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愛美は思ったよりも早く戻ってきた。
教室の中に入り、百代を見て笑みを浮かべた愛美は、別人のようだった。
なぜか、いつもきっちり編み込んでいる髪を垂らしていたのだ。
部屋の中にいたのは、百代だけだったが、もしここにクラスメートが残っていたら、相当驚いたに違いない。
何があったのかと尋ねた百代とのやりとりに気を取られてか、愛美は自分が髪を垂らしていることを忘れているようだった。
突然の拉致のわけを聞いてみると、なんとも櫻井らしいといえる話だった。
愛美の髪の変化の理由も、その話で簡単に察することが出来た。
しかし、取材の聞き込みに熱が入りすぎて、女教師に好きだと勘違いされるとは…櫻井には呆れる。
もちろん、わざわざ誤解を解くのに愛美を使ったのは、相手の教師も、櫻井に対してはっきりとした好意を抱いているとわかって、慌てたからに違いない。
その女教師、なんとも可哀想でならない。
本気で年下の男の子に恋をしてたんだろうに…
櫻井の大馬鹿野郎は、純真な先生相手に、無意識にかもしれないが、思わせぶりな態度を取ったに違いないのだ。
いま目の前に櫻井がいたら、奴の顔を思い切り殴りつけていたかもしれない。
しかし、女は怖いぞ。
あいつは今後、背後に万全の注意をしていた方がいい。
まあ、そうなったら、そうなったで自業自得ってやつか…
さすがに、命を狙われるようなことはあるまいし…
まあ、愛美拉致には、最高の収穫が付録についてきたわけだしね。
櫻井がMMOの大ファンだってことなら、うまく誘えば、奴は簡単に乗ってくるかもしれない。
校門に向かって歩いていた百代は、隣を歩いている愛美の動きに気づいて顔を向けた。
髪を垂らしていることに、いまになって気づいたらしく、奥谷のことを話しながら髪を元通り編みこもうとしている。
もったいない。
「髪、そのままでいいじゃん。きっちり三つ編みにしてるのなんて、愛美くらいなものだよ。かえって目立つよ」
「で、でも、落ち着かないし…目立つ?」
目立つの言葉に、愛美は不安そうな目で百代を見つめてきた。
目立ちたいばかりの奴等がいっぱいいる中で、この子はなんと稀な存在だろう。
「うん。まあ、あんたの場合、垂らしてても目立つだろうけど…どっちかというと、三つ編みの方が目立つかな」
百代の言葉を聞いて戸惑った愛美は、どうすればいいのか分からなくなったのか、唇を尖らせた。
そんな愛美に向けて、百代はにっこり笑いかけた。
「わたし、愛美の髪が揺れてるの見るの好きだよ」
愛美は考えた末に、髪を編むのを止めた。
ほんと、いい子だよ…
母の気分で愛美を見つめ、百代は途中になっていた話を続けた。
蘭子と奥谷のことだ。
なんとも馬鹿馬鹿しい、そして哀しい話。
奥谷は、蘭子をライバル視し、彼女より秀でることだけを考えてる。そして蘭子も、そんな奥谷をひどく見下している。
百代に言わせれば、どっちもどっちだ。
「馬鹿馬鹿しいよね」
百代の締めくくりの言葉に、愛美が「うん」と頷いた。
正直な答えに、百代は笑い出した。
「蘭子を出し抜いてトップに立つことだけを考えてる…いまはもう、憑りつかれてるって言った方がいいかもね」
「可哀想…心が休まらないわね」
確かに可哀想だと百代も思う。けど…
「それも彼女の自由な選択の結果。同情は、かえって彼女に失礼だよ」
思わずそんな言葉を口にしてしまい、百代は内心自分が恥ずかしくなった。
いまの自分の発言は、愛美に向けてというより、百代自身に向けた言葉なのだと思う。
「そうだね」
反省したように愛美が呟いた。
そんな愛美の顔を、百代は覗き込んだ。
この子は天使だ。
素敵な王子様と、しあわせになってもらいたい…
「百ちゃん、何?」
「彼のこと好きなの?」
百代にとっては自然な流れの問い掛けだったが、愛美をずいぶんぎょっとさせたようだった。
「ちゃんと話した?」
「何を?」
「自分のことよ。歳は十七歳で、名前は早瀬川愛美ですって」
愛美は何も言わず、否定して首を振った。
「強引な人?」
かすかに頷き、愛美は「そうかも…」と答えた。
「どうして、彼と会ったの? 彼が強引すぎて、会うことになったの?」
百代の問いに、愛美は立ち止まった。
しばらくの間、足元を見つめていた愛美は、顔を上げて百代に振り返ってきた。
