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その15 危うい唇
未莉華が来るというので、朝から社内の男性陣のほとんどが浮き足立っているように見えた。
それは既婚者もしかりだ。
芹菜はなんとなく惨めさを味わっていた。
あのボインの未莉華と誠志朗が直接会うのだと思うと、心穏やかでいられない。
どんな出会いがあって、男女の恋が始まるかなんて誰にも分からないのだ。
それに、あんな可愛い子に迫られたら、どんな男もぐらりと傾きそうだ。
誠志朗はやはりというか、社内でもかなり人気がある。
だが、彼に彼女がいるのかいないのか、誰も知らないらしい。
誠志朗が誰かと恋仲だということが公になって、それを目の当たりにしなければならない日が来たら、芹菜は何があっても二度と会社には来ないだろう。
時間になって、大原室長と誠志朗が、撮影スタッフを玄関まで迎えに行った。
彼らはそのままこのビルの屋上にある庭園での撮影に居合わせることになっている。
未莉華の到着は1時間ほど後だ。
未莉華の出迎えは、成田が行くことになっている。
彼女が一番適任だろう。
男どもでは仕事にならないに違いない。
ふたりも抜けて仕事が忙しい最中でも、芹菜は未莉華のことが頭から離れず、どこか上の空だった。
お昼になり、芹菜は食堂に向かった。
成田がいないからひとりで行こうとしていたら、藤沢が声を掛けてくれた。
あまり食欲がなかった。
頭の中で、誠志朗の肩にしな垂れかかっている未莉華が、芹菜に不敵な笑みを浮かべている。
頭から追い払おうとすればするほど、迷惑な妄想ははっきりと形を作る。
「食欲ないね。どうしたの?」
藤沢の気遣いに、芹菜は微笑んで見せた。
「その指輪、やっぱり主任から…」
芹菜はふるふると首を振った。
彼女の失言で、とんでもない誤解を招いてしまった。
でも、どんなに否定してもみんなの疑いは晴れないようだった。
真帆のことを嫌っているだろう誠志朗には本当に迷惑な話だろう。
「ここ、よろしいですか?」
左側後方から声を掛けられて、芹菜は耳慣れた声に似ていると思いながら顔を上げた。
相手を認識する前に、黒っぽい服を着た男性が、するりと椅子に座った。
芹菜は、持っていた箸を、つまんでいたほうれん草と一緒に取り落とした。
「驚かせたかな?」
これ以上ないほど、幸せそうな顔で透輝が笑っていた。
「どうして…?」
「撮影」
「は?」
「未莉華の代わり。彼女が…急に都合悪くなったから、それで代わりに…」
代わりに…? 藤城トウキが。
「急に、都合が…?」
芹菜は疑わしそうに透輝を見つめた。
彼はあいまいな笑いを浮かべている。
芹菜は彼がひとりなのを、不思議に思った。
ただ、この場に居合わせた人達は、まもなく透輝に気づき始めるだろう。
少なくとも、芹菜の前に座っていた藤沢は驚きの表情で透輝を見つめている。
「どうしてひとりなの?」
芹菜は声を潜めて尋ねた。
「いるよ」
透輝は後ろも見ないで指差した。
後ろを窺うと、スタッフらしき人たちと、誠志朗を含めた何人かがこちらを見つめていた。
真帆の父の健吾までも、苦虫をつぶしたような顔でこちらを見ている。
酷いめまいがした。
「着いてくるなって言ったんだ」
愉快そうに透輝が言った。
「なんてこと」
芹菜は、泣きたくなった。
真帆になんていえばいいのだろう。
突然、左の手を掴まれた。
透輝の指が、指輪をそっと撫でた。
その手を掴んだまま、透輝は立ち上がった。
食堂の出口に向かってゆっくりと歩いてゆく透輝に、芹菜は俯いたまま従った。
「お嬢さんを、少しお借りします」
健吾の前を通り過ぎざま、柔らかに透輝が言った。
エレベーターに乗り込んだ途端、芹菜は透輝に抱きしめられていた。
初めあまりにきつく抱きしめられて恐かったが、その腕が次第にやさしいものに変わった。
「あーー、長かった。電話は不安で…。逢いたかった」
真帆の身体の感触を味わっていた透輝が、切なそうな吐息とともに言った。
「明日逢えたのに…」
「今日も逢いたかった。明日も逢いたい。毎日逢いたい…出来るなら…ずっと…」
恐いほど真剣な目に捉えられて、芹菜は目を見開いたまま瞬きも出来なかった。
