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その24 彼女の選択
バッグから携帯とハンカチを取り出し、額の汗をぬぐいながら、誰から来たのか確かめたが、相手の名前はディスプレー表示されていない。その番号にも覚えはなかった。
鳴り続けるままに出来ず、芹菜は電話に出た。
「あの、楠木さん?」
芹菜は思わず誠志朗を見つめた。大成の声だった。
「そうです」
「宮島だけど。突然ごめん。いま君の家に電話して、妹さんから君の携帯番号教えてもらったんだ」
芹菜は、携帯からの話し声が誠志朗に聞こえないように、ぎゅっと耳に押し当てた。
少し身体を離そうとしたが、そうしようとするたび誠志朗の腕に力が入り、どうしても身体が離せない。ふたつの理由で、芹菜の頬が燃えてゆく。
「は、はい」
「それで、足首は大丈夫なの?」
明後日、部活を終える三年生のための壮行試合が行われることになっている。
テニスの得意な真帆は、七月の県大会で十位入賞を果たすというとんでもないことをやってのけていた。だが、残念なことに芹菜の腕前は大したことはない。
いまさら芹菜が試合に出て、わざわざ自分の顔に泥をぬることもなかろうと、足首を捻挫して出られなくなったと、数日前、電話で顧問の先生に伝えたのだ。
「はい、大丈夫です」
嘘をついている後ろめたさで、声が小さくなる。
早く電話を打ち切りたくて仕方がないのに、なぜか大成が黙り込んでしまった。
「もしもし、宮…あ、あの?」
「…君、楠木さんだよね? ごめん、なんか…雰囲気違うなと思って」
ほんの一言話しただけなのに、大成の鋭さに芹菜は驚いた。
だが、それと分かるだけ、ふたりには大きな差があるということなのだろう。
「あの、…いまちょっと話していられないの。悪いけど…」
「あ、ごめん。すぐ終わるから。それで、出られないのは残念だけど、試合だけでも見に来ないかって。テニス部のやつらが。とにかくお前が元キャプテンなんだから、代表で電話しろって言われ。いてっ…、なにすんだよ」
「何、彼女に暴露してんだよ」
「ほんとだぜ、バーガーおごるって話もチャラだかんな」
そういう類の怒鳴り声に対して、大成の応戦が延々と続く。
芹菜は、ため息をついた。
真帆のモテモテオーラの毒にあたった男子は、いったいどれだけいるのだろう。
新学期を迎えなければならないことをすでに苦にしていたのだが、これでさらに嫌になった。
モテモテオーラが消えた芹菜など、彼らに用はないだろう。
別にもてたいわけではないが、自分のせいでひとががっかりする様など、正直見たくはない。
大成の耳に届くように、芹菜は負けじと大きな声を出した。
「あの、もう切るからっ。試合も見にいけないから。それじゃ」
芹菜はそれだけ言うと、ぷちんと通話を打ち切った。
用心のために電源も切ることにした。
はーっと息を吐いたところで、また誠志朗の腕に力がこもり、芹菜は自分の状況を再確認することになった。
「ずいぶん賑やかな電話だったね?誰からなんて聞く権利、僕にはないかな?」
その言葉に、ハンカチで汗を拭いていた手が固まる。
状況に追いついてゆけない。
電話の前の誠志朗との会話も、すでに頭から飛んでしまっていた。
誠志朗の腕が緩み、彼が一歩後ろに下がった。
すっと身体が冷えた気がした。だが、間をおかず彼が言った。
「君が好きだ」
その言葉は、芹菜の心にすとんと落ちた。
まるで波紋が広がり始めたかのように、胸のあたりに細かな振動を感じた。
「君さえ良ければ、付き合って欲しい」
芹菜は、言葉に詰まった。
頭の中で駆け巡る思い。
だが、彼女はすべての迷いを断ち切った。
後でどんなに苦しむことになろうと、彼との時を過ごしたい。
「あの、私なんかで、よ、よければ、よ、よろしくお願いしますっ」
どういう返事をして良いか分からず、芹菜はどもりつつそう言って、丁寧過ぎるほど深くお辞儀をした。
誠志朗の押し殺した笑い声が聞こえ、芹菜は頭を上げた。
どうしても堪えきれないらしく、口を押さえている誠志朗と目が合った。
芹菜は、むっとして彼を睨みつけた。
「ごめん。あんまりかわいかったから」
その言葉に、これまで彼女が耳にしたことのない不思議な甘さを感じた。
芹菜は、ぽっと頬が染まった。
抱きしめられるのかなという芹菜の予感は外れた。
それどころか誠志朗は、もう一歩身を引いて彼女から離れた。
「もう行った方がいい。かなり遅い時間になってる」
失望感が湧いた。
その失望がはっきりと顔に出たのかもしれない。誠志朗がためらいがちに言った。
「もう一度抱きしめたら、君を帰したくなくなる」
芹菜の胸がぞわっと騒いだ。
うれしさが半分、そしてあとの半分は…きっと怖れだ。
芹菜は俯いたまま誠志朗に頭を下げると、踵を返した。
背後で誠志朗の「おやすみ」というやさしい声が聞こえ、半分振り返って「おやすみなさい」と返事を返すと、芹菜は急いで門をくぐった。
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