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その31 背負いきれない罪悪感
遊園地、水族館、森林公園、植物園、彼が挙げたリストの中から、芹菜は水族館を選んだ。
海の近くにあるから、久しぶりに海も見られるし、水族館も中学二年の時以来だ。
すいすい泳ぐ魚を見るのは、涼しくって楽しいだろうと思えた。
お盆休みで、リニューアルされたばかりの水族館は親子連れやカップルでいっぱいだった。
年齢層はほんとうに小さな子からお年寄りまで、幅が広い。
「水族館って、人気あったんですね。閑古鳥が鳴いちゃうくらい人がいないのかと思ってました」
「一昔前のイメージとはぜんぜん違うな。こんな大型の水槽、どうやって作ってるんだろうな」
水族館の中を巡りながら、ふたりは驚きの声を上げてばかりいた。
通路も歩みを制限されるくらい、人の列が並んでいる。
芹菜は、水族館を選んだ自分に悔いていた。
帽子を目深に被ってはいるものの、右目の黒ずみは目立つはずだ。
そんな彼女を連れて歩かねばならない誠志朗に、ただただ申し訳なかった。
「すみません。こんなに人が多いなんて思わなくて。こんな顔の私を連れてるなんて、誠志朗さん恥ずかしい…」
そう言った途端、誠志朗に肩を抱かれた。
驚いて彼を見上げると、肩に回した手にぎゅっと力を入れて、彼は可笑しそうに笑った。
「君がそんなつまらないことを言うからだぞ」
水族館を一回りするのに、二時間近く掛かった。
アシカと、ペンギンのショーが一時間毎に交代で行われていて、別館ではシャチのショーもあるという。
ふたりは開催時間がすぐのアシカのショーを見ることにして、特設の会場に移動した。
始まるまで、まだ三十分ほどある。
ふたりは空いている一番前の席に、腰を落ち着けた。
「先に食事してきた方が良かったかな」
「カキ氷も食べたし、わたしは後でいいですけど、誠志朗さんがお腹空いてるなら」
「君がいいなら、後にしよう。前の席に座れたし。でもここは危ないかも知れないな」
誠志朗がそう言って、足元を見つめて笑っている。
そのあたりの床は水浸しだ。
たぶんこのあたりはショーの最中に水が飛んでくるのかもしれない。
「濡れてもきっと大丈夫ですよ。すぐに乾いちゃうと思うし。…なんだかわくわくして楽しいし」
芹菜はそう言って、悪戯っぽく笑った。
誠志朗も同調してくつくつ笑った。
「それじゃ、全身水浸しになってから後悔するかな」
芹菜はにっこり微笑んで頷いた。
「明日は、ゴルフに行くことになってるんだ。父親と賢司夫婦と四人で。前々からの約束だからいまさらホゴにも出来なくて。君さえ良ければ一緒に着いて来てくれたら嬉しいけど…嫌だろ」
もちろん、芹菜は頷いた。
誠志朗に逢えないのは残念だが、仕方がない。
「それだったら、私は真帆さんに付き合って、彼女の婚約者さんに逢いに行ってきます。真帆さん、彼に入れ替わりのこと話したんだそうです。すぐに納得してくれたって。それで合点がいったって。信じるひと、いるものなんですね。その婚約者さんが私に逢いたいって。本当は、今日、一緒に行くわよって。真帆さん強引だから、断るの大変でした」
「僕とデートだって言った?」
芹菜は首を横に振った。
誠志朗と付き合っていると話したら、真帆はどんな反応をするのか想像もつかなかった。
怒り狂うかもしれない、誠志朗を騙していることに…
芹菜だって、酷い罪悪感に囚われているのだ。
その罪悪感は、彼との時が増えるたびに膨らんでゆく。
それでも、彼女に与えられている日々が終わりを迎えたら、消えなければならない、誠志朗の前から…
本当のことを彼に言う勇気など、微量もない。
彼女が高校生だと知ったら…彼は…
芹菜は、それらの考えをすべて頭から追い払った。
いまは止めよう。いまはまだ…
芹菜は、胸のあたりにある鈍とした重い塊も、意識から追いやった。
「…なんだか言い出しづらくって、友達と遊びに行く約束してるからって断りました」
