ。

膨らみのある蓋のてっぺんに、イチゴの飾りが二つくっついている。

ほんとは、三つついていたのだが、一つは取れちゃったのだ。

取れたイチゴは、そのうち接着剤でくっつけようと思って、宝石箱の中に入れたまま。

この中で、唯一本物の宝石のついたネックレスを、苺はそっと手に取った。

これを購入したのは一週間前の日曜日。
明日行く予定の、大型スーパーの中にある宝飾店で買ったのだ。

すっごく気に入っちゃって、それ以来出かけるときはいつも身につけている。

本物の宝石だけど、実は三千円均一の品。
けれど身につけていると、ほわほわっと楽しい気分になる。

それに気分的なことかもしれないけど、これをつけていると、何かいいことが起きるような気がするのだ。

ちっこくたって本物の赤いルビーだもんね。ガラスケースの中には、これのほかにもいっぱい並んでたけど、まるでイチゴみたいだったから一瞬でハートを射抜かれて、つい買ってしまったのだ。

三千円とは、絶対思えないよね。

ネックレスのルビーの粒をほっぺたに押し当てて、至福の笑みを零す。

苺の左頬に、ぷくっとえくぼが浮かんだ。





翌日、日曜日の午後、ベッドに座ってちっちゃなガマグチ型の財布の中を覗き込んだ苺は、肩を落とし「はあっ」と、息を吐き出した。

次の給料日までに最低限必要な費用を持ち金から考えると……せいぜい一パックしか買えないな。

先週、思い切ってネックレスを買っちゃったからなぁ。
後悔はしてないんだけど……

服やら何やらは欲しいと思わないけど、イチゴヨーグルトだけは、最低でも一日一個は食べたい。

今日って、特価とかじゃないかなぁ?

昨日、最後の一個を食べちゃったから、買ってこないと今夜のお楽しみはなしってことになっちまう。

よし! まずは広告の確認だ。

苺は部屋を飛び出し、ドダダダッと、階段を駆け下りた。
昨日、足を滑らせたことなど、すでに頭から消え去っている。

「苺! 静かに下りなさい。階段の板が抜けたらどうするのっ!」

居間のほうから母の怒号が飛んできた。

騒々しい音を響かせた犯人を苺だと決めつけている母に対して、苺は唇を尖らせながら居間に入った。

「苺じゃないかもしんないじゃん」

「はあっ! あんたじゃなかったら誰だってのよ?」

苺は居間に揃ってい顔ぶれを見て、あひゃっと眉を上げた。

鈴木家の全員が勢ぞろいしていらっしゃる。

「いちごう。お前、やっぱ馬鹿だな」

健太から小馬鹿にしたように言われて、苺はほっぺたを膨らませた。

「苺、広告見たいんだけど」

「ここにあるぞ。ほれ、苺、こっち来て座れ」

やさしい父の言葉に、苺は笑みを浮かべて、ソファに腰を下ろしている父の隣に座った。

広告を手に取った苺は、さっそくスーパーの広告の品を物色した。

「イチゴヨーグルトなら、大型スーパーが安いわよ」

母の情報に、苺は笑みを零した。

「ほんと?」

娘に対して小言が多く、一見そうやさしいとはいえない母だが、実は苺のことを誰よりもわかってくれている。

「お母さん、サンキュー」

弾むようにお礼を言った苺は、大型スーパーのイチゴヨーグルト三連パック、九十八円を確認し、思わずガッツポーズした。

よっしゃ!

「ほんじゃ、苺、行ってくるよ」

「苺さん、買い物に行くのなら、わたしたちと一緒に車で行ったら?」

「ううん。いいのいいの。苺は愛車で行くよ。近いし。真美さんたちも、大型スーパーに行くの?」

「わたしたちはどこでもいいの。食品の買い出しに行くだけだから」

「真美さ~ん、気をつけないと……」

母はにやにや笑いながら、忠告するように真美に声をかける。

母がにやついているわけも、忠告の意味も、苺は承知済みだ。

「母さん、別にいいだろ! 必要なもの買ってんだから」

健太は顔を赤らめて声を荒らげた。そんな兄に対して、母はしたり顔を向ける。

「そうよねえ。この間あんたが買ってきたおもちゃとか、まあ、あれも二年後くらいには必要になるわよね、きっと」

両親と妹から失笑を買い、健太はさらに顔を真っ赤にして睨み返してきた。

実は健太は買い物に行くたびに、赤ん坊のための品を買い込んでくるのだ。
健太と真美の部屋は、すでにそれらでいっぱいになっているんじゃなかろうか。

「それじゃ、行ってくるねぇ」

苺はぴょんと立ち上がり、居間を出た。

「もう、広告広げたまんま!」

またもや母のお小言が飛んできて、苺はペロリと舌を出しつつ、自分の部屋に戻った。





クローゼットを開けた苺は、迷うことなくいつものセーターを掴んだ。

バイト代だけの暮らしでは、服もそうそう買えない。

母に生活費を渡すのは当然だけど、貯金だってしたい。

だからたまに母と一緒に買い物に行って、リーズナブルな値段の服……特価品ともいう……を買ってもらうくらいで、自分のお給料からはあんまり買っていない。

そういうわけで、苺のクローゼットにはたいして服はぶら下がっていないのだ。

それでも別に物足りなさは感じてない。汚れたり破れてたりしていなけりゃ、文句はない。

セーターをベッドの上に置いた苺は、今度はタンスを開けて茶色のスカートを取り出した。

こいつは真美さんに貰ったやつだ。

支度を終えた苺は、最後に宝物のルビーのネックレスをつけた。

これでイチゴヨーグルトが売り切れてて、泣く泣く帰るハメになることは決してないだろう。

だって、こいつは、苺の幸運のアイテムだもんねぇ。

苺は鏡を覗き込み、ネックレスの赤いルビーを見つめたあと、自分に向かってにこっと笑う。

バッグを抱えた苺は、ウキウキしつつ部屋を出た。





愛車のピンクの自転車に身軽く跨った苺は、大型スーパーに向かった。

十一月も下旬になり、風はそれなりに冷たいが、日差しがあってまずまずのサイクリング日和だ。

スーパーの駐輪場に自転車を停め、いそいそと店内に入る。日曜日ということもあって、お客さんがいっぱいいる。

一番の目的は特価の三連イチゴヨーグルトだが、ちょこっとだけウィンドウショッピングを楽しむつもりだ。

冬物の素敵な服で溢れているショップを横目にしつつ、花屋の変わり種の植木鉢を観賞し、三百円均一ショップ、おもちゃ屋売り場、本屋と一通り回った。

この大型スーパーは、とにかくテナントの数が多いから、見て回るだけでも遊園地のように楽しい。

通りがかった宝飾店にちらりと視線を向けた苺は、バッチリ店員さんと目が合ってしまい、そそくさとその店を素通りした。

この宝飾店は、すぐに店員さんが近づいてくるのだ。眺めるだけの客である苺は、まったく気が休まらない。

単に眺めて楽しみたいだけなのに……近づいてこられちゃ、逃げ出したくもなる。

その点、あの宝飾店さんは違うんだよねぇ。

苺がいま向かっているのは、こちらから呼びかけない限り、店員さんは近づいてこない、なんとも気楽に立ち寄れる宝飾店なのだ。

もちろん、苺がいま首に下げている、このルビーのネックレスを買ったお店だ。

苺はスキップを踏み、通路を進んでいった。





   
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