初めてのお仕事
芹菜は企画室の前で立ち竦んでいた。
ドアノブに手をかけられない。
この中にあのひとがいるのだと思うと、とても開けられなかった。
「まーほーさん」
間延びした朗らかな声の真ん中あたりで、背中をどんと叩かれた。
勢い、前のめりに倒れそうになる。
ニコニコ顔の成田だった。
なぜか猛烈な懐かしさを感じた。
「こんなとこで、ぽーっとしてないで、ほら入ろ」
成田に促されて、オフィスに入る。
室内に入った途端、真帆の記憶からさまざまな情報が流れ込んでくる。
ここにくるまでに、しっかり記憶を取り出して、いろんなことを把握できていれば、不安もそんなに感じなかったのだろうが、なんらかのきっかけがないと、真帆の記憶は取り出せない。
真帆のディスクはどこだろう?
芹菜は部屋をさっと見渡して、記憶に問い掛けた。
「真帆ちゃん!」
杉林がおなかが大きい割にはすばやい動きで、小走りで寄って来た。
真帆が来たことで、我を忘れている。そんな感じだった。
芹菜は胸がじーんとした。
「駄目ですよ。走っちゃ」
「あ、そうだった。でも、真帆ちゃんがこうしてまた会社に出て来られるようになって、ほんと、うれしいのよ、わたし」と涙ぐむ。
芹菜は、うれしさと恥ずかしさではにかんだ笑みを浮かべた。
「あれは、誰?」という声がはっきりと聞こえた。
思わず声のした方に目を向けると、体格のいい男性が、彼女を見て目を丸くしている。
益田尚行。24歳。
一年浪人しているため、現在入社二年。
頭軽し。女好き。くだらないやつ。
その情報に吹き出しそうになって、彼女はぐっと堪えた。
彼は一度、真帆に付き合いを申し込んで、こっぴどく振られている。
この情報の羅列も良し悪しだなと、芹菜はため息をついた。
どうしても、真帆の固定観念を植え付けられてしまう。
「あら、大原室長、まだ来ていないみたいね」
大原室長とは、この企画室の室長だ。
大原には社長室で会って、いま挨拶して来たばかりだと杉林に伝えた。
「そう、それじゃ、あと宮島主任にも、一言挨拶してきた方が…」
杉林は控えめに言ったが、彼女の手はすでに芹菜の背中に添えられていて、そっと後押しされていた。
仕方なく、俯きがちに彼のもとに歩いてゆく。
机に片肘をつき、手にした書類を見つめている彼がいた。
濃紺のスーツに淡い赤のネクタイを締めている。
前髪が後ろに撫で付けられているせいで、形の良い眉と涼しげな眼が際立って見えた。
「真帆ちゃん?」
杉林に顔を覗き込まれて初めて、芹菜は彼にぽーっと見惚れていたことに気づいた。
芹菜はそっと杉林を伺った。
力づけるように、何度も肩をぽんぽんと叩いてくれている。
我を忘れて彼に見惚れていたとは気づかれなかったようで、ほっとした。
「あの、今日からまた、よろしくお願いします」
床を見つめたままそれだけ言うと、顔も上げずに、彼女は急いで杉林のところに駆け戻った。
誠志朗が主任を勤める部署は、季節ごとに無料配布するPR冊子などの編集が主な仕事だ。
男性は益田と藤沢真治と新人の大川歩。
そして女性陣は、杉林に成田に真帆の3人だ。
同じスペースで働いている企画部そのものには30人近い社員がいるようだ。
それぞれ部に、10名前後が所属していて、各ブースごとに移動可能な仕切りがある。
オフィスなど初体験の芹菜だが、その洒落た内装には驚いてしまった。
真帆の仕事は、杉林の補助だった。
これまでアルバイトもしたことがなく、働く経験がないため、ものすごく不安だったけれど、杉林の気配りのおかげでなんとかなった。
分からないことは彼女に聞けばいいし、ほかのみんなも尋ねれば丁寧に教えてくれそうだった。
「これまでわざといい加減にやってたわね」
もうすぐ10時というところで、杉林が顔を寄せてきてそんなことを言った。
おかしそうにくすくす笑っている。
パソコンのキーを叩いていた芹菜は、意味が分からず、「え」と聞き返した。
「ほんと、助かるわぁ。わたしの仕事がなくなっちゃうかも」と言われ、冗談だと分かった。
芹菜の隣に座っていた大川が、立ち上がって伸びをした。
「お茶、何かリクエストありますか?」と、みんなに向いて言う。
「あ、わたしも手伝います」
そう言いながら、芹菜は慌てて立ち上がった。
「先輩にそんなことさせられませんよ」
大川がさわやかに笑った。ずいぶんと、人懐こい笑みだ。
後で杉林に聞いたら、お茶は好きな時に、勝手についで飲めばいいことになっているらしい。
それでも10時と3時は、新人が気を利かせてみんなの分をまとめて注いでいるという。
「歩、俺コーヒーな」
益田が言い、全員がコーヒーと手を上げた。
コーヒーは正直苦手だったが、ひとりだけ別のものを頼むのは気が引けて、彼女もコーヒーを頼んだ。
「渡瀬先輩、お砂糖とミルクは?」
「あ、両方とも欲しいです」
できれば3つずつぐらいと言いたかったが我慢した。
「令嬢、どうしちゃったの?」と益田が言った。
