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「蘭ちゃん、…いいのかな?」
昇降口に向かう途中で、愛美が言った。
あんな風に帰ってしまったものだから、ひどく気にしているようだ。
「いいのよ」
百代はあっさり言った。
愛美は百代にちらりと視線を向けてきたが、すぐに前に顔を戻した。
「蘭ちゃんは、櫻井君のこと…」
「自覚したんじゃない。でも否定するだろうけどね。自分に」
蘭子はまだまだこれからだ。
先ほどの愛美と櫻井のやりとりを見て、自分が抱いた感情に、蘭子は衝撃を受けたはず。けど、櫻井を好きだという気持ちを、蘭子は自分自身に認めさせようとはしないだろう。
「自分に?」
「うん。自分に」
百代は愛美に答えたが、そんなことよりも、愛美が泣いた理由が気にかかる。
「ところで、さっき愛美が泣いたのは、彼氏がらみ?」
「あ……」
愛美は気まずそうに俯き、顔を赤らめた。言い難そうにしていたが、話し始めた。
「うん。電話来たのに……不在着信になってて……気づいたのが、さっきで、五分後で……」
つまり、十分くらい前に、アメリカに行っちゃってる彼から電話が来たってのに気づけず、失意のどん底に落ちて、泣いちゃったわけか…
うきょー、健気ってか、可愛いったらないよ。
「かかってくるよ」
百代の言葉に、愛美は目を見開いて「ほ、ほんと?」と聞いてくる。
「うん。感じるから」
まあ、感じるってのは嘘じゃない。
頭頂部のちょい右あたりがぴりっぴりするし…
それに、一度かけて相手が出なかったなら、それがどうしても声を聞きたい相手の場合、まず十分から十五分ほど時間をおいて、またかけようとするもんだ。
「いつ、いつかかってくる?」
愛美ってば、まるでわたしは、電話がかかってくることを予知できるとでも思っているようだね。
「それはわからないわよ。でも、そろそろじゃないの」
苦笑しつつ言った途端、愛美は焦って携帯を掴み出す。そのさまも、ずいぶん愛らしかった。
愛美は手のひらの携帯を、いまにも鳴り出すと期待するかのように見つめ始めた。
やれやれ…
「ね、歩きながらにしなよ」
愛美の背中に手を当てて前へと押しながら、百代は言った。
「あ、うん」
携帯に意識を集中させたまま、愛美は歩き出した。
「それでさ、モデルのことだけど。やらなきゃ駄目よ」
「あ……うん」
ちょいとぼんやりした返事だったが、ともかく肯定の言葉だ。
「よしっ、そうこなくちゃ」
さーて、これから忙しくなるぞぉ。
コスプレするキャラは決定してっけど、衣装を取り寄せなきゃならないし、靴とか、色々と小物も揃えなきゃならない。まずはネットで、しっかりとクリスティーをチェックしなきゃね。
「撮影用の服は、わたしが用意するから。あんたは安心して、全部わたしに任せてればいいからね」
「あ……うん? 何?」
夢から覚めたような表情で愛美は瞬きし、どうしたのか眼鏡を外した。そして、ひとさし指で瞼をぐって押さえる。
それら一巡の行動の意味がはじめわからなかった百代だが、愛美の携帯を目にし、ようやくぴんときた。
ま、愛美ってば、瞬きもせずに、携帯をがん見してたんだ。
彼氏から電話が来るのを、一心に待ってて…
こいつは、もおっ、いじらしいどころじゃないよ。
あー、他人の恋路なのに、わたしの胸がきゅんきゅんしちまうじゃんかぁ。
しかし…てことは愛美、わたしがくっちゃべってたこと、この様子だとまるで聞いちゃいなかったのか?
だな。それで、うん、うんと、ぼんやりめの返事してたんだ。
「百ちゃん、いま、何か言った?」
百代は、愛美に向けて微笑んだ。
「わたしに任せろって言ったの。わかった?」
「任……せる……?」
きょとんとした顔で繰り返す。
百代はにっしっしと胸の内で笑った。
いまさら遅いのだよ、愛美君。
眉をひそめて見つめてくる友に向けて、百代は言った。
ちりっと微かな振動を肌に感じ、百代は愛美の携帯にすっと視線を当てた。感じたとおり、着信の光が点滅している。
「来たよ」
「えぇ?」
百代の言葉に、大きく反応した愛美は、「えぇ?」と驚きの声を発し、携帯に目を向ける。着信を確認したその目は、大きく見開かれた。そしてその口元が大きく花開く。
「き、来た」
叫んだ愛美は、携帯を前にぐっと突き出す。
興奮しすぎたために冷静さを無くし、自分が何をやっているのかわからなくなっているようだ。
やれやれだよ。
恋する乙女ってのは、愚かで可愛いねぇ。
しかし、せっかく待ちかねていた電話がかかってきたというのに、かかってきた事実だけに興奮して、電話に出ることを失念しているんじゃ、本末転倒だよ。
百代は愛美を落ち着かせてやろうと、肩を叩いた。
「ゆっくり話しなよ。わたし、先に帰るから」
愛美が我を取り戻したのを確認し、百代は校門へと走り出した。
「百ちゃん、ありがとう」
後ろから飛んできた愛美の声に手を振り上げて応えた。
「も、もしもし」と言っている、愛美の声が、最後に聞こえた。
恥かしさが混じった、しあわせそうな声に共感し、百代の胸にも至福感が湧きあがってきた。
「スーパー銭湯?」
夕食をパクパク食べながら、百代は父に問い返した。
「半額なんだってさ。明日と明後日の二日だけ」
スーパー銭湯のチラシを娘に見せながら、目をキラキラさせて父が言う。
こういうの大好きだからなぁ。
「ふーん、そりゃ安いね」
新しい建物だからきれいかもしれないが、混み合うに決まってる。
あんまり人ごみって好きじゃないんだよね。
「モモも一緒に行くか?」
「モモは明日、愛美ちゃんが来るのよ」
「なんだ、そうか。そうだ、なら彼女も誘ってはどうだ? 行きたがるかもしれないぞ」
愛美とスーパー銭湯?
