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その29 片目パンダの不運
机に両方のひじを突いて、芹菜は思案に暮れていた。
すでに、渡瀬の家には戻ってきていた。
左手にずっと持ったままだった携帯をいったん机に置いて、決意してまた拾い上げ、肩とため息を同時に落としながらまた置いた。
ひりひりする右腕と、ズキズキする右の眉のあたりの痛み。だが、いまさら後悔しても遅い。
今年の夏のイベントは、なんとカヌーを使っての激流下りだった。
まったくあの父親、ネタが尽きてきたとはいえ、とんでもないプランを立ててくれたものだ。
確かに、「怖かったら止めても良いんだぞぉ」という、魂胆見え見えの父の挑発に乗ってしまった彼女も彼女だが。
さすがに母は激流は遠慮して、流れのやさしいところだけにしたのだが、妹の真奈香がやってのけたのを見て、俄然芹菜の闘志が湧いた。
以前の彼女だったら、怪我に怯えてチャレンジなどしなかったと思う。
だが今回は、臆病の虫に囚われて二の足を踏むことが、なぜかとても嫌だったのだ。
そろそろ薄暗くなってきている外の景色を見つめて、さらに増した悔恨のため息をつく。
誠志朗に電話をしなければ…約束したのだから…でも掛けられない。
どうせ逢えないのに…
この顔で彼の前に出るなんて考えられない。
真帆は今日も遅くなるというし、誠志朗に会うための化粧をしてくれるひともいないのだ。
もちろん、右眉に大きなガーゼを当て、固定するために頭に大きく包帯を巻いているこの状態で、化粧をするというのは無理を感じる。
だが、そんな正論をすべて頭に入れていても、誠志朗に逢いたかった。
芹菜は、また新しく膨らんだ後悔に苛まれて机に突っ伏した。
どのみち、この怪我は、職場まで持ち越すことになる。
「この腫れと青あざはだんだん目のあたりまで下がって、明日くらいには立派な片目パンダ状態になるだろうな。まあ、人生長いんだ、たまにはパンダになって、世間の笑いものになるのもいいもんだぞ」
治療してくれた外見が熊みたいな医師は、そう言ってにやついていた。
この状態を誰にも見られたくなければ、バイトを辞めるしかない。
せめて、真帆が帰ってきてくれれば…
相談にも乗ってもらえるだろうし、もしかして化粧とかで誤魔化すことも可能かもしれない。
なんにしても、今日のところは無理なのだ。
芹菜は心を決めて電話を掛けた。
プルルっと八回コールが鳴っても誠志朗は出なかった。
寂しさと安堵が入り混じった気分で芹菜は電話を切ろうとした。
「はい」
芹菜は驚いて、携帯を取り落としそうになった。
誠志朗ではなかった。知らない男のひとの声だ。
「もしもしぃ」
なぜかものすごく声を潜めている。
芹菜は気味が悪くなってきた。
「あ、ご、ごめんなさい。間違えたみたいで…」
「あ、ちょっと待ってっ。誠志朗兄貴に掛けたんでしょ?」
一瞬どきりとしたが、大成の声ではない。
バタンと音がして、それまで潜めていた男性の声が、普通の音量になった。
「俺、弟です。初めまして」
「は、初めまして」
「誠志朗兄貴に彼女がいるなんて知らなかったなぁ。ね、彼女なんでしょ?」
「あの、誠志朗さんは?」
「寝てます」
「そうなんですか。それじゃ、また掛けますから」
「え、えっ、そんな、せめて…」
「拓」
「わーっ」
叫び声と同時に、パタンと携帯が閉じたような音が響いた。
「何を驚いてるんだ。…それより俺の携帯…。お前、それ。えっ、おい、拓?」
手に取るように、電話の向こうの情景が伝わってきた。
「誠志朗さん?」
芹菜は大きな声で呼びかけた。
はっと息を呑んだ誠志朗が「芹香君、君か?」と言った。
「そうです」
小さく舌打ちする音が聞こえた。
「すまない。弟の拓だ。あいつには、後で十分過ぎるくらい、後悔させてやることにするよ」
怒りを含んだ冷ややかな声で誠志朗が言った。
芹菜は、逢ったこともない拓の身が心配になった。
「あの、ほんとに…」
「それじゃ、これから迎えに行くから。どこに行けばいい?」
「それが、ちょっと訳があって、逢えないんです」
「…そ、そうか。…なら明日は朝から逢えるかな?」
芹菜は、返事に困って黙り込んだ。
「…明日も駄目なのか?」
ものすごく残念そうな声に、芹菜は申し訳なくなってきた。
それに芹菜自身だって、残念でならないのだ。
「…じつは、怪我しちゃって」
「えっ、怪我! 大丈夫なのか?」
「大丈夫なんですけど、ただ、…逢えない顔になっちゃってるので…」
逢えないという言葉に胸が迫って、涙が出そうになった。
「は?」
「明日は片目パンダになるって宣告されちゃって、お医者様に…だから」
芹菜は詰まった胸に明るい空気を入れようとして、無理に冗談っぽく答えた。
「パンダ?」
怪訝な声に、芹菜は後悔した。
慣れない冗談など口にするものではない。
しかも、誠志朗相手に…
「今どこにいるの?」
「渡瀬の家ですけど」
「それじゃ、これから迎えに行く」
「えっ、駄目です。どうしても逢えません」
「じゃ後で」
「駄目っ…」
ぶちっと電話が切れ、芹菜は絶句した。
「君のご両親、こんな状態の君を、よく先に帰してくれたな」
「こんな状態だから帰してくれたんです」
芹菜は助手席のガラス窓を見詰めたまま、語気荒く言った。
彼の前に出てくるのが、どんなに嫌だったかなんて、誠志朗はちっともわかっていない。
彼が強引にでも芹菜に逢いたがってくれたことは正直嬉しい。
それとは別に、彼女の気持ちをまったく無視されたことには哀しい怒りを覚える。
今の芹菜は、口紅はつけてきたけれど、素顔のままだ。
化粧をしていれば、誠志朗に釣り合う女性でいられるのに…
結局、この怒りは、芹菜そのものを彼の前に晒していることの怖れなのかもしれない。
「逢えないって言ったのに」
ガラス窓に向かって彼女は呟きのような文句を言った。
「この状態だから帰してくれたって言うのはどういうことなんだい?」
彼は、芹菜の愚痴など頭から無視するつもりらしい。
確かにすでに車に乗ってしまっているのに、いまさらそれに対してくどくどと文句を言っても意味がないことは分かっている。
芹菜は押し黙っていた。
誠志朗も何も言わなくなった。
長いこと沈黙が続き、芹菜は不安が頭をもたげた。
「あの、いったいどこに向かってるんですか?わたし、こんな状態で、どこにも行きたくないんですけど」
誠志朗の返事がない。
さらに不安が膨らむ…
芹菜は仕方なく、誠志朗に振り向いた。
前方を見つめている誠志朗の表情がいつもと同じだったことで少しほっとした。
「誠志朗さん?」
「僕の問いに、君はいつ答えてくれるの?」
とてもやさしい口調だった。なのにとても違和感を感じた。
「もしかして、怒ってます?」
誠志朗は返事をしなかった。
芹菜が沈黙に耐え切れなくなった時、車が白っぽいビルの駐車場に入って行った。
かなり薄暗くなって来たので、はっきりと確認出来ないが、どうもマンションのようだ。
「あの、ここ?」
「僕の家」
ぶっきらぼうに誠志朗が答えた。
彼の家は、宮島家だとばかり思っていた芹菜はひどく戸惑った。
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