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その7
ああ、清々しい。
ケバイ化粧を落としてほぼすっぴんになった菜穂は、お気に入りのワンピースと薄手のカーデガンに着替えてホテルを出た。
脱いだ着物をどうすればいいのかわからず困ったが、着付けスタッフがやってきて片付けてくれた。
足取りも軽く駐車場へ向かう。
振袖の後だからか、普段の格好が超らくちんに感じた。
そのまま車の所に行こうとした菜穂は、ふと聞こえてきた波の音に足を止める。
砂浜の散歩……
蒼真との会話を思い出してしまい、菜穂は顔を歪めた。
あの時は気づかなかったけど、いま思えばあれも嫌味だったんだろうな。
思わせぶりに残念ですなんて言ってたけど、腹の中では、お前のようなケバイ女の誘いなんて受けるわけないだろう……とか思われていたのかもしれない。
そう考えたら、また腹が立ってきた。
「あーーーっ」
怒りを晴らそうと、菜穂は思い切り声を出した。
それですっきりできたらいいのだが、かえって思い出してしまい落ち込んでしまう。
菜穂は気分転換もかねて、砂浜に下りてみることにした。
せっかく海辺まで来たんだから、見て帰らないともったいないよね。
菜穂はくるりと踵を返すと、背筋を伸ばして歩き出した。
うわーっ、気持ちいい。
心地よい風が頬を撫でていく。
海の色も、キラキラ光る水平線もとても美しい。
ザザーン、ザザーン、と打ち寄せる波の音に、傷ついた心が癒されていくようだ。
散歩に来てよかった。
菜穂は波打ち際まで歩き、足元に目を向けてみた。
小さな貝殻が、いくつか砂から顔を出している。
屈み込んで貝殻に手を延ばそうとしたその時、巻き上げるような風が吹きつけてきた。
ワンピースのスカートが大きく膨らみ、菜穂は慌ててスカートを押さえた。
その瞬間、目に違和感を覚える。
「あっ!」
どうやら目にゴミが入ったようだ。
涙でゴミを押し出せないものかとぱちぱちと瞬きを試みるが、これが痛いのなんの。
なんなのよお。
ようやく気持ちがすっきりしたところだったのに……
結局ついてない自分に悲しくなり、菜穂はその場にしゃがみ込んだ。
目の痛みで、ポロポロと涙を零していたら、背後から砂を踏む足音が聞こえてくる。
「あの、大丈夫ですか?」
控えめに声をかけられ、菜穂はドキリとした。
こ、この声……ケバイ発言しやがった最低野郎の声に似てるけど……まさかよね?
せっかく気持ちを切り替えに来たのに、彼と再会なんて勘弁して!
何も答えずにいたら、その人は菜穂の側にやって来た。
「体調でも悪いんですか?」
やっぱり上月さんだ!
心配そうに声をかけられ、なんとも複雑な気持ちになる。
彼は声をかけたのがわたしだって気づいてないんだ。
「ご気分が悪いようでしたら、休めるところまでお連れしましょうか?」
思いやりのある言葉に胸がムカムカする。わたしにはあんな酷い態度を取っておいて……他の人には普通にやさしいんだ。
わたしだって気づいたら、また態度を一変させるんだろうな。
そんな風に考えた瞬間、胸が切なく疼く。
……なんだか、もうどうでもよくなってきた。
さっさとわたしだって気づいて、この場からいなくなってほしい。
「目に……ゴミが入っただけです」
どうでもいいと思った割には、ぼそぼそと言ってしまう。
「そうでしたか。……あの、よかったら、どうぞ」
目の前にハンカチを差し出され、菜穂はそれを凝視してしまう。
一秒二秒と沈黙が続き、ハンカチが引っ込められた。
せっかくの厚意を無にしてしまったことに、軽く罪悪感を覚える。
「まったく使っていないわけではないから……嫌かな。ティッシュでも持っていればよかったんだが……」
申し訳なさそうに言われて、涙が込み上げそうになる。
この人のやさしさなんて知りたくない。
すぐにもこの場から立ち去りたくなった。
立ち上がろうとしたら、彼はさりげなく手を貸してくれようとする。
その手を無視して立ち上がったら、砂に足を取られてよろけてしまった。
「おっと」
傾いた身体を蒼真が支えてくれる。
驚いた菜穂は思わず顔を上げてしまった。
間近で目が合い、蒼真が目を見張る。
あ、気づかれた。
すぐにも態度を豹変させると思ったのに、彼は菜穂の顔を凝視したままだ。
「あ、あの……」
不審に思って声をかけると、彼はハッとしたように手を離し、「ああ、すみません」と言う。
えっ? 顔を合わせたのに、まだわたしだった気づいてないの?
あっ、そうか……! 化粧をしていないから、わたしってわからないんだ。
それならそれでありがたい。
こうなったら、他人の振りをしたまま、この場から立ち去ろう。
「ご心配いただいてありがとうございました。でも、もう大丈夫ですので、これで失礼しま……」
「え、その声……まさか……」
し、しまったっ! 声でバレた⁉
菜穂は蒼真を突き飛ばすようにして身を翻し、その場から飛んで逃げたのだった。
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