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その18 帰宅
懐かしい筈の自分の部屋を見回して、芹菜は唇をへの字に曲げた。
「見事に変えてくれましたね。真帆さん」
後ろにいるはずの真帆からの返事はなかった。
芹菜は隅々まで視線を這わせた。
そして最後に机の上に視線を当てた。
やはりというか、誠志朗がくれた白いビオラの小さな鉢はなかった。季節が夏になって、ビオラの花が残っているはずはないが、せめてあの鉢は手元に残しておきたかった。
数分前、玄関で母が迎えてくれた。
噂で聞いていたよりも、もっと綺麗なお嬢さんじゃないのと、真帆に耳打ちしていた母。堅苦しく挨拶してくれた父。真帆におねえちゃんおねえちゃんと開けっぴろげな笑顔を見せている真奈香。
「芹ちゃん」
そっと真帆が呼びかけてきた。
がくりと膝が折れた。
手に触れたクッションを顔に当てて芹菜は泣いた。
背中に真帆の体温を感じた。
芹菜の嗚咽が洩れるたび、しゃくりあげるたび、強く抱きしめてくれる。
真帆は何も言わなかった。
言葉はなんの意味もないことを、真帆は知っている。
思う様泣いたおかげで、母の手料理を久しぶりに食べた時も、真奈香とテレビゲームをしていた時も、芹菜は泣かずにすんだ。
すべての触れ合いの時間をしみじみと味わうことが出来た。
「真帆さん、ありがとう」
感情に駆られて、すべてをおじゃんにしてしまわずにすんだのは、真帆のおかげだ。
真帆が苦笑した。
「お礼言われるとは思わなかったわ。この部屋見て、すっごい怒るだろうなって覚悟してたのよ。実は」
芹菜は首を振った。
「いいの。わたしの大切なものは、ちゃんと捨てずに置いてくれてるし」
芹菜は、隅っこに追いやられていたキリンのぬいぐるみを救出し、ベッドに転がった。
家族と会って改めて思った。
人間は、とても順応性に優れている。
優等生だった自慢の娘(だった筈だ)の変貌に、もっと動揺しているのではと思っていたのに、それほどの苦労もせず、家族はいまの芹菜を受け入れたようだ。
結局、親というものは、子供が優等生だろうが、劣等生だろうが、あるいは不良でも受け入れてしまえる器を持っているのだろう。
それほど、親の子供に対する愛情は深いものなのだなと感じ入った。
このキリンのぬいぐるみは幼稚園の頃、誕生日に貰った。
いまは、幼い真奈香のお馬さんごっこに付き合わされた経緯があって、ぺしゃんこだが、ぬいぐるみ専門店のウインドーに飾られていたキリンを、いっぺんで気に入って買って貰ったのだ。
あの時の芹菜には、店先のウインドーの中のキリンは、夢の世界のもののように思えた。
「私ね」と芹菜は呟いた。
「なに」と真帆がこちらをむく。
「私、もし元に戻れたら、無理しないほんとうの自分でいます。これまでは自分のイメージを創り上げて、そう演じてきた気がするの。かなり無理して。あの生き方って、けっこう息苦しかったんですよね」
たよりなげについているキリンのしっぽを手にして、芹菜は言葉をついだ。
「両親の望む娘でいなくちゃ。先生の期待に応えなくちゃ。…そんなことばかり考えてた。本当の自分じゃなくて、周りの人達が私に求めている私でいなくちゃって。誰もそんなの望んでなかったのに…」
自分の姿をした真帆を見つめてため息をつく。
「真帆さんだからこその芹菜を見てると、自分らしさの大切さがしみじみ分かります」
これらのことを気づかせて貰えたのだ。
入れ替わるなんて馬鹿げたことが起きなければ、この先ずっと、優等生向けのレールを走り続けていたに違いない。
誠志朗に対して味わった苦悩を考えると、喜ぶことなどとても出来ないが、これで良かったのだと思うことはできる。
「あんたは、歳のわりに分別がありすぎなのよ。分別って、人の行動を大幅に制限しちゃうじゃない。そいで、なんでも難しく考えすぎちゃうみたいだし…。人生は楽しまなきゃ損よ。…とは言っても、私もさ、今回のことで…その…色々考えないじゃないわ」
床に座り込んだ真帆は、そう言ってため息をついた。
「初め芹ちゃんの身体になっちゃったときは、ものすごい混乱しちゃったわ。退院してからは学校に行って勉強して、まあ、部活は楽しかったけど。それに友達とのおしゃべりとかも。学生気分に戻れて」
真帆が黙り込んだ。
「私、嫉妬の感情って大っ嫌いなのよっ」
そう叫んで、ふぅーっと息をつく。
突然の大声に驚いて身を引いている芹菜に視線を当てて、膝に顎を乗せると怒った声のまま話し始めた。
