君色の輝き
その27 納得行かない決まりごと 



終業間近になっても、芹菜のわだかまりは胸に居ついたまま、どっしりと腰を据えていた。落ち込みの方も、わだかまりと一緒になって座り込んでいる。
この落ち込みも限界を極めて、普通に戻ってくれないだろうかと期待したが、そんなに都合の良いことは起こりそうもなかった。

誠志朗に素顔を見られたことも、落ち込みに拍車を掛けていた。
彼女の素顔を見て、彼はどう思っただろう?
考えたくもないくらいがっかりしたのではないか?
彼の恋心…いや、身代わりの恋心…も、すっかり覚めてしまったかも。
告白してしまった手前、いまさらあれは無しだと言い出せないでいるかも。

「かも」ばかり連発している自分が嫌になってきた。
だからと言って、やめられない。

仕事の方は昨夜の誠志朗の頑張りのおかげで、十分なくらいまで片付けることができている。仕事の終わりを告げるメロディーが流れ始め、それを心待ちにしていた芹菜は、机の上をそそくさと整理して立ち上がった。

「それじゃ、お先に失礼します」

みんなからの返事も待たずに芹菜は背を向けた。いくつかの返事が耳に届いたが、誠志朗の声がその中に混じっていなかったことで、芹菜の落ち込みはさらに増した。





「まさか、置いていかれるとは思わなかったな」
柔らかな言葉に、はっきりと剣を込めて誠志朗が言い、芹菜は彼の車の助手席で小さく縮こまった。
社の玄関を出て五分ほど歩いたあたりで、誠志朗の車が横付けしてきたのだ。

「後悔してるの?」

思ってもいなかった言葉に、芹菜は顔を上げた。
どちらも何も言わないまま、少しの時が過ぎた。

「…付き合うこと」と、誠志朗が付け加えた。

「わたしが…ですか?」

「そう。他にいないだろ?」

「誠志朗さんが…あ」

「いいよ、そう呼んでくれて。で、僕が、何?」

「…後悔してるんじゃないかなって」

また少しの間が空いた。

「どうして?」
かなり意外そうな声だった。

「だって…見たから」

「何を?」怪訝そうな声だ。

「わたしの…顔」
俯いたまま言い難そうに口ごもり、やっと言葉にした。

誠志朗は何も言わなかった。
芹菜は、瞬きもせずに自分の膝をじっと見つめた。

「すまない。君が飛び出して行ったから、僕の態度と言葉がよくなかったかなって、気になってはいたんだ。でも、あの後、話すチャンスも無かったから…」

じっと動かない芹菜の横顔を、誠志朗がちらりと見た気配がした。

「…なんて表現したら良いのかな。ピュアな感じというか。…驚いただけなんだ。それと、口紅を付けたらって言ったのは、年齢差が気になってね」

年齢差という言葉を持ち出されて、芹菜はどきりとした。

「僕の歳知ってる?」

「いいえ」
そう答えた。だが29歳の筈だ。大成が一回り違うと言っていた。

「26。君とは5歳も違う」

「えっ」
芹菜は思わず叫んだ。
一回りくらいと言ったのに、三つも誤差があったのかと、一瞬喜んだものの、まだ九つもの差は歴然としてあるのだ。

「そんなに驚かれると傷つくな」

「す、すみません。主任されてるから、もっと上かなって…」

「そんなに老けて見える?」

「そ、そんなことは無いです。とても若く見えるなって思ってました」

「素顔の君は、もっと若く見えた」

芹菜の心臓がまたどくんと跳ねた。誠志朗が間をおかずに続けた。

「だから、思わず口紅くらいはって言ってしまったんだ。なんだか、僕では君に不釣合いな気がして」

苦笑交じりだけど、不安げに聞こえた。
芹菜が不安に思うのと同じように、誠志朗も不安を感じるのだと分かってほっとしてしまった。

車中の雰囲気が一気に心地良いものになった。誠志朗も同じように感じているらしく、彼の口元がとても柔らかになっている。

「これから夕食一緒に食べよう。良いよね」

「あ、渡瀬の家で食事の支度していただいてるので…」

「今日はいらないって、連絡出来ない?」

沈黙している芹菜の頭の中は二択に苦しんでいた。誠志朗と一緒にいたい。でも、ふたりきりの食事なんて恥ずかしすぎる。
だが、ふたりきりの時が限られていることを思い出すと、バッグから携帯を取り出し、渡瀬家に電話をした。
食事を用意してくれているお手伝いの野木さんは、芹菜の好物を作ったのにと、少し残念そうだった。でも、今夜は健吾も戻るし、由希子もいるというのでほっとした。真帆は今夜も遅くなるらしい。

「何か食べたいものある?」

「そんなに好き嫌いないので、でもあんまりフォーマルなところはちょっと」

「それならイタリアンでいいかな。家の近くにけっこううまいところがあるんだ」

宮島家の近くと聞いて、芹菜はビビッた。うまいのかもしれないが、まず過ぎる。

「で、出来ればもっと渡瀬家に近いところのほうが」

「大丈夫。そんなに遠くないんだ」
そう言いながら、誠志朗は車を発進させた。

芹菜は窮地に立った気分で座席に体を押し付けた。
大丈夫だ。大成にさえ逢わなければいいのだ。と、芹菜は自分を落ち着かせた。





誠志朗に連れて行かれた店は、住宅地の隅にポツンと建っているそんなに大きくない建物だった。白い外観の側壁には大きな煙突がついている。
入り口のところにはさまざまななオブジェが飾られていて、手作りの温かさがあった。
駐車場も十台止まれるかなというくらいだ。そこにはすでに三台ほどの車が駐車している。

