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「あー、美味しかった」
お好み焼きを平らげ、百代はごくごくと水を飲んだ。
ふと見ると、三次が彼女をじっと見つめている。
なにやら言いたそうな顔つき。
「なんですか?」
「いえ…」
「言いたいことがあるんなら、はっきり言って欲しいんですけど」
百代を見つめ、三次は仕方なさそうに肩をすくめた。
「…口の端が汚れておいでですよ」
うん? なんだそんなことか。
「どこですか? こっち? それともこっち?」
百代は、自分の口の右と左に指をさしながら尋ねた。
「右です」
頷いた百代は、ペロリと舌を出して舐め取った。
「キレイになりました?」
三次に目を向けた百代は、うんと眉を上げた。
なんでかやたら渋い顔になってる。
まだ汚れてるってことか?
百代は口の右側に舌を伸ばし、今度は丁寧に二度舐めた。
けど、もう味はしない。ってことはキレイなはずだよね。
「ハンカチかティッシュで拭き取るものでしょう?」
小言のように言われ、ようやく三次の考えと言いたいことがわかった。
「別に舐めればそれで済むんだし、ハンカチも汚れないし、ティッシュも使わなくてよくて、資源の無駄遣いしないで済みますよ」
「こういうときのための物なのに、使わないのでは、ハンカチとティッシュの存在理由がなくなりますよ」
真面目な顔で、ハンカチとティッシュの存在理由について述べる三次がどうにもおかしくて、百代は吹き出した。
「桂崎さん」
咎めるような声は、百代の笑いに油を注ぐ。
「確かに、蔵元さんは舐めそうにないですね。でも、私は舐めるんです。観念の違いですよ。だから気にせずにおきましょうよ」
「あなたは…」
「ねぇ、それよりも、話はいいんですか? もういいんだったら、私はこれで帰りますけど」
「これで帰る?」
「はい」
百代は立ち上がり、お好み焼き屋のおばちゃんのところに駆けていった。
「おばちゃん、お会計して」
財布から千円札を二枚取り出して、百代は差し出した。
「ああ、1530円だから、ほい五百円のお釣り。いつもありがとね」
「うん。おまけしてくれて、ありがとぉ」
「桂崎さん、支払いは私が」
百代の後ろにやってきた三次は、ひどく顔をしかめて申し出てきた。
「いいからいいから」
五百円玉を握りしめ、百代は納得していない三次の背を押すようにして店から出た。
「女性に払わせるなど、男としてできませんよ」
「誘ったのはわたしだし。男だ女だってこだわることないですって。ほんじゃ、今日はこれで」
言うだけ言って、駆け出そうとした百代だが、襟首を掴まれて走り出せなかった。
「な、なんで掴むんですか?」
「逃げ出そうとするからですよ」
「逃げ出すぅ? 人聞きの悪い表現しないでくれます。家に帰ろうとしてるだけなのに…」
「何を言っているんです。ご自宅まで車までお送りしますよ」
「こっからなら、わたしの家、目と鼻の先なんです。そこんとこの狭い路地をチャチャーと走るとですね、車なんかより早いんですよ」
「桂崎さん、先ほどのことを根に持っているんですか?」
へ?
