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放課後になり、百代は手早く鞄に荷物を詰め込みはじめた。
しかし、櫻井のやつ、いったいいつ、モデルの依頼を愛美にするつもりなのだろうか?
明日、愛美がうちに来ることになったし、その時にモデルのことについて、詳しい話ができたほうがいいのだが…
さっさと櫻井から行動を起こしてくれないと、話が進められないではないか。
そんな文句を胸に、百代は櫻井のほうに目を向けた。
お、およっ、もういない。
すでに空の席を見つめたまま、百代は唇を突き出した。
仕方がない。また今夜電話して、催促…
「百代」
横合いから蘭子が声をかけてきた。
「うん?」
「愛美がいないんだけど」
へっ、いない?
愛美の席を見ると、確かにいなくなっている。
「おトイレなんじゃない? すぐに戻ってくるよ」
愛美が先にひとりで帰るはずはない。
昼休みに、今日は百代の家でおしゃべりしようという話になったのだ。
あの愛美がその約束を忘れるなんてことあるわけないし、百代や蘭子に声もかけずに帰ってしまうなんてことも、絶対にありえない。
さらに、よく見れば、椅子の上に通学鞄だって残されている。
「ほら、蘭子、鞄あるじゃん。トイレだよ」
トイレに行くんでも、愛美は声をかけていくのだが…よっぽど切羽詰ってたんだろうか?
「戻って来ないじゃない」
数分過ぎたところで、蘭子が咎めるように言う。
「お腹壊したのかもね」
一応そう答えたが、なんだかトイレなんぞじゃない気がしてきた。
「ちょっと見てくるわ」
心配になったらしい蘭子が、小走りに教室を出てゆく。
ひとり残った百代は、頬杖をついて考え込んだ。
愛美がひとりで先に教室を出たのは、何かしら理由があったからに違いない。
眉を寄せて、その理由を推理してみようとしたが、勘はまるで働かず、何も思いつかない。
「うーむ」
「よっ」
教室の入口から、悟り坊主が片手を上げてにこやかに声をかけてきた。
「何かあった?」
「おう。いましがた早瀬川が櫻井を追いかけてった。で、藤堂が早瀬川を見なかったかと、藤堂らしく聞いてきたんで、教えてやった」
「なんで、愛美が櫻井を?」
慶介が知るはずがないと冷静に考えればわかることなのだが、予想のつかなかった話で、百代は思わず聞いてしまった。
「さあ、なんでだろうな?」
笑いながら慶介が言う。百代はこくこくと頷いた。
「で、三人が向かった先ってのは、どこなわけ?」
「校舎の一番端の階段を上ってった」
「ありがと」
必要な情報を得て、百代は廊下を駆けて行った。
すぐに蘭子を見つけた。
彼女は手すりに手をかけ、階段の上を見つめている。
百代は蘭子のところまで上って行き、蘭子が目を向けていた方へと視線を向けてみた。
ありょっ!
驚きの光景だった。
上の踊り場で、なんと櫻井と愛美が抱き合って…いや、違うか?
愛美が体勢を崩しでもしたのか、櫻井は愛美を支えようとしているところのようだ。そして、櫻井は、なにやら愛美にぼそぼそと小声で話しかけている。
階段で声が響くことを配慮して音量を抑えて話しているのだろう。櫻井が何を言ったのか聞き取れなかった。
その櫻井の手にはなぜか愛美の眼鏡が…
櫻井はすぐに愛美に眼鏡返し手も離したけれど、眼鏡をかけようとするのを阻むように、愛美の手を握り締めた。
こ、こいつは…
詳細はわからないが、ずいぶんと意味深に映る。
百代は、自分の横にいる蘭子にさっと視線を向けてみた。
蘭子は蒼白になっている。
眼鏡をかけた愛美は、櫻井から逃げるように階段を下りてこようとし、ようやく百代と蘭子がいることに気づいたようだった。
「蘭ちゃん、百ちゃんも……」
百代は軽く手を上げた。
ともかく、このシチュエーションは、悪くなかった。
蘭子は、いまの愛美と櫻井のやりとりに激しく動揺させられている。
「ごめんなさい。すぐに戻るつもりだったの」
「用事は終わったの? 帰るわよ」
百代は何事もなかったかのように愛美に声をかけた。
「うん。それじゃ、櫻井君」
「真剣に考えてくれよな。俺、本気だし。お前じゃなきゃ駄目なんだ。嘘じゃないから」
うひょーっ! 櫻井、なんちゅう、意味深すぎる台詞を…
まるで、君が好きだから付き合ってくれと言ってるとしか思えない。
もちろん百代は、いまの櫻井の言葉から、彼が己の任務を果たしたのだとわかった。
「あ、あのね」
「愛美」
百代は急いで呼びかけた。愛美は言葉を止め、視線を百代に向けてきた。
「蘭子の迎えの車も待ってるし、早く帰ろ」
愛美が頷いたが、蘭子が大きく息を吸い、「わたし…」と口にした。
「今日は……駄目だわ」
「あら、どうして?」
喉が詰ったように言った蘭子に、百代は問いかけた。
「駄目なの!」
叫んだ蘭子は、ハッとしたように表情を変え、すっと背筋を伸ばす。
「わ、忘れてたの。今日は予定があったの。そういうことだから、悪いけど先に帰るわ」
蘭子は早口に言うと、あっという間に階段を駆け下りていく。
「ら、蘭ちゃん?」