中に入ると、誠志朗が普通の客ではなく常連以上に親しい間柄なのが、店の人との会話で伝わってきた。

「奥、使わせてもらえるかな?二人だけど」

「あはははは どうぞ、どうぞ あはははは」

「奈津子さん、何笑ってるんですか?」

「いや、めでたいなぁと思って。おい、おーい、松ちゃん、来てみぃ」

奈津子と呼ばれた三十過ぎくらいの女性は、奥に向かって店内中に響く声で叫んだ。
芹菜は彼女の反応に困って、誠志朗の背中に隠れた。

「なんだよ。うるっさいなぁ、お前はぁ」

「ぶふふふふふふふふ」

「気味悪りぃなぁ、どうしたんだお前。…あれっ、誠ちゃんかよ、らっしゃい」

「松さん、奥、使わせてって頼んでるんだけど」
この店を選んだことを、いくぶん後悔しているような声だった。

「へっ?ひとりでか?」

「いや、ふたりだけど」
そのやりとりに、奈津子がまた馬鹿笑いを始めた。

「おめえ、うるせぇぞ。お客さんに迷惑だろうが。さっきから何笑ってんだよ」

「だってぇ、ねぇ、隠れてないで出てらっしゃいよぉ」

「いったい、誰に声掛けてんだ」

芹菜は仕方なく、誠志朗の背中から出て行った。
さりげなく誠志朗の手が背中に添えられ、彼女は隠しようもなく真っ赤になった。
額に汗を光らせ腕には白い粉をつけた男のひとに向かって、彼女は丁寧にお辞儀をした。

芹菜を目にして、一瞬固まった男の人の口から、「げっ」という叫びが洩れた。

「あ、あんたってば。お嬢さん、ごめんさいね」

「この店に連れてきたのは間違いだったな」と、誠志朗が独り言を言った。

「松さん、奈津子さんまた来るから。今日のとこは帰ることにするよ。それじゃ」
芹菜は誠志朗に促されるまま、回れ右をした。

「ええー、そんな、いまさらじゃないの。食べてってよ」

「いや、この雰囲気じゃ、たぶん彼女一口も食べられない。それじゃ、かわいそうだから」

「誠ちゃん、やっさしーーー、誰かと違って」

結局、二人は店の外に出た。
車に戻りながら、誠志朗がくすくす笑い出した。

「芹香君、すまない。おいしいからと思って連れてきたんだが」

「誠ちゃん、すまんかったなぁ。また一緒に来てくれよ、なっ、なっ」
わざわざ店の外に出てきて、松さんと呼ばれた人が、豪快な、だが少ししょげた声で言った。

誠志朗は笑顔で受け答えして、車を出した。

それから三十分後、ふたりは向かい合って料理をつついていた。
小さく一間ずつ仕切られている和食のお店で、まだ早い時間だからか、そんなに人もいなかった。一間の入り口には長めの暖簾がかけてあり、和風の造りなのに座敷ではなく椅子とテーブルになっている。

「おいしい?」

「は、はい」

銀杏を口に入れようとしていた芹菜は、その口で返事をしてしまったものだから、銀杏がぽとりと落ちた。
慌てて銀杏を拾っている彼女に、誠志朗が微笑んだ。

「そんなに緊張しないでくれると嬉しいんだけど」

「すみません。男の人とふたりきりで食事するなんて、初めてなので」

俯いていた芹菜は、誠志朗の微かな呟きを耳にして顔を上げた。
そこには心が震えるほどやさしく微笑んでいる誠志朗がいた。

なんだかいても立ってもいられないという気分に襲われた。
彼の瞳から、受け止め切れないほどの思いが胸の中に流れ込んで来た気がした。
胸がいっぱいいっぱいになって、芹菜は食べ物が喉を通らなくなった。


レジの前で誠志朗と並んで財布からお金を取り出そうとしていたら、財布の上に彼の手が載せられ、芹菜は驚いて彼を見上げた。
「支払いはまかせてくれないかな」と、少し困ったような笑い顔をしている。

「え、で、でも」

芹菜の戸惑いに構わず、誠志朗は支払いを済ませてしまった。
だが、自分の分まで払ってもらったことに、彼女はどうしても納得出来なかった。

車を走らせながら、誠志朗が言った。

「これからも、支払いは僕がするから、いいね」
まるで分からない子供に、言い聞かせているような言い方に、納得できずにいた芹菜はカチンと来た。

「そんなの駄目です。私も働いてるんだし、そんなの…」

「割り勘だなんて、友達同士のすることだろ?」
誠志朗が芹菜の言葉をさえぎって言った。少しむっとしているようだ。
芹菜は彼の言葉に戸惑った。

「…付き合ってると、割り勘しちゃいけないってことに決まってるんですか?」
そんな決まりがあるのかと、依然納得出来ないながらも、納得した。

「誰がそんな決まり作ったんでしょう?男の人達、気の毒過ぎます」

そう言ってから、芹菜は誠志朗に明るく笑いかけた。

「でも、決まりに従う必要はありませんよ。学校の規則だって、従う必要感じないものいっぱいあるし」

真帆の経験を経た今の芹菜は、規則だからという理由だけで従うことの無意味さをつくづく感じていたものだから、思わず強い口調になってしまった。

突然車のスピードが落ちた。ブレーキが強くかかり、芹菜は前のめりになって驚いた。

「誠志朗さん、な、何かあったんですか?」

車が停車した途端、誠志朗がハンドルに突っ伏して笑い出した。

「…誠志朗さん?」




   
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