「それに透輝のことばかり考えてる自分も大嫌いだった。あいつの何気ない一言に、行動にあたふたさらせれて…。そういうの我慢出来なかった」
真帆は少しの間黙り込み、「でも…」と言葉を続ける。
「愛されなくなって。ほら、芹ちゃんの身体だから。愛されてないでしょ?」
涙声で同意を求められて、芹菜は相槌を打った。
「透輝が自分以外の女性を見つめてる。愛してるのを目の当たりにして、もう自分が破壊しちゃうんじゃないかって…」
真帆がきっと顔を上げ、芹菜はどきりとして身を竦ませた。
「ああ、腹立つっ。許せないぃぃ。今度逢ったら首絞めてやるっ」
真帆は握りこぶしを固め、決意をにじませた大声でそう宣言した直後、今度はかっくりと肩を落とす。
「もし戻れたら、あんたが一番欲しがってた言葉を…」
唇からかすかすに零れる真帆の呟き。
切なさが伝染してきて、芹菜は自分の肩を抱いた。
「私たち、戻れるでしょうか?」
芹菜は何度も口にしてきた言葉を、またここで繰り返した。
「そんなの分かるわけないわ」
「ですよね」
「生きるしかないんじゃない?」
「ですね」
「そろそろ、寝よっか?」
真帆の声と、その背中が震えている。
「真帆さん?」
芹菜は心もとなげに声をかけた。
重たい沈黙が部屋を包む。
それを吹き飛ばすように、芹菜は明るく言った。
「明日の朝、目が覚めたら、元に戻ってたりして」
「なわけないじゃない」
真帆がわっと突っ伏し、芹菜も顔を覆って泣き出した。
芹菜は薄目を開けて、あくびをした。
瞼が腫れぼったい。
昨夜は、気が済むまでずーっと泣き続けてしまった。
ふたりして瞼を腫らして出て行ったら、三人が不審に思うかもしれない。
芹菜は隣で寝ている真帆を起こさないようにそっとベッドから降りた。
ベッドの隣には客用の布団が敷いてあったのだが、どうも泣きつかれてそのまま一緒に寝てしまったらしい。
なぜか頭がふらふらして、芹菜はよたよたと部屋を出た。
階段を降りて行く途中で、台所の物音に気づいた。
すでに母は起きているのだろう。
玄関の時計を確かめると、7時半だった。
芹菜は立ち止まった。
鏡も見ずに降りてきてしまったことに気づいたのだ。
瞼は腫らしてるし、そのうえぼさぼさの頭をしているのを見られたら…。
いったん部屋に戻って身だしなみを整えてからと一瞬思ったが、そのままお手洗いに歩いて行った。
母親に気を使っても仕方がない。
呆れられても、それは真帆だ。
笑いながら洗面所に入ろうとしたら、ぬっと人影が現れた。
驚いて見上げると、父親だった。
さすがに父親は、と固まっていると、肩をぽんと叩かれた。
「よ、早いな」
そのまま寝室の方へとのんびり歩いてゆく。
一瞬だけ、芹菜の思考がストップした。
すっとパジャマに視線を落とす。
彼女はくるりと方向転換すると、台所に飛び込んだ。
「あら、おはよう。ね、やっぱり朝食はパンとサラダとかの方がよくない。真帆さんってそういうイメージなんだけど…」
言葉がとぎれ、今度は呆れたような声が飛んできた。
「まあ、徹夜したんじゃないの? 真帆さんに迷惑でしょう」
芹菜は母親に飛びついた。
「ど、どうしたのよ、芹菜?」
ぎゅっと抱きしめてぬくもりを確かめると、芹菜はそのまま階段を駆け上って行った。
部屋に戻ると、息を詰め、ほとんど全身を覆っているタオルケットをそっと剥いだ。
真帆の全身が現れた。
「真帆さん」
そっと声を掛けた。起きる気配はない。
真帆の寝顔はきれいだった。
この身体で生活していたのかと思うと、深い感慨が湧いた。
芹菜は、はっと思い出した。
まだ自分の顔を確かめていなかった。
机の上においてある大きめの鏡を手にとって覗き込んだ。
見慣れた顔があった。
芹菜は胸が熱くなった。
真帆の芹菜とは違う。たしかに輝きもない。
髪型はしゃれているけど、どこかやぼったい。
それでもこれが自分だ。
芹菜は鏡の中の自分に向かって微笑んだ。
「けっこう綺麗だよ。それにかわいいし、ねっ」
「何、自分を褒めてるのよ。だいたいそれはもともと私の顔で…」
芹菜は笑顔のまま振り向いた。
ふたりの目が合う。
「う、う、うそーーーーーーっ」
ひょろひょろと空気が抜けてゆく元気のない風船のような声だった。
体中の力が抜けたように、真帆はへたり込んでしまった。
「真帆さん、ここは喜ぶところですよ」
「そ、そうなんだけど…」
芹菜は真帆に、鏡を手渡した。
鏡に映った自分の顔をじっと見た真帆は、パチンと音を立てるぐらい強くひっぱたいた。
「痛い!けどっ、信じらんない」
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