百代の脳内では、あまりありえない取り合わせだ。
蘭子の姉の橙子と同じくらい、ありえない。まあ、蘭子もありえないが、蘭子の場合、ありえないの意味が違う。
「明日は予定があるんだ。これからの計画を立てなきゃならないの」
「計画ってなんの?」
「学園祭の催しのだよ。これから色々と忙しくなりそうなんだ」
「学園祭か、楽しそうだな。ママ、ふたりで遊びに行こうか?」
「ええ、いいわね」
そのあと両親は、自分たちの学園祭の思い出で盛り上がりはじめた。
その思い出話は、聞くに値する面白さだった。
「昔の高校生は、案外ハードだったんだねぇ。びっくりだよ」
ステージの出し物で最優秀賞を取り、盛り上がりすぎた勢いで、興奮したまま校長室に雪崩込み、校長先生に万歳三唱を強制したというツワモノたちの話に、百代は笑いこけた。
そのツワモノの中には、当然父も入っていた。
この父、へらへらしつつ、武勇伝は数知れないようだ。
父の親友はマッチョなやつが多いが、この父には、マッチョさのかけらもない?
まあ、マッチョな父が欲しいってわけじゃないのだが。
ちょっと矛盾を感じるだけ。
だって、マッチョさんたち、父を、自分たちのリーダーみたいに扱うんだもんな。
単純なようで単純じゃない父。
百代の知らない面を、まだまだ持ってるってことなのかもしれない。
まあ、この父に負けないくらい、今度の学園祭、わたしもはっちゃけて楽しんでやるとしよう。
まずは、コスプレ衣装の発注だな。
寝る前に注文しとこう。愛美のサイズに合わせて注文してしまえば、愛美はもう断れないに違いない。
百代は、愛美のことを考え、宙に目を向けた。
付き合い始めてまだそんなに経ってないというのに、彼氏がアメリカに行っちゃったんじゃ寂しいはずだ。
愛美の話だと、一か月くらいで帰ってくるってことだったし、学園祭でわーわー騒いで気を紛らせてれば、一か月はあっという間な感覚になるだろう。
うーん、これがいいかな。
ちょっとお高いけど…布地の質もいいし、作りもしっかりしてて、一番良さそうだ。
パソコンの前にパジャマ姿で座り、百代はにっこり微笑んだ。
このショップの店長さんは、商売をとっても楽しんでるようだ。
それはとても重要点だ。
売り買いや、収入ばかりに意識がいっちゃってるひとは、そのひとの性格が良い悪いに関係なく、お客に満足を与えてくれない。
もちろん、商売ってのは儲かってなんぼだ。でも、楽しまなきゃダメ。
コスプレネットショップの画面を眺めていた百代は、可愛らしいアイコン表示を見つけ、にっこり笑った。
「よし、こいつを発注しよう」
注文確定ボタンを押した百代は、パソコンの電源を落とし、ベッドに潜り込んだ。
呼び鈴が鳴り、百代は急いで愛美を出迎えた。
「こんにちは」
「さあさあ、お入りよ」
靴を脱いで上がってきた愛美を促し、百代は自分の部屋に向かった。
「百ちゃん、おば様とおじ様は?」
愛美の問いに、彼女は振り返った。
「朝っぱら早くから一緒に出かけてったよ。なんか、新しいスーパー銭湯ができたとかで、今日と明日は、半額なんだってさ」
「スーパー銭湯?」
言葉のイントネーションが、明らかにおかしかった。
愛美は、スーパー銭湯がどんなものか知らないのだ。
百代は立ち止まり、愛美を見てにやついた。
「百ちゃん、なあに?」
訝しげに聞いてくる。
「いんや、スーパー銭湯がどんなものかわからないでいるあんたが、面白くってさ」
「お、お風呂なんでしょ?」
ちょっとむきになって言う。
「確かにお風呂だよ。スーパーだけどね」
「お買物ついでに、お風呂に入るの?」
愛美ときたら、本気で言ってる顔だ。
ぐっと笑いが込み上げてきた。
こりゃ、た、たまんない。
「ぶっはっ!」
派手に吹き出した百代は、腹を抱えてしこたま笑いこけたのだった。
いやー、愉快、愉快。
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