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「橙子さん」
藤堂家の玄関近くに、橙子がいるのに気づいて、百代は呼びかけた。
「百代さん」
橙子はひとりではなく、藤堂家に仕えている井手と一緒だった。
井手は、橙子と同年齢ぐらいのほっそりとした女性だ。
「井手さん、こんにちは」
井手は笑みを浮かべ、歓迎するように深々とお辞儀をし、一歩下がると「お嬢様、それでは」と言葉を残して屋敷の中へと入っていった。
静かな人だ…
「あの、蘭子は帰りました?」
井手の消えた方向に視線を向け、百代は橙子に尋ねた。
「さきほど戻ってきたのだけど…愛美さんを送っていったわ」
その情報に百代は驚いた。
「へっ? 愛美? もう戻って来たんですか?」
「ええ」
「そうなんですか」
寄り道したはずの保志宮と愛美の方が、先に戻っていたとは…。
しかし、蘭子のやつ、なんでわたしが戻るまで、待っていてくれなかったのだろう?
「あれっ?蘭子、あのままの服で、行っちゃったんですか?」
「百代さん、いったい何があったの?」
「橙子さん、今日のこと、蘭子から何か聞いてます?」
「ええ。櫻井くんて方が、バイトしていらっしゃる喫茶店に行ったのでしょう? それで、蘭はどうして全身びしょ濡れに?」
どうやら、蘭子の姉は、妹からしっかり話を聞かされているようだった。
「蘭子にむかついた櫻井が、頭から水をかけたんですよ」
「あら…」
そう声を発した橙子は、口元に少し笑みを浮かべた。
余裕のある反応で、百代は感心した。
「あの…百代さん?」
「はい?」
「蔵元さんと…お付き合いなさるつもりなの?」
「さあ。分かりませんけど…」
「愛美さんは? 保志宮さんと、これからお付き合いなさるのかしら?」
「さあ。それも分かりませんけど…どうしてですか?」
「歳も偽って、名前も偽名を使っていると蘭から聞いて、なんだか…心配で…」
橙子は、言葉どおり、表情に影を落とした。
「まあ、大丈夫ですよ」
百代が気楽にそう答えても、橙子は気掛かりそうだった。
「百代さん、蘭が戻るまで、中で待っていてちょうだい。さあどうぞ」
百代は言葉に甘え、藤堂家の居間で待たせてもらうことにした。
蘭子に電話してみようと思ったが、お茶を出して橙子からもてなされているうちに、蘭子は戻ってきたようだったが、百代が居間にいると知らず、自分の部屋に行ってしまったらしかった。
「たぶん着替えているのだと思うわ。百代さんがここにいらっしゃることを伝えてくるわね」
「はい。すみません」
橙子が居間から出て行ったのを見届け、百代は出してもらったケーキを頬張った。
すこぶる絶品のケーキに舌鼓を打っているところに、蘭子がやってきた。
「おまたせ」
「蘭子、どうして愛美を先に送って行ったの?」
「どうしてって? 愛美が帰りたがったからよ」
蘭子はそう言って肩を竦め、百代の前に座り込んだ。
「待っててくれれば良かったのにさ」
「保志宮さんが送るって言い出したの。まさか、送っていただくわけにはゆかないから、私がって、そのまま送っていったのよ」
ふーん、そういうことか。
「保志宮さん、ずいぶん愛美が気に入ったようだったわ」
蘭子の言葉に百代は、眉をあげた。
「どうしてそう思った?あのひと、そう思える雰囲気出してた?」
「花束をね。愛美にあげてたわ」
「花束?」
百代はようやく合点がいった。
あの寄り道は、花束のためだったのだ。
「花束ねぇ」
百代はそう呟きながら、唇を尖らせて腕を組み、考え込んだ。
保志宮には、やはり何か裏があるように感じられてならない。
純粋に愛美が好きになったとか、そういう印象じゃないんだよなぁ?
「百代?」
「うん、なに?」
「あなた、分かってる?」
「分かってるって、何を?」
百代の問い返しに、蘭子は苛立たしげな顔になった。
「決まってるじゃないの。次は三馬鹿トリオの番。あいつらをへこます、何か良い案はない?」
「櫻井はもういいの?」
百代の質問に、蘭子は目を吊り上げた。
「いいわけないじゃないの!」
「まあでも、櫻井の報復は、仕方のないことだよ。蘭子はやりすぎだったもん」
「あんたね。どっちの味方よ」
「わたしは…まあいいや。考えとくよ」
百代の言葉に対して、文句を言おうと口を開きかけたらしい蘭子は、口を閉じて眉を上げた。
「あら、考えてくれるの?」
「蘭子、人任せにしてないで、自分も考えるんだよ」
百代から釘を刺すように言われた蘭子は、鼻の頭に皺を寄せ、「わかってるわよ!」と叫んだ。
両親と朝から遊びに出かけ、家に戻った百代は、着替えを終えてクッションに座り込んだ。
今日は一日中、父親に引きずり回された。
行動派な父は、楽しい事を思いつくと、妻や娘まで強引に巻き添えにするからたまらない。
帰るのが遅くなったため、夕食を作るのは大変だろうと、レストランで食べて戻ったから、さらに遅くなってしまった。
百代は大きなあくびをしつつ、机の上においていた携帯を手に取った。
愛美と連絡がつかないまま、すでに日曜日の夕方になってしまっている。
昨日、愛美の家に電話したときは話し中。
その後、夕食を食べて、両親とテレビゲームで遊んでたりしたら、電話しそこねたまま寝てしまったし…
今日は数回電話してみたのだが出かけているらしく、愛美は電話に出なかった。
いったい、どこに行っちゃってるんだろう?