戸惑っていると、「前はブラックだったのに、性格だけじゃなくて好みまで変わっちゃったわけ?」と言う。
「はあ、まあ」
おしゃべりな益田に辟易していると、大川がコーヒーを持ってきてくれた。
一緒にもらった砂糖とミルクを入れてかき混ぜようとしたが、スプーンがない。
大川はすでに自分の机でミルクを入れたコーヒーを味わっている。
砂糖を頼んだのは芹菜だけだから、スプーンのことまで気がつかなかったのだろう。
立って取りに行く勇気もなかったが、行けば行ったで、大川が申し訳ながるかも知れないと思って、芹菜はそのまま一口飲んだ。
苦味に顔を歪めてしまう。
どうしてこんなものを砂糖も入れずにすいすい飲めるのか、理解しがたかった。
初めは苦味に耐えたが、最後は解け切れていないどろどろの砂糖を飲み下し、芹菜はほ〜っと安堵した。
口の中がひどく甘ったるい…
芹菜は盛り上がってる会話から、すっと身を引いて立ち上がった。
顔を上げた途端、誠志朗と目が合ってしまい、反射的に顔を逸らせてしまった。
心臓がバクバクした。
彼の存在は、マジで心臓に悪い。
「あ、あの、これ洗ってきます」
「あ、いいですよ、先輩」
大川から先輩と呼ばれたことに戸惑っているうちに、カップを取り上げられてしまった。
自分の机に置いていたトレーにポンと置き、大川が「あ」と小さく叫んだ。
「渡瀬先輩、言ってくれれば良かったのに…」
幾分拗ねた口調で大川が言った。
「ご、ごめんなさい」
「別に、先輩のこと責めてないんだけど」と苦笑する。
「何が、どうしたんだよ」と、益田が聞いてきた。
顔をあげると、みんなもこちらを見つめている。
カップの底に沈殿している砂糖の訳を、大川が話した。
「真帆ちゃんってば、そんなことくらい遠慮することないのに」
杉林から呆れたように言われ、その口調に芹菜は少し落ち込んでしまった。
成田はげらげら笑っているし…
恥ずかしさで顔が赤く染まってゆくのが分かって、芹菜は頬を隠すように両手を当てた。
ふと横を見ると、なぜか大川がまじまじと彼女を見つめている。
目が合うと、思案下に眉を潜めた。
「先輩って…聞いてた噂とぜんぜん違うんだもんな。めちゃくちゃ美人だし…、なんかすっげぇ可憐だしさ」
自分の考えに集中しすぎていたからか、かなり砕けた口調になっている。
「ぶっ」と益田が吹いた。
「すみません。いま、頭打っておかしくなっちゃってて。でも、そのうち元に戻りますから」
芹菜は、神妙な顔をして、大川に申し訳なさそうに言った。
「ぶっ」
益田がまた吹いた。
その途端、全員が大笑いを始めた。
驚いたことに、誠志朗までが笑いの中に混ざっていた。
初日から一週間ほどは、慣れないせいで、精神的に疲れてしまったが、それを過ぎるとOL生活も楽しいものになってきた。
周囲も、いまの彼女の存在を受け入れてしまった後は、まったく気にかけられることもなくなった。
ただ、誠志朗との関係だけがいつまでもぎくしゃくしていた。
こちらも極力避けていたこともあるが、相手も同じように避けている。
それに、ふいに視線があうと、彼は嫌なものでも見るように顔をしかめた挙句、そっぽを向く。
あからさまな嫌悪…
そのほうが良かった。
良かったのだけど…悲しかった。
「真帆ちゃん、明日、私休むから、仕事の方頼むわね」
杉林の突然の言葉に、芹菜は戸惑った。
頼むと言われても、できるとは思えなかった。
「何か用事が?」
「うん。検診」と膨らんだお腹を指す。
芹菜は納得してこくこくと頷いた。
「でも、杉林さんがいないと、どうしていいか…」
「大丈夫よ。いつもと同じことしてくれればいいだけだから。仕事の指示は宮島主任からあるし、分からないことはなんでも聞けば丁寧に教えてくださるわ」
芹菜は唇をかみ締めた。
それが嫌なのだ。彼はもっと嫌だろう。
「ほらほら、そんな弱気でどうするの?私が産休に入ったら、どのみち真帆ちゃんが私の代わりを勤めることになるのよ」
「えっ、わたしが…そ、そんなの無理です」
「ふふ、期待してるわよ。仕事はかなりきつくなるだろうけど、今の真帆ちゃんなら私が太鼓判押すわ」
そんな太鼓判など、押して欲しくなかった。
杉林がいなければ、誠志朗との接触が極端に増えるだろう。
杉林が産休に入るなら、正直自分も仕事をやめたい。
だが、彼女が辞めれば誠志朗の仕事の負担がどんなものになるか容易に想像がつく。
杉林と同じ量の仕事が出来るとうぬぼれているわけではないが、いないよりはましに違いない。
「あの、私では、宮島主任が嫌がられると思うんですけど…」
すぐそこに座っている誠志朗に聞こえないように、芹菜は小声で耳打ちした。
「宮島主任には了解とってあるわ。大丈夫だから」
芹菜は頷くしかなかった。
鉛のように気が重かった。
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