蘭子の様子に驚いたらしい愛美が急いで階段を下りてきて、百代の横を通りこして行こうとする。百代は愛美の腕を掴んで止めた。
「百ちゃん?」
「いまは、放っておこう」
引き止められた愛美は、ひどく戸惑ったようだ。
愛美の腕を掴んだまま、百代は彼女たちを見つめている櫻井のほうに顔を向けた。
「櫻井」
「な、なんだよ」
櫻井は嫌々というような返事をする。
「グラビアアイドル愛美のマネージャーはわたしだから。アポイントメントはすべてわたしを通すようにね」
「はぁ?」
櫻井は呆れたような声を上げた。
「百ちゃん、何言って」
反論しようとする愛美の肩を、百代はなだめるように撫でさすった。そして、にっと笑う。
「すべてこのわたしに任せておけば良いのよ。悪いようにはしないって。すべてこの百代にお任せなさいって」
百代の言葉に、愛美は顔をひくつかせる。
「違うでしょ。なんかそれって、根本的に違うでしょ?」
「何が?」
「百ちゃん!」
怒ったように叫ぶ愛美の頭を、百代は脇に抱え込んだ。
「もう、百ちゃんてば、離して」
櫻井が階段をゆっくりと下りてくる。もちろん彼は愛美でなく、階段を駆け下りていった蘭子が気になっているようだ。
「あのさあ」
「櫻井、なあに?」
じたばたし続けている愛美を押さえ込みながら、百代は櫻井に返事をした。
「いや、藤堂、どうしたんだろうと思って。……ところで、お前ら、いつからここにいた?」
「わたしと蘭子には、時差があったとだけ言っておこう」
意味ありげに言った百代は、わざとらしい笑い声を上げてやった。
櫻井には、いまの愛美とのやりとりを見られたことで、蘭子に愛美との仲を誤解されたのではないかと気づいて欲しいが…
「お前、わざとだろ。わざとそうやって俺を怖がらせて、面白がってるんだ」
およよっ。ちょっと薬が効きすぎちまってるようだ。
いまは、そっち方面、どうでもいいんだけどなぁ~。
「櫻井、いいこと。あんた、わたしになんか気を取られてると、大事なもの見過ごすわよ」
百代の言葉に、櫻井はぐっと眉を寄せた。
「な、なんのことだよ?」
「わかってるくせに」
「わっかんねーよ!」
怒鳴り返してきた櫻井に、百代はがっかりした。
なんだこいつ、ほんとにわかっていないようだ。
やれやれだよ…
百代は内心首を振り、櫻井など無視して抱え込んでいた愛美の頭を解放した。
「さ、愛美、帰ろ」
愛美は文句を言うこともなく、おとなしく百代についてくる。
「愛美、よくやったわ。明日は、何かおいしいもの食べようね」
役目を充分に果たした友達を、百代は心を込めてねぎらう。
「何?」
愛美の返事に百代は眉をひそめた。
なにやら様子が変だ。まるで愛美らしくない。
「あんたどうしたの?」
突然、愛美が顔を覆い、泣き出した。百代はびっくりした。
「こいつ…どうしたんだ?」
階段の途中で立ち止まったままの櫻井が問いかけてきた。
「俺のせいとか…じゃ…ないよな?」
自分のせいなんじゃと思っての問いのようだった。
「まあ、違うんじゃない」
正直、愛美がなんで泣いたのか、百代にだってわからない。
「お前って、どうして必要な時に限って、そういう風にひとを不安に陥らせる曖昧な言い方するんだよ」
「大袈裟ね」
大声で喚く櫻井に、百代は呆れて言った。
「櫻井君のせいとかじゃ…ないから」
俯いた愛美は、ぼそぼそと言う。泣いてしまったのが恥ずかしいらしい。理由はわからないが、涙も止まったようだ。
「どう、落ち着いた?」
「うん」
「よし、ほんじゃ、帰ろう」
百代は愛美の腕を取って歩くように促した。
櫻井から離れないことには、聞きたい話も聞けない。
「なあ、早瀬川」
歩き出したところで、櫻井が呼びかけてきた。
愛美は嫌そうに櫻井を振り返った。
「さっきの話、真面目に考えといてくれよな」
「嫌よ、モデルなんて……」
「櫻井、だーかーらー。わたしを通せって言ったはずよ」
「なんでお前が介入してくるんだよ。早瀬川のことなんだから、彼女が自分で決めることだろう」
百代は櫻井に呆れた目を向けた。
「あんた、存外、察しが悪いわね」
「はあ? 察しが悪いだぁ」
「直接愛美と交渉したら、百パー断られるに決まってるじゃん。それを、わたしが説得してやろうと言うのよ」
「お前、説得してくれるのか?」
櫻井ときたら、やたら嬉しげに言う。
おかげで百代は、愛美の反感を買ったようだった。
「百ちゃん、何考えてるのよ。わたし、そんなものやりはしないわ」
「まあまあ」
百代は両手を上下させ、愛美をなだめた。
「この話は、いまはこれでおしまい、ねっ?」
「百…」
まだ反論してこようとする愛美のおでこを、百代はぺチンと叩いた。
愛美は唇を尖らせて、おでこを押さえる。
百代は櫻井に顔を向けた。
「物事には、適切な時というのがあるの。わかる? 櫻井」
相当にむっとしたようだったが、とりあえず、櫻井は何も言ってこなかった。
不服そうな愛美を連れて、百代は階段を下りていった。
第二段階も、無事修了したと思って良さそうだった。
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