電話が繋がらないからなのか、遊んでいる間も、やたら愛美の顔がちらついてならなかったのだ。
百代が手にした携帯を開いたところで、着信があった。
見知らぬ電話番号だ。それも携帯。
普段なら無視するのに、百代は反射的に携帯を耳に当てていた。
「あ、あのっ。百ちゃん。愛美です」
「うん」
まったく驚きが湧かなかった。
既に知っていたという感覚が、胸にある。
「父に携帯を買って貰ったので、掛けてみたの」
ほほお。
「良かったじゃん。でも、悪いこと言わないから、蘭子には内緒にしときなよ」
「その方がいい?」
「あんたのためにはね」
「わかった。そうする。あ、あのね。メールのアドレスなんだけど」
「うん、もうつけたの?」
「つけた。manami-purin」
百代は、くつくつ笑った。
「愛美らしいじゃん。可愛くていいよ」
「そ、そう?」
「これから、連絡が取りやすくて助かるよ。愛美父にお礼言わなきゃね」
愛美の笑い声を聞きながら、百代は「それじゃーねー」と言って話を終わらせ、折り返し愛美に電話を掛けた。
もちろん、愛美をぎょっとさせるためだ。
「百ちゃん、びっくりするじゃないの」
「電話は掛けるためにあるのよ」
百代は期待した愛美の反応に満足し、話を切り出した。
「それより、今日何があった?」
「な、なんで?」
百代の問いに、愛美はずいぶん焦りを感じたようだった。
「今日一日、あんたがちらつくから、迷惑だったわよ」
「は?…あの…ちらつく?」
「何か聞きたいことがあるんでしょ?何?」
そう口にしてしまったものの、聞きたいことがあるということではないのかもとも思えた。
何かある。愛美の中に、なにやら解決できない何かがある。そういう感覚。
「え…あの、なんの…」
「はい、そこで考えない。頭にパッと浮かんだこと話して。何か困ってるんでしょ?」
困っているという言葉は、百代の胸にしっくりきた。
「あ…眼鏡、失くしちゃって…困ってるけど…」
ふんふん。眼鏡を失くしたのか…
愛美は視力がひどく悪いようだから、ひとりでの歩行は危ないかもしれない。
なぜ失くしたのかと問いを続けようとした百代は、蘭子からのメールが届き、眉を上げた。
どうやら蘭子のやつ、よからぬことを考え付いたようだ。
「ふうん。明日、家まで迎えに行くわ。それじゃあ、おやすみ」
「お、おやすみ」
携帯を切った百代は、蘭子からのメールを開いてみた。
(電話ちょうだい)
メールだけでなく、蘭子は電話も掛けたようだ。
百代はすぐには電話を掛けず、階下に下りて、いちゃついていた両親の邪魔をして父の不興を買い、続いてお風呂に入り、上がってきてから電話を掛けた。
「ハロー」
「百代。なにやってたのよ。大事な話があるっていうのに」
大事とは思えんが…
「はいはい。もう話してるじゃん。何か悪巧み、考え付いたんでしょ?」
「悪巧み?…作戦よ、作戦」
「はいはい。作戦ね」
「もう最高に素晴らしい作戦を思いついたの」
「どんな?」
「内容は明日話すわ。それより、うまくゆくと思う?」
「中身を聞いてないのに、知らないよ」
「あんたに聞いてないわよ。わたしはあんたの勘に聞いてんのよ」
「はああっ?」
百代は思わず声を張り上げていた。
なんじゃそりゃ?
「あんたの勘が、うまくいきそうだと言ってくれたら、今夜、気持ちよく眠れるでしょう?」
「誰が、気持ちよく眠れるのよ」
「もちろん、わたしよ。それで、どう?」
この女はーーーー!!
眠りの気持ちよさまで、こちとら知るかっちゅーの。
「華の樹堂のプリンがあれば、うまくゆくかもよぉ」
百代は、にやにやしつつ蘭子に言った。
「あらそう」
蘭子は明るい声を出した。
「うん。それも、たっぷりあったほうがいいよ」
「わかったわ」
百代の勘とはまったく関係のない情報を鵜呑みにして、蘭子はウキウキしつつ電話を切った。
仰向けにひっくり返った百代は、腹を抱えてケラケラ笑い、気が済んだところで、愛美にメールを送った。
あのプリンに異常な執着を抱いている愛美は、きっと大喜びするだろう。
そして、その反面、大いに危惧を感じるに違いない。
さーて、蘭子がいったいどんな悪巧みを考え付いたのか…
明日が、まことに楽しみだ!
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