「僕とのこと、公表したくない? 職場のみんなにも隠しておきたい?」
「…きっと、みんなの目とか意識しちゃって、どういう態度取っていいか分からなくなっちゃいそうです。仕事もやり辛くなると困るし」
「まあ、確かにそれはあるかも知れないな。でも、令嬢の婚約者がなんで君と逢いたがるんだ?」
「たぶん、私と逢わないと、透輝も気持ちの整理がつかない…」
芹菜ははっと口を噤んだ。
「トウキ?…藤城トウキか。驚い…いや、そうか…」
誠志朗の顔が、合点がいったという表情になった。
「だからあの時…そうか、令嬢に逢いに来たのか。代理だなんて、おかしいと思ったんだ。…でも、あの時の令嬢は君だった。二人きりになって、彼に何もされなかった?」
眉を寄せた誠志朗の顔に、はっきりと怒りが浮かんだ。
「渡瀬のおじ様が一緒でしたから」
「でも、君は入れ替わっている間ずっと、彼の婚約者としてあの男と逢ってたんだ。それも相手は有名な俳優で…」
「真帆さんの婚約者です」
「そうだが…なんだか分からないが、胸がムカムカする」
吐き出すように言った誠志朗の顔には、嫉妬の感情がむき出しになっていた。
始め、心が舞い上がるくらい嬉しさが湧いた。
嫉妬されることのジンジンするような快感…
だがすぐに、先ほど追いやったはずの胸の鈍とした重い塊が、重量を増して芹菜の胸を押しつぶした。
「君が彼のファンだったなんてこと…」
「ありませんから」
そう答えたものの、芹菜の視界は真っ暗に反転していた。
自分の愚かさと残酷さを、今はっきりと悟った。
恋愛はひとりでするものではない。
自分のことばかり考えている、あまりに身勝手な自分を殺してしまいたかった。
誠志朗の思いなどまるで考えず、嫌われるのが怖いばかりに、黙って逃げ出そうとしている。
ついにショーが始まるのか、アナウンスが始まり、ざわめきと拍手が鳴り響いた。
周りを見回すと、身動きも取れないほど満員になっていた。
「くそう」
巨大なざわめきにまぎれるように、誠志朗が呟いた。
「いますぐ、抱きしめたいのに…」
幸せだった。
そして胸がつぶれそうなほど苦しかった。
こんなに幸せに身を置いている自分…
そして誠志朗の愛にふさわしくない、残酷な自分…
このまま、幸せだけを味いながら消えてしまえたら…どんなにいいだろう。
誠志朗と別れ、渡瀬の玄関に入った芹菜は、深いため息をついた。
明日は逢えない。
次に逢えるまでの時間が重たい荷物のように感じた。
そしてまた、強い危機感が胸を圧迫する。
車を降りる直前に、彼が口にしたさまざまな質問…
「九月になったら、どうするの?すぐ家に帰るの?…ところで君の家はどこなの?」
「まだしばらくは渡瀬にご厄介になるつもりです。でも、そろそろ本格的に受験勉強しないといけないので…」
「あ、そうか。教員免許か、理学療法士だったね」
そう言って微笑む誠志朗に、胸の痛みを抑えながら芹菜は微笑み返した。
その後、彼が質問を繰り返す前に、芹菜は急いで別れを告げた。
靴を脱ぎながら、芹菜は脱ぎされない体にまといつく罪悪感に悲鳴を上げていた。
もう無理かもしれない。
これ以上の誤魔化しなどとても…
『消えるのなら、いますぐにそうすべきよ』怯えた芹菜が言う。
『消える前に本当のことを言わなきゃ、彼の気持ちはどうなるの?』と正論を口にする正義感に燃えた芹菜。
彼のぬくもりを求める気持ちが抑えられず、『でも…まだ…』と芹菜は呟いた。
胸の奥で微かな声がした。
『まだ大丈夫よ。もっともっと甘い時を味わえばいい』許せないほど理不尽な言葉…
芹菜はその声に耳を塞いだ。
「芹ちゃん、ずいぶん遅かったのねぇ」
芹菜は、真帆の声にはっとして顔を上げた。
「ど、どうしたのよ?」
隠しようもないくらいの涙が溢れ、頬を伝っていた。
もう駄目だ。なにもかも終わりだ。
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