「先ほどのって…? ああ、ハンカチとティッシュの存在理由ですか」
「怒っているんでしょう?」
「ははん、蔵元さんの中のわたしって、ずいぶんとチンケなやつなんですねぇ」
「か、桂崎さん」
三次は慌てたよう呼びかけてきた。
「でも、蔵元さんは見込みがありますよ」
「どういうことです?」
眉をひそめて聞き返され、百代はにっと笑った。
「頑固そうだけど、けっこうニュートラルだってことです」
少なくとも、彼は蘭子みたいじゃない。
「あなたは…。ともかく、車に乗りませんか?」
「今日はもういいですよ。蔵元さんとわたしの間には、いま大きな意識のズレが出来てるから、一緒にいたら疲れるだけです」
今度は襟首を掴まれたりしない様に、ピョンピョンと跳ねるように後ろへと下がりながら、百代は三次に言った。
百代の魂胆が分かっているらしく、三次は気に入らないというように百代を見つめてくる。
「桂崎さん、それでは、話を聞かせていただく約束はどうなるんです?」
「次の機会があれば…」
「それでは納得できませんね」
「貴方とわたしがもう会うことがなかったら、聞かなくたっていいわけだし、次に会ったら話すわけですから、充分納得できるでしょう?」
「気になるんですよ。蘭子さんが何を企んでいたのか? そして…保志宮氏と貴方の友達がどこに消えたのかについて、貴方は答えを導き出せたのか?」
「そんなに聞きたかったなら、お好み焼き食べながらいくらでも聞けたじゃないですか」
「それは…」
その答えは、聞かなくたって分かっている。
初めて食べるお好み焼きに、夢中になっていたからだ。
「今日はとっても楽しかったです、少なくともわたしは」
百代はにっこり笑って手を振り、狭い路地へと駆けていった。
やれやれ、蔵元三次、まことに楽しいひとなんだけどなぁ。
頑固頭なところが玉にキズだよ。けど、欠点ってのは、人格の深みにもなるからねぇ。
「百っぺ」
慶介の声が聞こえ、百代は声がした方に顔を向けた。
「およ、慶坊。どっか行ってたの?」
「ああ、これ買いにな」
慶介が見せたのは本屋の紙袋。
「コミック? 新刊でたの?」
「いんや、パズル雑誌」
「ああ、小遣い稼ぎね」
「うん。どうもお袋、そろそろ掃除機が欲しいって言い出しそうだからさ。手に入れとくかなと思ってな」
百代は、笑いながら頷いた。
慶介は、パズル雑誌の景品を当てるのが超得意なのだ。
頭のよさと、百代に劣らぬ勘のよさ。
こいつはその才能を、うまく使ってる。
慶介の頭の良さは、別格だ。
いま百代と同じ高校に通っているのだが、慶介は授業料丸々免除の特待生。
毎回の試験も、ほぼ満点の学年トップだ。
「わたしも仲間に入れてよ。商品券もあるでしょ?」
「いいぞ。その代わり」
百代は皆まで言うなというように、慶介の顔に向けて手を上げた。
「オッケーオッケー。今日のおやつは…」
百代は目をつぶり、空中をくんくんと嗅いだ。
「フルーティーな香りがするな」
「よっしゃ、フルーツケーキあたりだな」
ワクワクした顔で慶介は言い、百代の家に向かって、彼女に先んじて歩き始めた。
「わたし、お腹いっぱいだから、慶坊に八割進呈するよ」
「へぇ〜。どんなご馳走食ってきたんだ?」
「お好み焼き」
「は? 百っぺ、その格好でかよ?」
「うん」
そういえば…
百代は、いまさらながら、自分が最高にドレスアップしている事実を思い出した。
「慶坊、あんたってば、いつもと違うおしゃれなわたしを見てさ、ちょっとは何か言いなよ」
「その話振っても、百っぺ、話してくれるつもりないだろ? だから話題にしなかった」
「あんたねぇ。そういうこっちゃないんだよ。そりゃあ、話はするつもりないわよ。けどさ、この服装についてはさ、おっ、可愛いじゃないかとかさ」
「なあ、百っぺ?」
慶介は、急にマジな顔になった。
「何?」
「お前、頑張れよ」
彼女の意見をまったくスルーした慶介にむっとしたものの、そのマジ顔を見て、百代は眉を寄せた。
「頑張れって何が?」
「いや、色々と。なんか、この先の苦労が見えてな…」
百代は、慶介を睨みつけた。
この脅威の悟り坊主め。
「予感してるよ」
「ああ。だろうな」
百代の家の玄関へと向かいながら、慶介はあっさり言う。
「ねぇ、慶坊」
「うん?」
振り返ってきた頼りがいのある慶介の顔を見て、百代は問う前に気持ちが楽になった。
「うまくいくんかな?」
「ああ。行くさ。…さて、フルーツケーキか否か」
そう言いつつ、慶介は玄関のチャイムを鳴らす。
「はーい」
「おばさーん、こんちはぁ」
「あら、慶介君。ちょうど良かったわ、フルーツケーキが焼けたとこよ」
「おっしゃ!」
ガッツポーズをした慶介は、身体ごと百代に向いた。
「百っぺ、自分を信じろ。俺は必要とあらばいつでもサポートにまわる」
真摯にそう言った慶介は、まるで誓いを立てるように左手を上げ、手のひらを百代に向けてきた。
百代は笑みを浮かべ、右手を振り上げ、ふたりの手を思い切り打ち鳴らした。
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