「逢いたかったから…」
その言葉は、百代の胸を打った。
理屈ではなく、愛美は彼を、心の底から愛しているのだ。
そして、いまだ謎の王子様も愛美のことを…
運命…まさしく運命の出会いなのだろう…
「そう。なら、何も心配しない。保志宮さんの方は断らなくちゃね。蘭子に、そのひとのこと言って…」
「だ、駄目なの!」
どうしたのか、愛美は焦ったように叫んだ。
「どうして?」
「どうしても。それに…そのひととは、もう逢わないから」
苦しげな愛美の言葉に、百代は眉をひそめた。
「…釣り合わないの」
百代から顔を逸らした愛美は、ほとんど聞こえない声で呟くように言う。
「愛美の自由だよ」
いまの愛美の発言には、ちょっとがっかりしたが、愛美にすれば当然の葛藤なのかもしれない。
だが、これだけははっきりわかる。
動き始めてしまった運命の恋を、強制的に止めるなんて、愛美本人にも誰にも、けしてできないだろう。
「ヤッホー。櫻井」
百代の呼びかけに、受話器の向こう側にいる櫻井が固まったのがわかった。
『お、お前…なんで? なんの用だ?』
分厚いバリアを築いたような櫻井の声に、百代は吹き出しそうになった。
電話を取り次いでくれた櫻井の母には、「クラスメートです、明日のことでちょっと…」と言っただけで、名乗らなかったのだが、櫻井は、声を聞いてすぐに百代だと気づいてくれたらしい。
「それがさあ、愛美から聞いたんだけど、櫻井あんたMMOのファンなんだってね?」
『あ…そ、それがどうした?』
話がMMOのことだったことに、櫻井は怪訝そうに聞き返してくる。
「私たち今度行くことになってるんだけどね」
『あ、ああ、早瀬川がそんなようなことを言っ…』
「あんたも行かない?」
櫻井の言葉に被せるように百代はさらりと言った。
『…えっ? なんだって?』
「それがさぁ、ひとり行けなくなっちゃったんだよね。蘭子から、一緒に行ってくれるひと探してくれって言われて、いま探してるとこなんだ」
『そ、そうなのか。けど、俺が行くとなったら藤堂は機嫌を損ねるだろ』
「そうでもないよ。それに、蘭子には当日まで黙っとくからさ。あんたが来るなんて思いもしないから、めっちゃ驚かせられるわよ」
『ほお…桂崎?』
「うん? どう行く?」
『お前、何か俺をはめようとか…企んでないか?』
ものすごーく疑わしげな声で、百代は危うく吹き出しそうになった。
「今回のことについては、いっさいそんな企みはないよ。ただ…実は、ひとつ、いやふたつ、櫻井が渋りそうな条件つきなんだよねぇ」
『やっぱな。うまい話すぎると思ったんだ。なんだ、その条件ってのは?』
「つまりね、言い難いんだけど、櫻井が座る席、蘭子の隣なのよ」
『は?』
「やっぱ、駄目かな? 駄目なら、ほかを当たるけど…」
『ち、ちょっと待てよ。行かないとは言ってないだろ』
「えっ、行ってくれんの?」
『条件はふたつだったろ、もうひとつの条件ってのはなんだ?』
「うん。会場までの蘭子の送り迎えもやってほしいんだけど…」
『それだけか?』
「それで終わりだよ。…櫻井、蘭子の隣は嫌だろうし…けど、あんたが条件飲んでくれたら、もう次を探さなくてよくなるし、わたしも助かるよ。…それにさあ、あんたが参加してくれたら、ビックリ仰天した蘭子見られる楽しみもあるしさ」
百代はわざと、けへへと不気味な笑い声を最後に付け加えた。
『よ、よし。乗ってやるよ』
「ほんと。櫻井、助かる。そいじゃ、さっそく当日の予定だけどさ…」
会話を終えて電話を切った百代は、したり顔でクッションにもたれた。
これであとは、当日を待つばかりだ。
しっかし、蘭子の相手が、川田から櫻井に、こんなにもうまいこと交替するなんて…
百代はくすくす笑い出した。
あまりにうまく行き過ぎて、おかしさが込み上げる。
なんか、強力にバックアップされている気がする。
愛美はまだまだ運命の恋に抗おうとするだろうけど、それでも前に進んでゆくだろう。
蘭子と櫻井は…こちらは残念ながら、うまくゆくとは、いまのところ百代には思えない。
頭にぽんと三次の顔が浮かび、彼女は首を傾げた。
あのひとと、わたし…うまくゆくのかな?
ほんのちょっぴり、胸のトキメキを感じてる自分に、百代はしあわせを感じて微笑んだ。
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