「俺のこと、愛してるか?真帆」
芹菜はすぐさま強く頷いた。真帆の代わりに…
エレベーターの扉が音もなく開いた。
目の前に大きなガラスの扉があり、その向こうに色とりどりの花々が見えた。
ガラスの扉を抜けて庭園に出ると、撮影の機材があちこちに散乱していた。
この庭園は従業員には開放されていない。
こういう撮影とか、イベントの時にだけ使用されるのだ。
「話したいことが色々ある」
ベンチのひとつに並んで腰掛けたとたん、堰を切ったように透輝が話し始めた。
「不安だった。電話の真帆の声が、俺のこともう愛してないって言ってるように聞こえて。恐かった」
透輝は真帆の手にはめられた指輪をそっと撫で続けている。
まるでそれが危ういふたりの関係をつなぎとめる、ただひとつのものであるかのように…
透輝の思いがダイレクトに伝わってきて、芹菜まで切なくなった。
「以前は、ちょっとしたことですぐに怒ったり怒鳴ったりする君に、うんざりすることもあった。もっと俺の立場も分かって欲しいって。だけど、いまはあの頃の君が…」
透輝は言葉をとめると、すまなそうに芹菜を見た。
芹菜は透輝の瞳をじっと見つめて、そっと首を横に振った。
「ごめん。今の君も同じ真帆なのに…いまの君を否定するつもりはないんだ。ただ…怒ってた君の方が、俺への…言葉にしずらいんだけど…深い愛を感じられてたというか」
芹菜の目にじわっと涙が湧いてきた。
透輝の身体が震えている。
その震えが芹菜の心を大きく揺さぶってくる。
芹菜は自分の手を握り締めている透輝の手の甲の上に、もう片方の手をそっと重ねた。
透輝の肩から力が抜けたのが分かった。
唇の端にも、少し笑みが浮かんだ。
「君の事故があって言いそびれてたけど、もうすぐいまの所属事務所を出て独立することになってる。色々面倒な手続き踏まなきゃならなかったし、事務所とも和解とはいかなかったから、かなりごたごたした。詳しくはまたいずれ話すけど」
そこまで一息に言って、一呼吸置くと、透輝はまた話し始めた。
「明日のオフ日に、仕事を入れられたんだ。絶対にキャンセル出来ないような仕事。あんまり横暴でカッと来た。今日、未莉華がここの仕事するってことは前々から知ってたんだ」
そう言って、苦々しげな顔に、不敵な笑みを浮かべる。
「どうしても逢いたかった。これからは電話すらろくすっぽ掛けられなくなるかもしれないし」
透輝がじっと見つめてきた。
心の中で、絶対に真帆さんをあなたに返すからね。と誓いながら、芹菜も見返した。
透輝が目を細めてゆっくりと顔を近づけてきた。
その時になってようやく、芹菜は自分がピンチに立たされたことを悟った。
身が竦んだ。
いま拒否すれば、透輝を深く傷つけてしまう。
だから、逃げるわけに行かない。
だが、真帆の気持ちと自分のために、絶対にキスをするわけにはゆかない。
触れると思った瞬間、芹菜は唇ひとつ分顔を背けた。
透輝の唇が、彼女の唇の端に触れた。
透輝が顔を上げた。
その目が、どうしてと問いかけてくる。
口を開いたまま言葉に詰まっている芹菜の目に、幸運が舞い込んできた。
「…お父様が」
たったいま、エレベーターの扉が開いて健吾が出て来た。
振り返って健吾を確認した透輝が、チッと舌を鳴らした。
あーー、神様ありがとう!
芹菜は空に向かって、感謝の言葉を捧げた。
健吾の計らいで、そのまま庭園を使わせてもらい、透輝と芹菜は3時くらいまでともに過ごした。
食事をしていなかった透輝のために、健吾は食事も用意してくれた。
ただし、その間、健吾もずっと一緒にいて、透輝はずっと苦笑いしていたが…
芹菜は、ふたりの関係がこれで世間にバレてしまい、大騒ぎになるのではないかと危惧していたのだがそれは杞憂に終わった。
透輝は食堂で真帆の姿を見かけて、一芝居打ったのだ。
健吾の息女の美しさは聞いている。
ぜひ彼女に会ってみたい。と。
あの場でそう言ったら、真帆を知っている幾人かが、あそこにいるのが彼女だと教えてくれたという。
彼女に会わせて欲しいと健吾に内密に頼んだのに、それを断られたから仕方なかったんだと、透輝は健吾にあてつけのように言った。
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